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村上春樹『東京奇譚集を読んで』

村上春樹氏の作品を手にするのはこれで三度目である。ここまで来て、未だに村上春樹氏の魅力がわからない。
これまで読んだ作品はデビュー作である『風の歌を聴け』と短編集『パン屋再襲撃』である。そして今回、『東京奇譚集』を手に取ってみたわけである。

魅力がわからないと書いたものの、面白くないというわけではない。最初から「僕=村上はこの文章の筆者である」なんて言ってしまうところはとても面白いと思う。この書き方は、ある議論を呼ぶだろう。

つまり、「僕=村上」としているが、本当に「僕=村上」としていいものだろうか。小説世界があるのだから、この中の村上春樹氏と実存の村上春樹氏は違う人物として扱わなければならないのではないか。しかし、小説の本題に入る前のいわば導入部がエッセイ的に描いてあるのだから、それが適用されないかもしれない。ところで、エッセイに出てくる筆者本人は、本当に筆者本人としていいのか、等々。

まあ、そういう面白みも踏まえて、以下5つの短編にそれぞれに感的なコメントをつけてみる。そうすることによって、この短編集に僕なりの感想を付してみたいと思う。


「偶然の旅人」
 上にも書いたように、初っ端から「僕=村上」なんて言うものだから、これは面白そうだと思った。直前に読んだのが三浦しをんの『まほろ駅前多田便利軒』だったのだが、こちらにも同性愛関連記述の関連があって「偶然の旅人も」ゲイの話だったので、同性愛に関する問題意識が高まっているのかなあと感じた。

ここでは、タイトルにもある「偶然」が奇譚である。最初は「僕=村上」の偶然の話をして、それに関連する形で彼の友だちである男性の「偶然」が語られる。

隣の人が同じ本を読んでいるだとか、病気の話をしていたら姉が同じ病気にかかっていたとか。そういう偶然がこの小説の中で語られる。そういう偶然って、そういえば僕らの周りにもありますよね。試験会場とかでちょっと仲良くなった子に共通の知り合いがいたりだとか、テレビでカレーが映ってて「カレー食べたいなあ」と思ってたらその日の晩御飯がカレーだったりだとか。

そういう偶然って、ただの偶然と考えることもできるけど、何か不思議な力が働いているのかもしれないと考えるのは、非常にロマンチックで素敵だと思う。


「ハナレイ・ベイ」
自分の肉親が死んだらどういう気持ちがするのだろう。それも、まだ死ぬべきときではないときに、事故で死んだならば。そういうことを考えながら読み進めた。サチが毎年ハナレイ・ベイに行くのは、命日に墓参りに行くようなものかもしれない。灰を持ち帰ったとしても、息子の魂はそこにあるということだろうか。それならば、息子の霊(のようなもの)がまだその浜辺にいることも納得できる。

途中に出てくる大学生二人組は、やはり息子との対比としてあるのだろうか。自分の息子のようにちゃらんぽらんとした大学生を見て、サチコは色々と考えるところがあるだろう。

というか、この小説の登場人物たちは非常によく似ている。みんな、先のことなんて考えちゃいない。大学生二人組は、ハナレイ・ベイに来てどうしようか考えていないというレベルで、将来のことは割としっかりと考えているようだが、サチコの人生はふらふらとしている。現時点ではしっかりしているけれど、「ふらふらしている」というところに共通項がありそうだ。


「どこであれそれが見つかりそうな場所で」

これは、どこで切ったらいいのかわからないという遊びをタイトルでしているのだろうか。最後まで読めばわかるが、「どこであれ、それが見つかりそうな場所で」とおいう風に読む。しかし、僕は最初みたときに、「どこで、あれそれが見つかりそうな場所で」という風に読んでしまった。確かにおかしな日本語になってしまうのだけれど、村上春樹氏なら、なんだかそういう破綻は気にしなさそうという偏見を持っている。

これは本当に謎であり、奇譚の話である。一般的な神隠しの話のように思われるが、その神隠しの原因が一切わからない。昔話に出てくる神話なんかは、だいたい誰のせいで神隠しにあったか分かるようになっている気がするのですが……。

この短編集においてこの三つ目の奇譚が最も大きな奇譚であるという風に僕は思っているのですが、どうもダイナミックな話になっていない。それは、冒頭であっさりと男が消えてしまっているところに原因があるのだろう。しかも、見つかるのもあっさりしている。

エンタメ小説であれば、ここでどうして人が消えるのかということが分かるところまでいくのでしょうが、そうはしないのが村上春樹氏だということでしょうか。


「日々移動する腎臓の形をした石」
父親の言った言葉が印象的。「男が一生に出会う中で、本当に意味を持つ女は三人しかいない。」主人公は、この「女」というのを絶対に恋愛対象だと終始決めかかっているのですが、もしかしたらそうではないのかもしれないですね。もしかすると、最初の一人目は絶対に自分の母親であるのかもしれない。恋愛というものに、重きを置いているのがわかります(あるいは、分かりにくい皮肉かもしれませんが)。

とりあえず、生き方がいちいちかっこいいんだよなあという印象。それは、男にしても女にしても。これは、ある雰囲気を持った世界に飛び込んでいくための小説なのかもしれないと思う。


「品川猿」
人間にとって、名前とは何か。個体を識別する標識であるはずなのだが、どうしてもそれ以上の意味を求めたがる。消しゴムの裏に好きな人の名前を書いて、それをばれずに使い切れば、恋愛が成就するという。そんな昔やったおまじないからも、名前がある重要な意味を果たしているということがうかがえる。

はじめは「日々移動する腎臓の形をした石」が面白いと思っていたけれど、いざ冷静に考えてみると、「品川猿」が一番面白かったかもしれない。いや、面白かったのは、猿が出てくるということだけかもしれないけれど。





振り替えてみて、やはり村上春樹氏の小説に意味を求めるのはナンセンスであるような気がしてきた。もちろん、意味がないことはない。ただ、どちらかといえばあの知的な世界を楽しむ方がいいのかもしれない。また、村上春樹氏の世界観に僕は分からないことがたくさんあるのだが、その分からないことというのが良いのかもしれあい。「分からに亜」というのは、ミステリーへの扉を開く重要であり、手早い方法だと思う。
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