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俵万智『サラダ記念日』を読んで。定型詩の未来。

短歌、あるいは詩というものは何を目指せば良いのだろか。そんなことを、『サラダ記念日』を音読しながら考えていた。

そう、僕はこの本を音読してみたのだ。目で追っているだけだと、流し読みしちゃって何も残らないから。その成果が出たかどうかはわからないけれど、僕はある程度この短歌集を楽しむことができたように思う。

話を戻そう。僕は短歌とか詩に造詣が深いというわけではないので、本質的な話はできない。ただ、僕が感じたことをそのまま並べてみようと思う。

短歌とか詩というものは、従来から制限の中で表現をするものである、ということが出来るだろう。日本の場合、短歌や俳句のように字数が決まっているし、西洋の詩や漢詩なんかは、韻を踏むことでリズムを出す。散文詩なんかは別になるんだろうけど、短歌や詩は、まあこういった制限の中で成長してきた文学だということができると思う。

ここには、きっと引き算の美学がある。昔はあまり引き算の美学というものがよく分からなかったんだけど、最近はなんとなく分かるようになってきた気がする。本当に、なんとなーくだけど。

引き算の美学と、あとは言葉の面白みを追求していかなければならない気もしている。文学的な雰囲気というか、詩情というか、ポエジーというか。ただ、これって未熟か完熟しているかどうかが判別できないところで、難しいものだなあと思う。というか、未熟であっても完熟であると思い込まなければ価値が生まれないというか…。ただ奇をてらって文学的な雰囲気のある文章にしたところで、叩かれるのがオチだからなあ。

内容も必要なんだろうけど、短歌の長さでどう内容を伝えればいいのだろか。『サラダ記念日』内の最も有名なものは
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
であるが、これに意味があるのかと言われればどうだろうか。いや、この「意味」という言葉の意味にも捉え方が色々とあると思うので、その前提から……ええい、ややこしい。

とりあえず、僕はこの文章に意味はないと思っていて。もしも意味があるとするならば、この情景を思い浮かべて、色々なことを想像することができる、といったところか。そこには、文字にしかない魅力がある。想像は、各々に任せられる。また、定型詩の良いところは覚えやすいところだ。暗唱すれば、それを簡単に持ち出すことができる。

ところで、果たして短歌に未来はあるのだろうか? 俵万智は幸福にもベストセラー作家になることができたが、この先短歌などが日の目を浴びる日は来るのだろうか? まあ、日の目を浴びる必要がなく、短歌が好きだからやっていくというのは素晴らしいと思うのだが、この「定型詩」というものは今後どのような方向に向かっていくのだろう。

僕は、Twitterがここに大きく絡んでくるのではないかと言う風に思う。Twitterは周知のとおり、140字という字数制限がある。幾つかのツイートにわけて情報を発信することも可能だが、多くの場合、長い文章もどうにか140字以内にまとめようと苦心して発信する。

アルファブロガーならぬ「アルファツイッタラー」とでも呼べそうな人がTwitterには数多く存在している。こういう人たちが、定型詩の後を継ぐと言っても良いのではないかなあという風に思う。Twitterに書かれたものが文学かどうかには争いがあるかと思うが、私見を昔書いたので、参考までに貼っておきます。
「つぶやく」という小さな単位の文学

詩と呼べるかどうかは分からないけれど、定型文学は、こういう場にさらわれていっちゃうんじゃないかなあという気がしています。小説とかは紙媒体がなくならないと思ってたけど、定型文学(この言葉の定義が怪しいけど)は徐々に紙媒体から姿を消していくのかもしれませんね。
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