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「ヘイ!!にゃん♡」「ワンピース心中」のMV監督 古賀学氏の魅力

まずは、二つのMVをご覧いただきたい。






僕は最近、さよポ二がちょっと気になり始めている。元々「いろはにほへと」が何となく良いなあと思っている程度だったのだけど、最近では他の曲もYouTubeに上がっているものを漁っている。そして、その中で最も衝撃を受けたMVが「ヘイ!!にゃん♡」だった。「ナタリー」とか「新世界交響楽」のMVみたいなセンスも好きなのだけど、インパクトはこのMVが一番だった。

だって、何よりとっても変態臭い(褒め言葉)。小学生の時に着衣水泳をしているときには何も思わなかったけれど、服を着て水に入るということは、何だかいけないことをしているようで、とっても変態臭い。しかし、確かにそこが可愛い。

で、変態臭いなあという旨をツイートしたところ、MV監督の古賀学さんにRTしていただいて、晴れて誰がこの超変態チックな発想をしたのかが判明したわけ。いやあ、素晴らしい!

そして、なんとんと、アーバンギャルドの「ワンピース心中」のMV監督でもあることがあることが発覚し、更に素晴らしい! というか、何でワンピース心中のMVを何度も見ているのに気付かなかったのだろうか…。

「ワンピース心中」はは題名からも分かる通り「心中」がテーマになっている。太宰治に関連する「玉川上水」とか「グッド・バイ」とか「斜陽」とかいうキーワードが出てきてとっても好きな曲なのです。

心中=入水 というのは、日本人のイメージの中にあるのでは無いだろうか。僕は今「自殺と文学」というテーマで色々考えているんだけど、このイメージは面白い。そして、「ワンピース心中」ではそのイメージ通りに、よこたんが水中で様々な自殺を試みているわけで。そのMVを実現できたのは、古賀学さんのおかげということなのですね。

古賀さんは現在取り組んでいる水中ニーソのPVも見たんだけれど、これもまた何とも変態臭い。もっともっと、この方面で活動を頑張ってほしいなあと思う。

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柴崎友香「春の庭」を読んで思うこと。

『文芸春秋』2014年9月特別号掲載の柴崎友香「春の庭」と氏へのインタビュー、および選考委員の選評を読んだ。以下、その雑感を書きつけていこうと思う。物語の構成とかは書きますが、物語の重要な部分についてはたぶん書かないと思います。


まず読んで思ったのは、なんだか疲れるなあということだ。それは、芥川賞の選考対象になるような作品(あるいは作家)に独特な雰囲気なのかもしれない。ここのところいわゆる大衆向けの作品ばかり読んでいる節があるので、そちらに感覚の拠り所があるせいなのかも、とも。

また、急いで読もうと思ったのがいけないとか、姿勢が悪かったとかはあるかもしれない。……などと書いていると、本当に作品の評価というのは文脈に影響されるなあと思う次第です。三日くらいっかけてゆっくり読んだなら、また評価が違ったのかもしれない。

しかし、決して退屈ではなかった。いや、本当のところ言うとちょっと退屈だったけど。しかし、それを上回るパワーがあったように思う。物語の冒頭で一応の「謎」は用意されているし、それにそってストーリーが展開していく。物語の構成ということも、しっかり考えられているんだなあと感た。

一番興味深いなと思ったのは、太郎に対する自分のイメージ。三人称視点で語られていて、心情なんかにも入り込んで描かれている前半と、お姉さんの目線で描かれる部分とではかなり印象が違ってくる。この違いは一体何だろうと疑問に思った。見る角度によって物事は違って見えるのだという、本当に当たり前で何度も繰り返し言われてきて陳腐なことを、改めて実感した。

というか、この小説の人称って一体どうなっているのだろう。三人称視点で語られているかと思えば最後の方で「私」(=太郎の姉)視点になって、そして知らないうちにまた三人称視点に戻っていく。矛盾なく解決しようとするならば、きっと、これはお姉さんの一人称視点での話なのだろう。まあ、そのお姉さんが太郎の生活を全て知っていて、巳さんの過去も西さんの過去も全て知っているというのはおかしな話なのだけれども…。でも、そういう全知の存在としてお姉さんを仮定すると、物語全般、特に後半部で違った読み解き方をすることが出来るのではないだろうか。


ところで、選評を読んでいると「カメラみたい」「写真みたい」というような表現がたくさん出てきた。柴崎さん自身も、そういう指摘をされることが多くある、というようなことをインタビューで書いている。僕が疲れた原因はここにあるのかもしれないと思った。

柴崎さんも好きだと言っている漱石は、なんでもかんでも書きすぎる傾向があるような気がする。それも、無意味な情景を。東京の地図が頭に入っていない僕にしてみれば、東京の地名がどうだとか、本当にどうでも良い話なのだ。その点、僕の好きな太宰はそういうのを排除して、自己の内面の重要事だけを活字として残すように努めている気がする(本当に、気がするだけかもしれない)。

「意味」というものを考えてしまうと話がややこしくなるので詳しくはしないけれども、簡単に言うと、僕は意味のないものを極力排除してほしいと思う人間だ。カメラで撮ると、別に表したくなかったものまで写ってしまう。それは意図して排除したいと思ったものではなく、無関心なものが紛れ込んでしまうということだ。普通の作家は、意識したものしか書けない。それは柴崎さんだってそうだろうけど、彼女は意図していないものも書いているように見せているのだろう。それが彼女の優れているところなのだろう。僕は積極的には評価しないけれど。


しかし、選考委員の仲が悪いんじゃないかと選評を読んでいらぬ心配をしてしまった。そういえば、僕は選考委員の小説をほとんど読んだことがない。宮本輝の『青が散る』、小川洋子の『博士の愛した数式』くらいではないだろうか。おお、もっと積極的に読まなければ。彼等の中にどのような対立があるのかを知ることも、ミーハー趣味ではあるけれど、おもしろそうだ。

群像新人文学賞を受賞したと話題で名前だけはよく聞いていた「吾輩ハ猫二ナル」はあまり評判がよろしくなかったようで。ずっと気なってはいるので、機会があればいずれ読みたいと思っている。


今回は適当に書きつけただけなので、いずれまた思うことがあれば、しっかりした感想でも書きたいなあと思っている。

若者言葉「さある」形について、アンケートのお願い

大学の期末レポートで若者言葉「さある」形の研究をしています。
名詞化する働きをする接尾辞「さ」+動詞「ある」の形をこう呼ぶこととします。近年、Twitterなどでこの形をよく見かけるので、調査してみようと思った次第です。

5~10分程度で終わると思いますので、「さある」形の使用実態に関する調査にご協力ください。
アンケート結果は研究に使用させていただきます。また、このブログでも結果については報告させていただこうと思っております。

何卒、よろしくお願いいたします。

アンケートはこちらからお願いします→http://enq-maker.com/7X3pO9Y

(2014年8月7日16:10追記:アンケートを締切りました。ご回答いただいた皆さん、誠にありがとうございます。結果の考察については後日報告させていただきます。なお、上記リンクはアンケート結果へのリンクへと切り替わりました。)

次にブレイクするのはこのキャラかも!?噂の「しらす隊」が鮮烈デビュー!

サンエックスの次なるヒットキャラクターになるか?


  


先日、サンエックスのHPにてしらす隊のグッズ化が発表されました。


変わり種キャラとしては、既にサンリオの「KIRIMIちゃん.」や「ぐでたま」といったキャラクターがブレイクを果たしています。

もしかすると、しらす隊もその波に乗ってくるかもしれないですね。


今回紹介されたのは

・しらす(ノーマル)
・レギンスしらす
・ほっかむりしらす
・エビ
・カニ
・ネコ

の、計6種のキャラクター。
※ちなみに、しらす(ノーマル)は複数匹いるようです。


 
しらすが大量に……ネコは天敵のようです。



各々のプロフィールも興味深いですのですが、最も目を引くのは強さの数値。

しらす(ノーマル)では
 ・足のはやさ  30
 ・チームワーク 50
 ・忍耐力    80
 ・野生のカン  40
 ・方向感覚   5
といった具合です。

なかなか細かい設定ですね!


★ 詳しくはこちら
  →「ご飯にのってる場合じゃない!」サンエックスの新星「しらす隊」がついにデビュー


待望のグッズは10月初旬に発売予定なんだとか。
詳細の公開が待ち遠しいですね。



◆補足
ちなみに当ブログでは今年2月に掲載した「サンリオ&サンエックスという会社~定番キャラと新キャラ」という記事で既にしらす隊の紹介を行っていました。

当時もかなりの反響があったので、これからのしらす隊の活躍には益々期待できそうです。

角田光代『八日目の蝉』を読んで。「におい」が少し気になった。

八日目の蝉 (中公文庫)



本作は主に1章と2章の二つの章で語られる。0章も冒頭に付されているのだが、これは1章と同等に扱って構わないと思う。

粗筋をざっと記述しておこうと思う。
物語は主人公がとある夫婦の家に侵入するところから始まる。ある事情からその夫婦と子どもに深い思い入れのある女性が、その子どもを一目見ようと侵入するのだ。しかし、女性はその子供を見ているうちに感情を抑えきれなくなり、子どもを融解してします。彼女は様々なところを逃げ回る。友人の家に行き、不思議なおばさんの家に行き、女性だけで集団生活をしている施設に二年ばかり落ち着く。しかし、捜査の手が伸びてきて、彼女はその施設から逃げ出し、小豆島で暮らすことになる。はてさて、その後はどうなるか……。

二章は、一章を受けてその誘拐された赤ん坊が成人してからの話になる。赤ん坊だった女性は自分が誘拐されたことがあると知っており、そのことについて悩みを持っている。そこへノンフィクションライターの女が現れ、自分が誘拐された女と一緒に住んでいたところを回ることになる。


この小説で1章と2章、どちらに重点を置いて描かれているのかといえば、僕は二章の方だと思っている。というか、構造上2章は1章を受けた形でないと意味を持ちえない。だから、1章がある意味まくら的に見えてしまうせいかもしれない。

2章では、1章に出てきた誘拐された女のようにはなりたくないという気持ちが働く。しかし、物心がつき始めたころには母親だと思っていた人物から離れることはやはり苦しいことなのであろう。現代として描かれている主人公がそのようなことを思う描写はないが、回想の中で、それをにおわせるような描写が散見される。

夏目漱石の『こころ』は第三章以外はまくら的なもので、やはり三章が重要なのだと言う話をこの間聞いた。それと似たようなものだろうと勝手に考えている。

さて、僕らはきっと、この小説を読んで、自分が同じ立場に立ったらどういう行動をするだろうかと考えなければならない。きっと、そういう性質の小説なのだと思う。例えば、愛する人に別の女の子どもができたら? もしその子どもを攫ってしまったら? そして、捜査の手が伸びてきたら? あなたなら、どうするだろか。

また、誘拐された赤ん坊の立場に立つことも可能である。誘拐されたことによって、彼女は幸せな家庭で正しく育つことを阻害されてしまった。根本的に悪いのは、きっと犯人である。しかし、犯人だけが悪者なのではなく、家族にも悪いところがあるのだということに赤ん坊だった女性は気付いている。

結局、物事は善悪は割り切ることができず、だいたいの人間はしょうがなく悪いことをやってしまうことがあるのだという風にしかできないのだが、この小説には、それを再認識させる力がある。ああ、自分も同じ状況に立ったら、同じようなことをするのだろうか。それは嫌だけれど、けど、きっと同じことをするのだろう。そういう諦感が僕を包んだ。このような状況になくて、本当に良かったと思う。


ところで、僕はこの小説を読んでいて気になったことがある。
それは、「におい」である。
1章の主人公は、誘拐した後に逃げ込んだ老婦人の家がどこか奇妙なことに気付く。その奇妙さを引きずりながら、誘拐してきた子どものおしめを替える。その匂いに老婦人が過剰に反応するのを見て、あることに気付く。

 そうして気がついた。この家はにおいがまったくしないのだ。玄関を入っても廊下を進んでも、なんのにおいもしない。私が抱いたあのへんな感じは、そのせいだったのかもしれない。(p.49)

また、今度は誘拐された女の子薫の感覚として、次のようなことも語られる。

 車を降りて、あ、においがなんにもしない、と思った。ずっとかいていたにおいが、あのとき、ぱたりと消えてしまった。(p.220)

この他にも「におい」に関する記述が散見される。もちろん、小説の中ににおいの記述があっても別に構わないのだが、この小説では特ににおいというものにこだわって書いてあるような印象を受けた。まず、最初のにおいに関する記述が印象的だ。においがしないから、変な感じがする。これは僕らが生きるうえに置いて、さほど意識しないことではないだろうか。それなのに、においを引き合いにだしている。

詳しく考察することはしませんが、少し気になっているところではあります。文学における「におい」の意味というものを考えても面白そうですね。

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吉田修一『横道世之介』を読んで

横道世之介 (文春文庫)



横道世之介の青春はキラキラ輝いて見えた、というのが僕の率直な感想である。友達もそれなりにいて、恋して、彼女もできて。結構充実している部類なのではないかと思う。

だいたい、なんで小説において大学の登場人物は入学してすぐに友達ができるのだろうか。僕にコミュニケーション能力が欠けているのか、世之介みたいなのが普通なのか。まあ、どっちかはわからないけれど、少なくとも輝いて見えたことは事実である。

大学一年生の頃、僕はこのような生活を送ることができていただろうか? 世之介はバイトを頑張っているけれど、そういえば僕はろくにバイトなんてしていなかった。友好関係についてはどうか、恋愛についてはどうか、等々いろんなことを世之介と比べてみる。

しかし、よくよく考えてみれば、僕も世之介と対して変わらないような大学生活を送ってきたのかもしれない。そりゃあ、友人が妊娠して大学を中退するなんて大事件はなかったけれど、それでも、それなりに楽しい生活を送ってきた。他人の生活というものは、羨ましく感じてしまうものなのだろうか。


さて、少し構成面に言及しておきたいと思う。
個人的に思うのが、世之介意外の登場人物にほとんど必然性が感じられないということだ。というか、忘れ去られているような気がする。お隣さんは最初に出てくるとあとはほとんど出てこないし、阿久津結もあまり出てこなくなってしまっている。その割に、祥子は最後の方でうんざりするくらい出てくる。祥子は、ヒロインという位置づけになっているのだろうか? だとすると、描き方がちっともヒロインらしくはないなあと思う。

ただ、それはこの物語が世之介の物語であるのだということを強調しているような気がする。世之介にとって、やっぱり他の人の人生などというのは関係のないことなのだ。どんなんに親しく喋っていても、お隣さんであること以外に接点はないし、冷房を借りる以外に用事がない友達がいたっていい。

もう一つ構成面でいいなと思ったのが、登場人物たちの未来が描かれていることだ。これが物語に心悲しさをプラスしている。大人になってしまった登場人物たちはどこか疲れてしまっている。それは、文章に漂う雰囲気からもわかるし、彼らの言動からもわかる。達観して、疲弊している。これと対比することで、青春の輝きが強調される。


吉田修一は『パーク・ライフ』で芥川賞を取っておきながら、こういうライトな作品も書ける凄い作家だと思います。『パーク・ライフ』は以前読んだことがあるのですが、あまり覚えていないので、今度また読んでみようかと思います。


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村上春樹『東京奇譚集を読んで』

村上春樹氏の作品を手にするのはこれで三度目である。ここまで来て、未だに村上春樹氏の魅力がわからない。
これまで読んだ作品はデビュー作である『風の歌を聴け』と短編集『パン屋再襲撃』である。そして今回、『東京奇譚集』を手に取ってみたわけである。

魅力がわからないと書いたものの、面白くないというわけではない。最初から「僕=村上はこの文章の筆者である」なんて言ってしまうところはとても面白いと思う。この書き方は、ある議論を呼ぶだろう。

つまり、「僕=村上」としているが、本当に「僕=村上」としていいものだろうか。小説世界があるのだから、この中の村上春樹氏と実存の村上春樹氏は違う人物として扱わなければならないのではないか。しかし、小説の本題に入る前のいわば導入部がエッセイ的に描いてあるのだから、それが適用されないかもしれない。ところで、エッセイに出てくる筆者本人は、本当に筆者本人としていいのか、等々。

まあ、そういう面白みも踏まえて、以下5つの短編にそれぞれに感的なコメントをつけてみる。そうすることによって、この短編集に僕なりの感想を付してみたいと思う。


「偶然の旅人」
 上にも書いたように、初っ端から「僕=村上」なんて言うものだから、これは面白そうだと思った。直前に読んだのが三浦しをんの『まほろ駅前多田便利軒』だったのだが、こちらにも同性愛関連記述の関連があって「偶然の旅人も」ゲイの話だったので、同性愛に関する問題意識が高まっているのかなあと感じた。

ここでは、タイトルにもある「偶然」が奇譚である。最初は「僕=村上」の偶然の話をして、それに関連する形で彼の友だちである男性の「偶然」が語られる。

隣の人が同じ本を読んでいるだとか、病気の話をしていたら姉が同じ病気にかかっていたとか。そういう偶然がこの小説の中で語られる。そういう偶然って、そういえば僕らの周りにもありますよね。試験会場とかでちょっと仲良くなった子に共通の知り合いがいたりだとか、テレビでカレーが映ってて「カレー食べたいなあ」と思ってたらその日の晩御飯がカレーだったりだとか。

そういう偶然って、ただの偶然と考えることもできるけど、何か不思議な力が働いているのかもしれないと考えるのは、非常にロマンチックで素敵だと思う。


「ハナレイ・ベイ」
自分の肉親が死んだらどういう気持ちがするのだろう。それも、まだ死ぬべきときではないときに、事故で死んだならば。そういうことを考えながら読み進めた。サチが毎年ハナレイ・ベイに行くのは、命日に墓参りに行くようなものかもしれない。灰を持ち帰ったとしても、息子の魂はそこにあるということだろうか。それならば、息子の霊(のようなもの)がまだその浜辺にいることも納得できる。

途中に出てくる大学生二人組は、やはり息子との対比としてあるのだろうか。自分の息子のようにちゃらんぽらんとした大学生を見て、サチコは色々と考えるところがあるだろう。

というか、この小説の登場人物たちは非常によく似ている。みんな、先のことなんて考えちゃいない。大学生二人組は、ハナレイ・ベイに来てどうしようか考えていないというレベルで、将来のことは割としっかりと考えているようだが、サチコの人生はふらふらとしている。現時点ではしっかりしているけれど、「ふらふらしている」というところに共通項がありそうだ。


「どこであれそれが見つかりそうな場所で」

これは、どこで切ったらいいのかわからないという遊びをタイトルでしているのだろうか。最後まで読めばわかるが、「どこであれ、それが見つかりそうな場所で」とおいう風に読む。しかし、僕は最初みたときに、「どこで、あれそれが見つかりそうな場所で」という風に読んでしまった。確かにおかしな日本語になってしまうのだけれど、村上春樹氏なら、なんだかそういう破綻は気にしなさそうという偏見を持っている。

これは本当に謎であり、奇譚の話である。一般的な神隠しの話のように思われるが、その神隠しの原因が一切わからない。昔話に出てくる神話なんかは、だいたい誰のせいで神隠しにあったか分かるようになっている気がするのですが……。

この短編集においてこの三つ目の奇譚が最も大きな奇譚であるという風に僕は思っているのですが、どうもダイナミックな話になっていない。それは、冒頭であっさりと男が消えてしまっているところに原因があるのだろう。しかも、見つかるのもあっさりしている。

エンタメ小説であれば、ここでどうして人が消えるのかということが分かるところまでいくのでしょうが、そうはしないのが村上春樹氏だということでしょうか。


「日々移動する腎臓の形をした石」
父親の言った言葉が印象的。「男が一生に出会う中で、本当に意味を持つ女は三人しかいない。」主人公は、この「女」というのを絶対に恋愛対象だと終始決めかかっているのですが、もしかしたらそうではないのかもしれないですね。もしかすると、最初の一人目は絶対に自分の母親であるのかもしれない。恋愛というものに、重きを置いているのがわかります(あるいは、分かりにくい皮肉かもしれませんが)。

とりあえず、生き方がいちいちかっこいいんだよなあという印象。それは、男にしても女にしても。これは、ある雰囲気を持った世界に飛び込んでいくための小説なのかもしれないと思う。


「品川猿」
人間にとって、名前とは何か。個体を識別する標識であるはずなのだが、どうしてもそれ以上の意味を求めたがる。消しゴムの裏に好きな人の名前を書いて、それをばれずに使い切れば、恋愛が成就するという。そんな昔やったおまじないからも、名前がある重要な意味を果たしているということがうかがえる。

はじめは「日々移動する腎臓の形をした石」が面白いと思っていたけれど、いざ冷静に考えてみると、「品川猿」が一番面白かったかもしれない。いや、面白かったのは、猿が出てくるということだけかもしれないけれど。





振り替えてみて、やはり村上春樹氏の小説に意味を求めるのはナンセンスであるような気がしてきた。もちろん、意味がないことはない。ただ、どちらかといえばあの知的な世界を楽しむ方がいいのかもしれない。また、村上春樹氏の世界観に僕は分からないことがたくさんあるのだが、その分からないことというのが良いのかもしれあい。「分からに亜」というのは、ミステリーへの扉を開く重要であり、手早い方法だと思う。

俵万智『サラダ記念日』を読んで。定型詩の未来。

短歌、あるいは詩というものは何を目指せば良いのだろか。そんなことを、『サラダ記念日』を音読しながら考えていた。

そう、僕はこの本を音読してみたのだ。目で追っているだけだと、流し読みしちゃって何も残らないから。その成果が出たかどうかはわからないけれど、僕はある程度この短歌集を楽しむことができたように思う。

話を戻そう。僕は短歌とか詩に造詣が深いというわけではないので、本質的な話はできない。ただ、僕が感じたことをそのまま並べてみようと思う。

短歌とか詩というものは、従来から制限の中で表現をするものである、ということが出来るだろう。日本の場合、短歌や俳句のように字数が決まっているし、西洋の詩や漢詩なんかは、韻を踏むことでリズムを出す。散文詩なんかは別になるんだろうけど、短歌や詩は、まあこういった制限の中で成長してきた文学だということができると思う。

ここには、きっと引き算の美学がある。昔はあまり引き算の美学というものがよく分からなかったんだけど、最近はなんとなく分かるようになってきた気がする。本当に、なんとなーくだけど。

引き算の美学と、あとは言葉の面白みを追求していかなければならない気もしている。文学的な雰囲気というか、詩情というか、ポエジーというか。ただ、これって未熟か完熟しているかどうかが判別できないところで、難しいものだなあと思う。というか、未熟であっても完熟であると思い込まなければ価値が生まれないというか…。ただ奇をてらって文学的な雰囲気のある文章にしたところで、叩かれるのがオチだからなあ。

内容も必要なんだろうけど、短歌の長さでどう内容を伝えればいいのだろか。『サラダ記念日』内の最も有名なものは
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
であるが、これに意味があるのかと言われればどうだろうか。いや、この「意味」という言葉の意味にも捉え方が色々とあると思うので、その前提から……ええい、ややこしい。

とりあえず、僕はこの文章に意味はないと思っていて。もしも意味があるとするならば、この情景を思い浮かべて、色々なことを想像することができる、といったところか。そこには、文字にしかない魅力がある。想像は、各々に任せられる。また、定型詩の良いところは覚えやすいところだ。暗唱すれば、それを簡単に持ち出すことができる。

ところで、果たして短歌に未来はあるのだろうか? 俵万智は幸福にもベストセラー作家になることができたが、この先短歌などが日の目を浴びる日は来るのだろうか? まあ、日の目を浴びる必要がなく、短歌が好きだからやっていくというのは素晴らしいと思うのだが、この「定型詩」というものは今後どのような方向に向かっていくのだろう。

僕は、Twitterがここに大きく絡んでくるのではないかと言う風に思う。Twitterは周知のとおり、140字という字数制限がある。幾つかのツイートにわけて情報を発信することも可能だが、多くの場合、長い文章もどうにか140字以内にまとめようと苦心して発信する。

アルファブロガーならぬ「アルファツイッタラー」とでも呼べそうな人がTwitterには数多く存在している。こういう人たちが、定型詩の後を継ぐと言っても良いのではないかなあという風に思う。Twitterに書かれたものが文学かどうかには争いがあるかと思うが、私見を昔書いたので、参考までに貼っておきます。
「つぶやく」という小さな単位の文学

詩と呼べるかどうかは分からないけれど、定型文学は、こういう場にさらわれていっちゃうんじゃないかなあという気がしています。小説とかは紙媒体がなくならないと思ってたけど、定型文学(この言葉の定義が怪しいけど)は徐々に紙媒体から姿を消していくのかもしれませんね。

三浦しをん『まほろ駅前多田便利軒』を読んで。合理的不合理とか。

まほろ駅前多田便利軒 (文春文庫)



『まほろ駅前多田便利軒』を読んでみて「ミステリ要素のない探偵物」という表現が脳裏をかすめたのだけれど、僕はあまりうまい探偵物を読んだことが無いので、この表現が妥当かどうか分からない。

さて、この作品は『船を編む』で一躍人気作家となった三浦しをん氏のシリーズ小説第一作である。東京にあるという架空の街「まほろ市」に便利屋を構える多田とそこに転がり込んできた行天が織り成す痛快コメディとでもいうことになるだろうか。

連作短編形式に近いものがあり、事件ごとに物語の分断が見られる。そして、物語を重ねていくにつれて愉快な仲間たちが増えていくのだ。もちろん、仲間が増えていくことで、話はさらに面白く、おかしく、ややこしくなっていくわけだ。

登場するのがユニークな人物ばかりで面白かったことには面白かったのだが、個人的な感想を綴るとやや否定的なものになってしまう。しかし、そういうことを気にしていては感想が描けそうにないので、今回は思ったことをそのまま書きつけてみようと思う。

とはいえ、僕がこの小説を否定的に見るのには、僕にも原因があると言える。それは、星という人物の存在に端を発しているところが少なくない。ヤクザとかチンピラとかと普通の人間が仲良くしている物語が、どうもしっくりこないのである。不良も含めて。同じような理由で、僕は石田衣良氏の『池袋ウエストゲートパーク』があまり好きではない。

しかも、本作では星と多田は最初反目し合っていたはずなのに、いつの間にか仲良くなってしまっている。ここは明らかに不合理なんじゃないかなあと僕は思う。

そう、この小説は不合理と意味不明で埋め尽くされている。行天が多田のところに来たのも意味不明だし、多田が行天を連れて帰ったのも意味不明。その後も、二人やその仲間たちは意味不明で不合理な行動ばかりをとるので、読者は常にハテナを抱えながら読み進めていくことになる。

僕は伊坂幸太郎氏が好きなので彼の話になるが、彼はとても不合理を合理的に描くことのできる人物だと思っている。『砂漠』に出てくる不思議な一見不合理な気がするが、その不合理をキチンと説明しようとする。それに賛成できるかどうかは別として、一応納得できるようにはしてあるのだ。

伊坂作品におけるこの合理化は、ある程度合理的な人物である主人公の人物の存在が大きいように思う。合理的という言葉がまずければ、「プレーン」という風に言っておこう。一方、『まほろ駅前多田便利軒』と方では、多田も行天も不合理で意味不明、つまりは「変人」であるから、話がややこしくなり、合理的な精神を持った読者は説明を得られないまま、置いてけぼりを喰らうことになる。

こう書くと、僕が合理的な人間であり、普通の人間はみな合理的であるかのような印象を受けるかもしれませんが、僕もそうは思いません。ただ、人間が不合理な行動を取る場合、その裏には理由は大きかれ小さかれ、ある合理的な理由が含まれていると思うのです。本人の中では、合理的不合理なのです。その合理的不合理が描き出されず、不合理だけが残されていることに僕は気持ち悪さを感じていました。

などと色々言いましたが、ストーリーとしては面白く、さすがだなと舌を巻いた次第です。恋愛や結婚、性に対する倫理的な問いも含まれており、この辺は僕の大好物なので考えるところがあって面白かったです。ただ、倫理的な問いに煩悶するときだけさっきまで不合理的だった人物が合理的になってしまう感があったので、問いがぶれてしまって残念だったなあという風に思います。

続編があるということで、そちらも読んでみようと思います。それから、『船を編む』も……。


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スティーブンソン『ジーキル博士とハイド氏』(田中西次郎訳)を読んで

ジーキル博士とハイド氏 (新潮文庫)



スティーブンソン『ジーキル博士とハイド氏』は原題では"The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde"となっており、直訳すると邦題は『ジキル博士とハイド氏の奇妙な物語』となっている。
外国の作品(映画なんかも含めて)のタイトルが邦訳されるときに変わってしまうのはよくある現象ですが、この作品のタイトル変更には一体どういう意図があるのでしょうか? 少し気になるところですね。

さて、この『ジーキル博士とハイド氏』読んだことはなくとも、あらすじと悲惨な結末を知っている方は多いのではないでしょうか? 実は僕も小学生のときに既に本の存在は知っていて、その後、この話の結末を知ることになりました。と言って、今回が初読だったんですけどね。

薄い本だったのですが、読むのに結構骨が折れました。やはり、僕は翻訳作品を読むのは苦手なようです。しかし、今回は訳がうまかったのかストーリーが面白かったのか、骨が折れたとはいっても楽しんで読むことができました。

悪の人格であるハイド氏と、善悪混合の人格であるジーキル氏の物語。ハイド氏が悪であるのに対して、ジーキル氏が混合人格であるというのが面白いところですよね。完全なる善人はいないのだという思想がここにあるような気がしてなりません。性善説か性悪説かでいえば、性悪説の方かもしれませんね。純粋な悪は抽出しうるが、純粋な善を抽出することはできない。まあ、他の人が薬を飲んでいれば、もしかしたら純粋な善を抽出することができたのかもしれませんが。


話の内容の面白さも去ることながら、このお話は構成面も面白い。既に指摘されているようですが、死せる人の意図を知るために長い手紙が導入されているというのは、漱石の『こころ』と連関するところがあります。そういえば漱石は『行人』の中でも手紙を有効に使っております。

いわゆる「心理小説」とでも呼ばれるものは「手紙」というものが大きなキーワードになりうるのかもしれません。
はてさて、手紙の効力とは何か。まず、既に死んでしまった人物に物語をさせることができる。さらに、三人称小説も手紙形式の中では、それを読み上げていく上で一人称小説になる。別の角度から見てみれば、他にも効果があるかもしれません。


善とは何か、悪とは何か。そういうことについて考えさせる内容になっています。
まだ読んだことのない方は、この機会に是非!


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尾崎翠『第七官界彷徨』を読んで

第七官界彷徨 (河出文庫)



読書会の課題であった。毎度と違うのは、この本を僕が選書したということ。前回の選書『浮雲』からもう四か月も経つというのだから、時の流れは本当に早い。

今回の作品は『浮雲』なんかよりも数段読みやすかった。時代が下がるにつれて、やはり日本語の感覚が私達と近くなってくるのであろうか? 同じ時代の作品であっても読みやすいものと読みにくいものがあるので、なかなか判断できないところである。


さて、まずは僕がこの本を課題図書として選んだ理由を少し書いておこうと思う。
僕はアーバンギャルドというバンドが好きで、この前も新アルバム「鬱くしい国」を買った(初回限定盤で!)。滅多にCDを買わない僕が買うのだから、そのくらいには愛着のあるバンドだ。

そのアーバンギャルドの楽曲「都会のアリス」に次のような一節がある。
「丸の内じゃ悪魔になれなくて メトロでカクテル・キスしたの 電車はまっすぐ地獄行きなの 第七官界彷徨って」
アーバンギャルドは文学や哲学、様々な領域からの引用を得意としていて、この「第七官界彷徨って」というのも『第七官界彷徨』を意識している。

この『第七官界彷徨』という作品、大声でメジャーだという作品ではないのだけれど、いかにもアーバンギャルドの松永天馬さんが好きそうな作品だ。
僕は、この作品を始めて読んだときに太宰の匂いを感じ取った。天馬さんは太宰が好きだ。「ワンピース心中」という曲には「玉川上水 さらばふたりグッド・バイ 未遂に終わって あなたひとりDogDie」という歌詞の一節がある。

どこが太宰に似ているのかというと、恐らく感情表出の手法だろう。太宰の作品(例えば、『人間失格』『女生徒』『斜陽』)の主人公たちは激情を知らない。怒っているときも、悲しんでいるときもある。しかし、その感情は極めて温度が低い。低い温度で、じわじわと僕らの心を侵食する。

『第七官界彷徨』の主人公町子はとてもよく泣く。しかし、その涙に熱さを感じることができない。僕には、作者が意図的に熱っぽさを排除しているようにしか思えない。物語は静かに進行していく。登場人物たちは現在の状況に強く抗うことはなく、静かに頽廃的に時の流れに身を任す。

とにかく、太宰が好きだよっていう人はこちらも読んでみると気に入るんじゃないかと思う。ので、よかったら手に取ってみてくださいね!

第七官界彷徨 (河出文庫)
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幸田露伴『五重塔』を読んだ

五重塔 (岩波文庫)


今までどうしてこの本を読んでいなかったのか、僕は非常に後悔している。
読書会の課題図書であったため、僕はこの図書を選定してくれた人に感謝をせねばなるまい。

葛藤。僕は小説の中で、葛藤のある小説が好きだ。そういう小説は僕に考える余地を与えてくれる。もちろん、それらの作品の全てを名作と呼ぶわけではないが、少なくとも想像の余地を与えてくれるから好きなのだ。

そういう意味では、僕の好きな『人間失格』は葛藤の少ない小説である風に思う。主人公は、葛藤することを拒絶している。ううん、好き嫌いを判断するのは難しいことです。


さて、『五重塔』に話を戻したいと思います。
「エゴイズム」というキーワードで以てこの小説が語られることが多いようですが、僕の知っているエゴイズムとは違う世界がそこには広がっていました。

それは、おそらく「人情」というものが織り交ざっているから、この話がより複雑になっているのだと思います。源汰も十兵衛も五重塔を作りたいという気持ちはある。「エゴイズム」というものがキーワードであれば、お互いが譲ることなく話が進んでいくことでしょう。

しかし、最初の方で源汰は十兵衛に五重塔建立を譲ろうとする。ただし、自分も建立に参加するという条件で。しかし、十兵衛はこれをはねつけてしまう。多くの読者はこれに共感できないことだと思います。この時点で、十兵衛という魅力的な登場人物ができあがる。

僕は十兵衛に共感することはできないけれど、十兵衛の気持ちがわかるような気がする。共感できないのに分かるというのは、作者の力によるところが大きいように思います。

また、僕は幸田露伴にある種、実篤文学と似たような匂いを感じました。
と言っても、それは「特異なエゴイズム」という括りでしか言い表せないものなのですが。


とにかく、面白い作品でした。
まだ読んでいない方は、是非。



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澁澤龍彦編『変身のロマン』を読んだ。

変身のロマン (学研M文庫)



『変身のロマン』というアンソロジーを読んだ。思えば、違う作家の作品がたくさん詰め込まれたアンソロジーなるものを読むのはほとんどはじめてのことかもしれない。

本棚には『源氏物語 九つの変奏』とうアンソロジーが入ってはいるのだが、なかなか手を出すことができない。そういえば、これは僕の好きな江國香織と金原ひとみの著作が入っていたから買ったのだと思いだす。


さて、この『変身のロマン』は文字通り「変身」、もっと正確に言うならば「メタモルフォーシス」に焦点を当てて編まれたものである。まず、ざっと全編の簡単な感想を書いてみようと思う。


上田秋成「夢応の鯉魚」

彼の最も有名な著作『雨月物語』からの一篇。ザ・日本の説話とう感じが僕はしたのだが、他の人が読んでみるとどのような感想を持つだろうか? このような説話性というか説教臭さが日本大衆小説の根幹にあったような気がするのだけど、最近はこういうものもなくなってしまったように思う。現実から乖離したある種の不思議さを感じた。

泉鏡花「高野聖」

このアンソロジーの中で最も長い作品であった。また、著作から余程年月が経っていることもあり、かなり読みにくいという印象を受けた。小説の語り口が独特で、それも読みにくさの一因なのかもしれない。最初から最後まで何が書いてあるのかよくわからなくて退屈をしていたのだけれど、一番詩顎だけは、本当に面白かったです。二回くらい読むと、良さがわかるかも。僕には、これをもう一度読む元気はないけど。

中島敦「山月記」

僕が通っていた高校の教科書には、この「山月記」が載っていて、僕も国語の授業でこれを勉強した覚えがある。当時は特に何も感じなかったものの、今の状況で読んでみると、色々と感じるものがありますね。時間の経過というのは残酷なものです。戻ろうと思っても、絶対に戻れない。陳腐だと分かっていても、自分より若い者に「今を大切にしろよ」というメッセージを与えずにはいられないのが僕ら人間なのかもしれない。

太宰治「魚腹記」

僕はいわゆる「いやらしい」太宰が好きなので、この話はあまり好きになれなかった。とはいえ、「竹青」や「清貧譚」と同じように古典作品を換骨奪胎した作品も太宰の特徴ではあるので、無視はできない。僕には変身の理由がよくわからなかった。何か相当なことがないと、変身せざる理由がないと変身をしてはいけないのではないかと僕は思うのだが、この作品の変身にはそれが感じられない。

安倍公房「デンドロカカリヤ」

恥ずかしながら、安倍公房の作品を始めた読んだ。なるほど、賞賛する人が多いのもわかる、といった感じ。エログロナンセンスの系譜にこの作品はあるのだろうと感じた。とはいえ、少し調べた限りでは安倍公房は他の作家をほとんど認めていなかったらしく、何かの系譜の中に彼を位置づけるのは少々失礼なことなのかもしれないが。顔が裏返る、という表現が面白かった。さてさて、ここから何を読み取るのか。

中井英夫「牧神の春」

三大奇書の一つ、「虚無への供物」作者である中井英夫氏の作品。突然始まった変身に対して、僕らはどのように対応するのだろうか。少なくとも、正気でいることはできないであろう。この作品は、その疑問に対する一つの答えを提示しているように思われる。もちろん、答えは無限にあるのだろけど、どこかこれは説得力を持った答えである。

蒲松齢「牡丹と耐冬」

中国文学についてはあまり詳しくないが、なんとなく持っている中国文学のイメージと合致するものだった。『金瓶梅』と同じ匂いがするといえば良いのだろうか、どこか艶っぽい作品となっている。面白いと思ったのは男の女たちに対する対応である。これを現代社会に持ち込んだならば、男は「ありえなーい」と批判されることだろう。そういう男が普通に存在している社会を見て、僕は色々と感じるところがあった。


<h4>オウィディウス「美少年ナルキッスとエコ」ナルシズムという言葉の語源がこのナルキッスの物語にあるということを知っている人は多いと思うが、実際に作品を読んだことがある方はそう多くはないのではないだろうか。恋をするということがいかなるものかについて考えさせる。なるほど、自分を自分と認識していなければ、好きになってしまうこともあるだろう。そういえば、ここには同性愛的な考え方もあるのだろうか。

ジャック・カゾット「悪魔の恋」

やたらと短い話だった。一読しただけでは何のことやらわからず、現在もやもやしているところである。約束を破るとどのような罰があるのか、罰はないのか。

ギョーム・アポリネール「オノレ・シュブラックの失踪」

発想が面白く、SF的だと思った(星新一的だ! と思ったのだが、各方面に失礼な気がするのでSF的と言い表した)。奇怪で入り組んだ話が多いのか、この小説の分かりやすさはありがたい。

ジョン・コリア―「みどりの想い」

そろそろ各作品についてのコメントを書くのがめんどくさくなってきたが、頑張って書いている。
蠅の花も伏線なのだと気づいたとき、僕は感動したのだが、勘の言い人は最初の方で気づくのであろうか。自分が植物に変身してしまったときに、どう考えるだろう、ということを想像して読んだ。もっと絶望が広がるような気がしていたのだが、読んでいる限りでは、割とあっさり受け入れているのが面白かった。

フランツ・カフカ「断食芸人」

そこは「変身」を持ってくるべきだろうと思ったのだけど、紙幅の関係もあってこちらにしたようだ。いやはや、面白かった。僕は人間のエゴが見える作品が好きなので。断食芸人を殺したのは、世間の「かわいそう」という風潮である。近年のバラエティが芸人を殺しているのに似ているかもしれない。倫理的観念が正しいとは限らないのだ、いつの時代も。

アンデルセン「野の白鳥

童話というものを久しく読んでいなかったのだが、アンデルセンって滅茶苦茶面白いじゃないですか。ちゃんと筋があるし、一応感動する。まあ、この感動があまり好きじゃない人もいると思いますが、綺麗に収まっているのは好感が持てますよ。
一番最後の服だけ編めなかったのには、何か意味があったのだろうか。ただ、時間がなかったことを表したかっただけなのだろうか。

花田清輝「変身譚」

メタモルフォーシスに関しての考察が記述してある、半分冗談みたいな評論。いや、でも面白い。衒学趣味的なところがあるような気がしなくもないけれど、全てを理解していないので何ともいえない。もしかしたら、凄いのかもしれない。



ざっと、全部の感想はこんな感じである。
本来ならばここでメタモルフォーシスの効果について僕の意見でも述べておきたいところなのだが、僕は別にこの現象に惹かれるものがなかった。お手軽に奇異を起こすことができるから、装置の一つとして機能しているんじゃないか、というくらい。カフカの「変身」なんてまさにそうで、カフカの作品であれが最も読まれているのは、単純にその奇異性に惹かれてのものではないかと思っている。

まあ、でもこれから何かを読むときに「変身」という一つの見方が加わったのは大変嬉しいことである。
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カラオケでの選曲が楽になる!お役立ちサイト「Micshar」

カラオケに入ったら必ずと言って良いほどぶつかる
「次、何歌おう……」
という悩みを解決してくれる、Micsherというサイトをご存知ですか?


Micsherでは、それぞれの曲が

・大人数で歌う
・アニソン縛り
・女子会
・会社の懇談会

など、どんなシチュエーションにふさわしいかによって分けられています。


(↑スマホでの表示)

さらに、タグ付けの機能によってかなり細かいカテゴリー分けがされています。

曲の紹介ページではyoutubeの動画を直接視聴することができ、「カラオケ前にレパートリーを増やそう!」と思っている人にもおすすめのサイトです。

選曲に悩んだ経験のあるという人は、ぜひ一度サイトを覗いてみて下さい。


Micsher

カテゴライズする日本人

日本人はカテゴライズするのがとても好きである。それが日本人だけなのかどうかはしらないが、少なくとも日本人はカテゴライズするのが好きだと言っても差し支えないだろう。これは僕の経験則から言えることである。

ネット上で「マイルドヤンキー」という言葉を聞くようになって久しい。もっとも、あまり流行しないうちにこのまま消えてしまいそうな言葉だが……。
草食・肉食系というカテゴライズは割と流行ったように思う。歴女とか、森ガールとかもそうかな? 一瞬で消えたマシュマロ系女子なんて言葉もある。

まあ、こういう象徴的な名詞だけではなくて、僕らはいつでも人をカテゴライズしようとする。「あの人、結婚できなさそう」「あの人はそういう性格だから」などという風に個人を特定の枠にはめ込もうとする。

これは演劇や映画をしているとすごく重要なことで、ある人というものに役者をはめこまないといけないのだから、ある程度テンプレート化された人物像にはめこまなければならない。役者はその人物になりきろうとするため、その人物像を把握できていなければならない。もちろん、役者毎のスタンスの違いはあると思うが、僕が持つ少ない経験で見る限りは、そのキャラをカテゴライズしようとする傾向にある。

しかし、実際の人間はそうまとまった性格があるわけではないのだ。ということを漱石も『坑夫』の中で言っている。カテゴライズすることに果たしてどれだけの意味があるのか。人は日々の中で変わっていくものだから。

カテゴライズしようとする人は、少なからず人を見下す傾向にあるように思う。カテゴライズするということは理解するということである。ある一言で、その人のことを把握してしまう。本当はそんな一言で把握できるはずのものではないのに。その理解は、相手に対して失礼であるということを自覚せねばならない。自分がある一言で把握されたら、悔しくはないだろうか?

と言って、私もこんな風にカテゴライズすることはあるので気を付けなければならないとは思っている。対象として捉えるときはまだしも、普通の人間関係の中ではこういう感情から解き放たれたいものである。

性と死

人間にとって大きな関心事は、性と死に集約されるものだと僕は思っている。これは決して誤字ではない。もちろん、生への興味はあるのだろうが、それは死の反対概念として興味を持っているということで、死に包括される概念ではないかと思う。

性については、僕らは色々なレベルで物を考える。小学生の頃から下ネタを言っては喜び、アニメや漫画の中にも恋を扱うシーンは多く存在する。ミュージックシーンにも恋愛の歌が並び、純文学だって男女の問題について書かれていることが多い。

さて、ここに「男女」と書いた。もちろんこれは語弊があり、セクシャルマイノリティの人々はこれ以外の関係を気にすることになるだろう。しかし、セクシャルマイノリティでない人も、男ー男、女ー女の関係を意識する。男性に対する接し方と女性に対する接し方が違うという人は、程度の差はあれ多く存在しているのではないだろうか。

死の持つエネルギーも凄い。どうしてだか、人が死ぬと人間は泣き出しそうになってしまう。それは、いつか死ぬ自分を想像してのことなのだろうか? それとも、もうその人と会話できないという寂しさの為なのか。

ニーチェは神が死んだと言い、ロランバルトは作者が死んだという。原文から「死」という単語が使われていたのかどうかは知らないが、訳する過程でこの言葉を使われたにしても、「死」というフレーズのパワーによってこの言葉を使っているのだろう。

だから何が言いたいかというと、物語創作をする場合には常にこの要素を意識しなければならないのではないか、ということだ。短絡的発想ではあるが、この性と死についての問題を取り扱っていれば、物語は大体において面白くなる。
また、そういう短絡的発想から逃れようと思えば、この性と死の匂いを一切消し去ってしまうことも重要かもしれない。


と、こんなことを書くのは僕がもともと性について興味があり、死ぬ怖さがうまく克服できないところに端を発している気がするんですけどね。
しかし、僕はこれが重要事だと考えているので、僕は、これをテーマにして創作を続けていきたいなと思っている所存です。

「歌ってみた」もコラボも楽々。最強カラオケアプリ『nana』

「”歌ってみた”を投稿したい!」
「ちょっとしてエフェクトをつけてみたい」
「誰かとコラボできたりしないかな……」

そんな望みを叶えてくれるのが、優秀なカラオケアプリ「nana」。

録音&編集ができるアプリは他にもありますが、nanaの一番の魅力は使い方のバリエーションが豊富であるということです。


【そもそもnanaとは】
個人が投稿した伴奏に合わせて自分の歌声を録音し、簡単な編集だけで公開できるアプリ。
もちろん、楽器のみ、アカペラのみの投稿も可能です。

使い方は主に以下の通り。

1.伴奏を見つけて、自分の歌声を重ねる
2.自分で楽器を弾いて、他の楽器奏者やボーカルにコラボしてもらう
3.ハモリ用の歌声を公開して、自分で声を重ねたり、コラボしてもらったりする

その他にも人によってたくさんの使い道があります。


また、既に多く人によって伴奏が投稿されているため、ちょっとマイナーな曲の伴奏や、オリジナルバージョンの伴奏など、様々な音源を見つけ出すことが出来ます。

洋楽から邦楽まで多種多様。嬉しいですね。


録音する場合は、左下の赤いボタンをタップするだけ。




エフェクトを加えるのも簡単です。
エコーやコーラスなど、さっと選んで完了ボタンを押して終了。
分かりやすくて良いですね。





【インストールはこちらから】
 ・iOS版 ※Androidでは非対応のようです

もふたんずのゆる可愛いLINEスタンプが新登場!

6月5日より、サンエックスのキャラクター「もふたんず」のLINEスタンプがついにリリースされました!




1セットで40個のスタンプが購入可能です。
販売価格、コインに関しては各販売ページを参照とのこと。

サンエックスはこの他にも、リラックマやすみっコぐらし、たれぱんだなどのLINEスタンプを既に販売しています。
これを機に、もふたんずにもさらに注目が集まりそうですね。





スタンプは「OK/NO」「THANK YOU/SORRY」などの使いやすいものから、とにかくかわいいキャラクター達がくてっと伸びているものまで、多くの種類があります。

キャラクター好きな人は、一つ一つのスタンプに癒されること間違いなし!
もふたんずファンは是非とも使ってみたいですね。





【関連まとめ】
モッフモフのうさぎキャラ、「もふたんず」が人気急上昇中!

サンエックス2014年新キャラまとめ

イヨネスコの戯曲「禿の女歌手」を読んだ

演劇部の部室に別役実氏の戯曲がたくさんあるため、不条理演劇というものに少なからず興味を抱いていた。彼の著作である「さらだ殺人事件」を一度演じた関係もあり、それでいくともう少し興味を持ってもよかったはずなのだが、どうもその手の戯曲の積極的な読者になりえなかったし、進んで上演しようと言う気にはなれなかった。それは、不条理演劇というものの可能性を僕が見つけることができなかったからである。

先日、雨傘屋で天野天街氏が演出をつけた「禿の女歌手」を観劇した。天才だと思った。そして今また戯曲を読み返して、天街氏は天才だという気持ちをより一層強くした。

僕はきっと、この戯曲だけを読んでもつまらないと思っただろう。もちろん、認めるべきところはある。論理や因果についての懐疑という点で、不条理演劇の言わんとするところ(そういうものを排しているのかもしれないが)がなんとなく分かったような気がするからだ。

しかし、この戯曲が面白いかと訊かれれば、そうではない。それは、戯曲の宿命であるのかもしれない。演出がなければ、役者がいなければ面白いもの足りえないのかもしれない。特に、不条理演劇の場合はそうであろう。実篤の戯曲は、むしろ上演しない方が良いと思うけれど。そうえいば、戯曲だけを読んだことがあまりない。勉強せねばならない。

特に演出の力は偉大であると僕は感じた。同時に、演出の権限というものは一体どこまであるのだろうかと感じた。戯曲と読み比べてみると、話の大筋は一致しているが言葉自体はかなり書き換えられていることがわかる。僕が読んだ訳者とは違う訳というレベルではなく、もっと大幅に書き換えられている。作者の尊重というものは、果たしてどこまでなされるべきか。

まあ、面白いものを届けるという観点からいけば、面白くないものを尊重したってどうしようもないわけだけど。また、今回は言葉尻をとって心地よいリズムを奏でるという目的があった以上、書き換えるのは大成功に終わったといって良いでだろう。いや、本当に天才だと思った

僕も演出経験が一度だけあるのですが、あれは難しい。今回のを見て、もっと精進せねばと思った次第です。もっと、積極的に面白くしていかなければならない。脚本と演出は別であって然るべきなのですね。別にやる人が違う必要はないけれど、ある程度違う脳みそでやらないといけない。


演劇って難しいなと再確認。それはまあ、創作全般に言えることなんだけどもね。

LITECO掲載「物語の中身とは」を読んで

LITECOに掲載された「物語の中身とは」を読んで、考えるところ。
「物語の中身とは」については、こちらかどうぞ。
LITECO/物語の中身とは



中身のある/ない というような考え方は、そのまま物語が面白いかどうかにつながってくるように思う。もちろん、中身があるから面白い、というわけではないだろうが、基本的には、中身のあるものを面白いというのではないだろうかと思う。素人が書いてプロットが練りこまれていない小説よりも、宮部みゆきの上質な推理小説の方が、読んでいて面白いのは自明のことであろう。

もちろん、一見すると中身がないような小説もある。僕はカフカの『城』を読んだのだけれど、あれに中身があるとは思えない。もちろん、あくまでも僕は。その深層の方に中身があり、それを読み取れれば面白いのかもしれないけれど、それを読み取れない僕にとってはあまり面白いものではなかった。

しかし、そういえば音楽の歌詞って意味がないものが多いよなあと思っていて、そうすると、僕はなんであれを面白がって聴いているんだろうと不思議になります。もちろん、曲自体が良いからというのもありますが、訳が分からないけれど言語センスが良いから好きみたいなところはありますよね。

それから、不条理演劇って中身があるとは言えないはずなんですけど、面白い演出家さんだと非常に面白い。先日、雨傘屋さんのイヨネスコ「禿の女歌手」を観劇してきたのですが、とても面白かったです。

そうすると、中身がないからといって面白くないというわけではない。というか、芸術はそうあってはならないという風に思うんです。

それから、中身がない小説の例示がなされていないので(しづらいと思います)、何とも言えないところがあるんですよね。そこに中身があるのに、自分がそれを発見できず、結果的に中身がないという結論に至ったのかもしれない。あまりこういう論は好きではないのですが、文学から何かを読み取るためには、やはりある程度の経験とかスキルがいるような気がしています。エンタメ小説は、そういうことを排するのが使命なのですが、純文学系はそれを隠すことがある種美学であるよな気もして。

まあ、結局のところ、その小説に中身があるかないか、面白いか面白くないかというのは、他人によるといった方がよさそうです。これを言っちゃうとおしまいな気もするんですが……。

でも、皆違ってみんないいということこそ、文学や文化の真の姿であると思うんですよね。もちろん、影響力の大きいものだけが残っていくわけですが。


だいたいこんなところですかね。この論考は、なんだかもっと掘り下げることができる気がしています。
何か意見などありましたら、コメント欄にお寄せいただけると幸いです。

LITECO掲載「病と闘う小説はいかが」について

先日、LITECOというサイトを立ち上げた。
初日からUUが90人を達成するなど、スタートとしては上出来ではないだろうか自分で思っている。ちなみに、Twitterアカウントのフォロワー数が100人を超えたらツイキャスで「LITECO配信」と銘打って、掲載記事に対する批評なんかをやってみたいと考えている。


さて、本題に入っていく。今回はそのLITECO掲載記事第一号となった、かしのしゅうかさんの「病と戦う小説はいかが」を読んで思ったことを、つらつらと書いていこうと思う。


かしのさんは言う。「わたしにとって闘病小説ほど明るい文学は、純文学においては非常に珍しいとさえ感じているのだから。」
僕はこの言葉に衝撃を受けた。そして、読みすすめていけばこの言葉が別に奇をてらって言っているわけではないということがわかり、更に驚いた。僕自身、何であんなに読んでいて辛くなるような話を読むんだと感じていたのだが、この論考を読むと、見方が変わってきそうだ。

闘病小説とは、見えない敵との闘いの記録であると言えるかもしれない。病気というのは、正体がつかみにくいものだ。正体が完全に分かっているならば、それを治療(克服)することが可能であろう。これは、人生に似ているところがある。人生も正体というか正解が掴みづらいものである。正体など無いと断言しても良い。

また、かしのさんが使う「生への執着」というものも興味深い。僕は、人間の最大の関心事は「死」と「性」の二つにあると考えている。どのような小説も、基本的にはこの二つのものを取り扱わずにはいられない。人間は必ず死ぬし、必ず性に関して興味があるのだ(付け加えるならば、性に無関心である人でも、世の中の大勢の人が性に関して興味があるため、無関心を表明するために関心せざるを得ない)。

ありがたみが分かる、という言葉を使うと少し陳腐になってしまうだろうか。闘病生活をしている人はこんなに生に執着していても、生きることができない。だから、僕たちは生きなければならない。そんな教訓を読み取るのであろうか。何か違うような気がするが、近からず遠からずであろうと勝手に思っている。

僕は『一リットルの涙』なんかが辛くなって途中で見れなくなる性質なので、最後まで通して読むことは難しいかもしれない。しかし、読むのが辛くなるということを感じることも、また「生」に対して考えることになるのだろう。


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カエサルの『ガリア戦記』を読んだ。なんか、ハエドゥイー族だけ覚えている。

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『ガリア戦記』はカエサルの書いたガリア遠征の記録である。よっぽどの世界史好きかよっぽどの活字中毒者ならまだしも、普通レベルの読書好きにはおすすめしない。僕も普通レベルの読書好きという類の者なので、徹頭徹尾そばに退屈を伴って読み進めた。読書会の課題図書でなければ、20ページ程読み進めたところで諦めていたかもしれない。そう考えると、普通は読まないような本を読ませるように仕向けてくれるので、読書会というのは本当にありがたいものだ。

で、まあ300ページほどあるこの文庫本を読んだわけだけれども、まあ長いながい。何を言っているのか分かって長いのは良いけれど、よく分からないことがつらつらと書いてあるからいけない。いや、話の筋は恐らく分かりやすいのだ。ただ、固有名詞がこれでもかと言うほど出てくるので、情報過多で頭がパンクしそうになる。

地図が文庫本の頭に付されていたのでこれを一々参照していればもっと頭に情報を入れながら読み進めることに成功できたのかもしれないが、三分の一程読み進めた段階で気づいたので、もう面倒臭くって参照するのを諦めてしまった。ただ、この地図のおかげで、ガリア人とゲルマーニー人が住んでいる場所の位置関係はある程度把握できたように思う。まあ、この知識が果たしてどこで生きてくるのかは分からないが……まあ、今後もしも世界史を学ぶことがあったら、参考にすることにしよう。

ところで僕は『三国志』も『水滸伝』も読んだことがないのだけれど、ああいうものもこれと同じようなことが書いてあるのだろうか? あるいは、日本の軍記物も。あれはもう訳してくれなければ読めたものではないので、なおさら読んでいない。
もし同じようなものなのだとすれば、それはちょっと興味がある。物語の中身をおもしろいと思うことはできなかったけれど、比較してどこが同じか、あるいはどこが同じかを論じることには興味が少なからずある。

まあ、当時の人は楽しかったんでしょうね。例えば日本が戦争をおっぱじめて、現地の大将が逐一ブログに戦闘状況をアップしていたら、そりゃあ読むと思うんですよね。僕だけじゃなくて、日本中の色々な人がね。もちろん、当時とは戦争に対する考え方が違うので、なんか色々な問題が生まれて論争も生まれそうな気がするけれど。でも、当時もカエサルの行動に対して批評はあったはずで、そう考えると、「ブログに戦闘状況をアップ」というのとさして変わらない状況だったのかもしれない。

さて、当時の人が読んで楽しかったのはどうでも良いんだ。それは横へ置いておくとする。僕はこれ以降このことを思い出すことはしない。当時はともかく、現代、そして日本に住む僕たちがこの作品をどう楽しめというのか。七年間もの記録を、二千年超えた異国の地の僕らが、どういう風に享受すればいいのか。

教訓はある程度得られるように思う。カエサルはいつでも最終的には戦争に勝ってしまうので、集団のマネジメントをどうすれば良いかというヒントをここから得ることができるかもしれない。そのためには、際限なく出てくる、あまり区別のつかないような部族の名前と付き合っていかなければならないのだけれど。いや、その苦痛に比すれば、得られるものはあまり大きくないように思う。

古代ヨーロッパ史を勉強するような人は、必読の書なのだろう。これを繰り返し読めば、この時代にどのような部族がいたのかをある程度把握することができるのではないだろうか。機械的に羅列されたものを覚えるよりも良いだろう。物語があった方が、まだ覚えやすい。もちろん、これは世界史に大きな情熱を持って対峙できるものに限られるのだろうけれど。そうでなければ、到底耐えることができない。


つまるところ、強い意志がなければ、『ガリア戦記』なんて読まなくても良いと思う。僕は、別にこれが良い作品だとは思わないから。ただ、世界史を勉強したいなあなんて思う人は、有名な著作であるから、一度は通読しておいて損はしないことだろうと思う。


追記:
ところで、僕はどうしてだか「ハエドゥイー族」という固有名詞だけを忘れることができずにいる。どのような部族だったのかはすっかり忘れてしまったのだけれど。ただ、繰り返し出てきたから覚えているのかもしれない。


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トオマス・マン『トニオ・クレエゲル』を読んだ。

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トオマス・マン『トニオ・クレエゲル』を読んだ。さて、ところで僕はこのトオマス・マンという者の伝記的事実を知らない。もちろん、僕だって彼の名前くらいは聞いたことがある。馬鹿にしちゃいけない。しかし、そういえば彼がどこの国で生まれた人なのかも良く知らないし、どうして偉い人なのかも知らない。

調べてみると、ドイツ人。『ヴェニスに死す』を書いた人だと言われれば、ああそうかそうか位は言うことができる。しかし、ドイツの小説が皆こんな感じなのかと考えると、僕はもうこれ以上ドイツの小説を読むことができないかもしれない。そこそこに面白かった。面白かったけれど、もう一作同じ作家の作品を喜んで読むかと訊かれれば、「教養の為に」と応えるしかない。

そもそも、僕は同性愛というものが理解できないからいけない。いや、同性愛者を非難するわけではない。同性愛者が異性愛者の感覚を共有することができないように、僕も同性愛者の気持ちを共有することはできない。だから、トニオがハンスに恋をするという気持ちが、どうしても分からない。これに共感することができたら、この小説をもう少し面白く享受することができたのかもしれない。

それから、女画家と話をするシーンがあるけれど、そこで言っていることの意味が半分くらいしか分からない。もちろん、これは僕の読解能力が低いことも要因の一つであるとは思う。二、三回読んで初めて了解することのできた部分だって多々あるのだから。
ただ、もう少し分解することができたろうにとは思う。僕も自分で作品を書くときは大概セリフが長くなる方だが、ここまで長くはならない。そもそも、こんなに複雑なことを人はこんなに纏まって話すことはできない。できないし、文章にするならもう少し詳しく書くべきだと思う。羅列しているだけなのか、纏まって書いているのか、どっちつかずの状況であると言えないだろうか。

まあ、訳が少し古いというのも読みにくさを助けることになっているのかもしれない。名作は十年に一度くらい誰かが翻訳すると良いのではないかと思う。あるいは、換骨奪胎して現代人日本人にも分かりやすいように翻案・超訳するとか。源氏物語が漫画化されて久しい。そのくらいしても、別に構わないのではないかと思う(そういう試みを、自分でやってみようとも思う)。

ただ、最後は非常に良かった。自分の愛した者二人が、お互いを愛するようになってしまっている。この状況は、何とも言えず良かった。僕は生まれてこの方、異性愛者だけれど、この場面だけはトニオの心情を想像することができた。いや、トニオのこの心情というものは、ほとんどの者が想像をするしかないだろう。そこには、想像の余地があった。作者の押しつけではなく、僕はその余地の中で考えることができた。ああ、もしも僕が同じような状況に立ったとき、果たしてどのような気持ちになり、どのように考え、どのように行動したかと。そういう余地を持つものが、小説として一級だと僕は信じている。

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常体と敬体を使い分けるのってメンドクサイ

こんにちは、あとーすです!
最近すっかりブログがサボり気味になっていて、文章ってどうやって書いたらいいかわからない状況……。
まあ、もともと得意な方ではないのですが、それでも、言葉が出てこないのは辛いものがあります。


さてさて、今日は常体と敬体の話。
ちなみに解説しておくと、「常体」が「~だ・である」調で、「敬体」が「~です・ます」調になります。
僕は昔からこの使いわけが苦手で、ブログを書いていてもよく混同してしまいます。食べたものとかのレポートだと敬体になることが多いのですが、本の感想なんかは大抵が常体になっています。
しかも、一つの記事の中でこの二つが入り混じっている場合もあるので、本当、自分の文章能力の低さに驚かされます。

というか、記憶力が悪いのかもしれないとも思います。あるいは、注意力散漫なのか。自分がそれまでどっちの調子で書いていたのか分からなくなるんですよね。うーん、頭が弱すぎる。

別にブログを書く分には良いんですけどね。
このブログ、継続して読んでくださっている方々は微笑ましく見守ってくれていると思いますし、たまたま検索に引っかかって訪問してくださった方は、1記事読んだら帰ってしまうでしょうから。

ただ、レポートとかを提出する場合はいかんです。僕みたいに気を付けていない人は、そういう場合だけは本当に気を付けた方が良いです。
Wordに常体と敬体の混同を指摘してくれる機能とか付けてくれてたら楽なんですけどね。

僕の場合も、このブログは常体か敬体かどちらかに絞って書くようにすれば良いのですが、やはり食べ物なんかの感動は敬体でやんわりと伝えたいし、しかし、本の考察なんかは常体である程度的確に伝えたいし。でも、同じブログ内に混在しているのはあまり良くないよなあ。なんて、そんなことを考えています。

まあ、このブログはある種自分の実験場と考えているので、あまり気にしてはいないんですけどね。
ただ、そろそろこの辺でしっかりして、本気で色々な人と文章で対話したいという気持ちもあり……まあ、わがままなのですが。


とりあえず、しばらく常体で書いてみようかと思います(と言ってるそばから、この記事は敬体ですが)。
継続して読んでくださっている方がいましたら、これからも応援よろしくお願いいたします。




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アーバンギャルド新アルバムより、「さくらメメント」MVが来てた

トラウマテクノポップバンドを自称するアーバンギャルドは、6月18日に新アルバム『鬱くしい国』をリリースすることを発表しています。
同アルバムは前衛芸術家、相田誠氏の作品の一部をジャケットとして使用していることでも話題となっています。
そんな『鬱くしい国』に収録されている「さくらメメント」のMVが先日5月12日にYouTubeで公開されていました!




アーバンギャルドといえば、昨年キーボード担当の谷地村啓氏が脱退して以来、楽曲の質が維持できるかということが懸念されてきました。
そういえば、相対性理論も真部脩一氏の脱退以来やや勢いが衰えてきているように感じます(僕の主観?)。アーバンギャルドの中心はよこたんと天馬さんだと思っている方々が多勢だと思いますので、まあ、あまり影響はないかなとも思うのですが。


さて、曲についてのお話に移りましょうか。
この「さくらメメント」というタイトルは、「サクラメント」と「メメント・モリ」を掛けたものだと考えて良いでしょう。それと、「桜」の意味も掛け合わされていて、七文字の中に相当の情報量が含まれている感。

「サクラメント」というのはカリフォルニア州の街の名称でもあるのですが、宗教的な用語でも「サクラメント」というものがあります。日本語に直すと、「礼典」とか「機密」とかいう風になるそうですよ。

「メメント・モリ」はラテン語の警句で、「死を記憶せよ」という風に訳されます。自分がいつか必ず死ぬことを忘れてはいけない、というような意味なのだそうです。

アーバンのタイトルや歌詞はいつでも示唆に飛んでいて、様々な文化を網羅しており、とても勉強になりますね。作詞の天馬さんの博識ぶりが発揮されていて良いですね。まあ、なんか知的遊戯というか衒学的な気がしなくもないですが、そこに含まれるポエジーに僕らは恋
してるといっても過言ではないのですね、はい!

タイトルに紙幅を割きすぎて、なんだか僕は疲れてきてしまいました。
内容については、まあ皆さんの解釈にお任せすることにしましょう。

ちなみに、僕は『鬱くしい国」を既に予約いたしました!
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