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LiteraTech風見鶏

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熊本大学演劇部「赤信号でもススメ」 観劇してきました

12月13日の14:00~と19:00~、14日の14:00~の3回、熊本大学演劇部(以下、クマエン)の公演が行われた。僕は最初と最後の2回観た。力のある良い芝居を見観ることができた。


以下、あらすじ。
売れない劇団熱帯低気圧は大きな公演を間近に控えていた。そんな中、劇団員のマイコがお金を持ち逃げしてしまう。焦った座長のハジメは、結婚資金の頭金として母親からお金をせびることを決意する。しかし、結婚相手などいないし、協力してくれる女性もいない。そこで、劇団員のケイジに女装をさせて何とか誤魔化すことにする。


あとはまあ、有名俳優の兄と演技に対する考え方が違ったり、妹はその二人の兄の考え方の違いの間で悩んだり、といった内容だった。最後には母親がハジメのことを認めて終了。大団円。最後にどんでん返しがあれば「なーんだ予想通りの結末だった」なんて言われずに済んだかもしれないけれど、終わり方に関して文句はない。ケイジの女装を見破れなかったハジメの兄の滑稽さが際立つ終わり方で、面白いなあと思った。

コメディベースの展開にシリアスな場面や警句を混ぜ込む、ある種の型通りのお話だったから、まず女装を見破られるか否かという一本のストーリーラインを笑いながら楽しむことができる。あとは、劇中に出てきた「リアル演劇」ということについて考えさせようというのがこの脚本の意図では無かったろうか(違ったらごめんなさい)。

劇中で明言はされなかったものの、舞台は近未来であったはずだ。日本でも同性婚が認められるようになった未来。そして、二十面相事件以来「リアル演劇」がよろしくないとされる未来。これはある種のディストピア(と書けば、少しかっこよくなるかな)を描いている。現代でもテレビドラマでは下手くそなアイドルたちが演技をしていて、ストーリーもくだらない(ということになっている)。そんな状況がこのまま続いた後に想像される世界が、つまりこの芝居の世界だったのだろう。

兄が漫画原作でも何でもないドラマで突如として「出でよ、ブルードラゴン!」と叫ぶシーンがあって笑いを誘っていたけれど、あれが現実になったらと思うと恐いし、そういう現実が来ても別におかしくない。そういう風に価値観が更新されることはあり得る。僕だって、歌舞伎を手放しに面白いと絶賛することはできない。時間が経っていけば、「リアル演劇」などと中傷されることも考えられないことではない。何か事件がきっかけとなっているのなら、なおさら。

ただ、今回の芝居がいわゆる「リアル演劇」であったかというと、それも分からない。ギャグマンガ的・アニメ的なストーリー展開だったから、これを「リアル」として捉える人はいないだろう。なんと言えば良いのだろう、僕にはその矛盾が何ともいじらしく見えたのだ。

とまあ、自分でそんな風に勝手に考えたことも含めて、僕はこの芝居を「おもしろかった!」と評することができた。あとは、思いつくままに指摘してゆく。


・もしも舞台が本当に近未来であったとするならば、それをもう少し全面に押し出しても良かったかもしれない。「二十面相事件」などと聞いたことのないワードが出てくることからも推測することはできるだろうが、もう何個か散りばめても良かったのではないか。あるいは、僕が気づかなかっただけかもしれない。

・ハジメの兄と妹が踊るシーン。二回とも観て二回とも兄が父親の遺影を帽子で隠していたので、これはリアル演劇に固執して死んだ父親の否定を表しているのかなと思った。その遺影は、彼らが登る「トップへの階段」の上にある。兄にとっては、父親は上にいる存在であり、かつ否定すべき存在だったのだ。違ってたらめっちゃ恥ずかしい。

・ケイコと電話番号を交換するシーン。あの時に妹と母親はケイコが男であることを見抜いていたはずだ。母親の「別に偏見はないけれども」という発言から間違いない。妹は何故ケイコの電話番号を訊いたのかと考えるときに、僕は真っ先に「ケイコの性別を知るため」という風に考えた。赤外線通信で送信したら、きっとケイコの本名で登録されるからだ。しかし劇中では、妹との電話番号交換は後に稽古場を訪れるための布石として、兄との交換は有名人であるにもかかわらず交換する=ケイコに好意を抱いていることの表れ、を示すために用いられる。僕は密かに、妹がラストシーンで「お兄ちゃん、電話帳開いてみて。ケイコさんの名前ある?」と訊くのを期待していた。ここ、長くなってしまった。

・ハジメがうどん屋で財布を無くす件はいらなかったと思う。とても滑稽でシーン単体は面白く観ることができたけど、物語上の役割がいまいち分からなかった。財布を探すために更なる展開があるのならば、物語に深みが増して良いと思うのだけど、すぐに見つかってしまっては意味がない。

・最後が大団円なのは良いんだけど、母親がハジメを許す理由に乏しい。もっとガッツリと劇中劇の内容を見せて、母親から理解を取り付けた原因を示すべきだと思う。言うのは簡単だけど、きっと実現は難しい。でも、そうすればもっと意味のある脚本になると思う。

・一日目は卓と同じ側にいたから全然気づかなかったけど、二日目に反対側から見たら卓が丸見えなのはめちゃくちゃ気になった。舞台で遊ぶのは良いけれど、卓が見えるリスクを冒してまであの形状にする必要はあったのかな、という疑問も残る。特に親父の遺影役がジャージ姿で卓についているのは大変気になった。せめて卓につく人に何か統一感を持たせるべきだったと思う。衣装揃えるとか。黒子なんかは出てきても「見えない約束」として処理することができるから、何かそういう工夫が欲しかった。

・舞台構造に関してもう一つ言うと、途中でお客さんを入れるときにも、後ろから入れることができないので、入ってくるときにめっちゃ気になった。

・ただ、二つの場所の距離を表すことができているのは良かったし、面白かった。真ん中の台もうまく使えていたし、演劇でしかできない手法ではあると思う。メリット・デメリットあると思うけど、手法と面白かったので◎である。

・ていうか、全体的に舞台凝ってた。面白かった。照明もたくさんあったなあ。

・衣装めっちゃ良かった! かーみんのセーラー服がちょっとわざとらしいように感じたけど、あれはリアル演劇が衰退した未来においては制服はキャラダチしなくちゃいけないのか、するとさかほーの普通のスーツが「地味」と言われていたのも頷ける…なんて一人で考えて盛り上がってたけど、冷静に考えたら違いますね。

・衣装続き。バルタンの和服、せのの有名俳優風の衣装が特に良かった。わざとらしくない程度に演劇チックだった。衣装担当の演出に拍手。

・音響も効果的に使われていて楽しかった。ややミスが目立った感はあるけれど。

・照明も色を結構使っていたけれど、印象に残るような演出は無かった。まあ照明ってそんなものかも。





役者について。僕が言えることじゃないけど、ということも含めて。ご了承願います。


・全体
稽古の時間が足りていなかったという話を聞いていたけれど、それが何だか分かるかなあという感じだった。台詞を噛む・間違える回数が多い。自分もよく間違えるのでまあそんなもんかという気持ちで観ていたけれど、例えばもしもこれがお金をとる公演の場合、「完成度」というところで一つ問題があったのかもしれない。その辺、僕の主観では無くてちらほら耳にします。

・松尾壮将(松尾くん)
こんにちは、はじめまして。下の名前は何て読むんだろう? とりあえず、松尾くんと呼ばせていただくことにします。何かあだ名ついてたら教えてください。
彼の演技は初めて見たのだけど、やや固さがあるものの声はしっかりと出ていてメリハリも効いていて、なかなかしっかりできているなあと思った。堂々としてる。経験者なのかな? 全身も去ることながら、脚が細いので女装させる役としては良いチョイス。

・坂本峰(さかほー)
ハジメの周りからの評価って「一途でまっすぐ」とか「適当」とか一見矛盾するものなんだけど、さかほーがやるとうまい具合に止揚されているような気がする。ああ、いるいるっていう感覚。全体的にいい意味で「気の抜けた」演技、僕は好きでした。
ただ、これは本当に僕が言うなよって話なのですが、滑舌にやや難アリかな? 役者としての味はもう十分にあると思うので、長ゼリフや演技的に演技するところをもっとはっきり言うことができれば良いんじゃないかなと思った。僕は、長ゼリフと劇中劇のところ以外はだいたい聞き取れました。クマエンで今後に期待したい人ナンバーワンです。あの演技、好きだよ!

・山崎葉月(葉月ちゃん)
成長著しい。場数を踏んだ成果でしょうか。DENGEKIのときに繰り返し、ゆっくり話すようにと指導されたのが効いたのか、めちゃめちゃ伝わりやすい演技だった。ただ、他の役者と比べると少し表情に乏しいかなという印象もアリ。そういう演出だったのかもだけれど。
ただ、通常の葉月ちゃん(最近あんまり会ってないけど)からの変身ぶりは凄くて、それゆえ感じるものは僕の中で多々ある。今回の芝居では恐らく演者中もっとも普通の人であることが求められる役だったのではないでしょうか。そうか、そう考えると、あまり表情豊かすぎても困るのか…。世渡り上手で物事を冷徹に見ている感じは出てた。今度は、何か面白い役に抜擢されることを期待しています。

・清田奈々美(かーみん)
牛山ホテルも観たけど、もうかーみんは一つ完成されているなと思う。それは入部当初から思っていて、抜群にうまい。僕がとやかく言うのも恥ずかしいので、何も言うまいと思います。
ただ、これからは「かわいい」役以外にも出て欲しいなという希望が。毎回きゃぴきゃぴした感じが全面に押し出されてると思っていて(牛山は少し違うかもだけど)、そういう感じじゃない役が観たい。これは次の脚本・演出さんへの要望です。

・瀬上大輝(せの)
牛山ホテルの時にも書いたけど、成長しすぎていてマジで引くレベル。入部当初は経験者だったらこんなもんかなくらいだったんだけど、今では僕の中でケチのつけようがない。合宿辺りからヤバい。何本もの作品に出たのが功を奏したのだろうと思う。頑張った人には、やっぱり良いことがあるものです。努力の賜物。褒めすぎも良くないから、これくらいにしておく。
ただ、何だか「いやらしい」役が多い気もするので、次は違う感じのが観たい。あと、声の出しどころ(?)がどの役でも一緒のような気がしてて、声の出しどころまで変わるような役が良いなあ。声の出しどころって何だという文句は受け付けます。

・宮崎恵里(バルタン)
正直、台本の読み合わせをしているところに初めて遭遇したとき、凄く独特の読み方をする子だなあと思ってた(ごめん)。でも、めちゃくちゃ味のある演技になってて、老婆役ならクマエンで右に出るものはいないんじゃないだろうか。そういえば前の公演も老婆だった。演出ナイスチョイス。かーみんとかせのにも同じこと書いたけど、バルタンの違う姿に期待。
あと、今回の髪型めっちゃ良かった。役に合ってた。

・白武司(しらたけくん)
最後のちょい役だったけど、印象に残るおいしい役だった。ずるい。
DNGEKIのときより落ち着いて演技ができていたように思うのは、あまり気負っていないせいか、それとも努力の成果か。いずれにせよ、今回堂々としてたし良かった。次回は、もっと大きな役に期待。


僕の中では、やっぱりせのとかーみんがずば抜けてうまいなあという印象。他の演者も味があって良いと思うけれど、「上手い人」と訊かれたらこの二人かな。自分のことを棚に上げて、贔屓目無しに、一観客として見るとそんな感じ。
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DENGEKI vol.3 本選出場5団体の観劇レポート

今年も熱狂のうちにDENGEKIが終焉を迎えた。今年で三回目を数える若手演劇団体ナンバーワンを決めるこのイベントには、熊本外からも人が集まり、合計10団体で優勝盾を争う。

予選A、Bを勝ち上がった5団体が決勝を戦う。僕はこの決勝を見ることができたので、それぞれの団体への感想を書き残しておきたいと思う。演劇と出会って二年目のひよっこが書くものなので、ご笑覧を。

gojunko

唯一九州外の団体で、なんと東京からの参戦。来年度以降も、九州外からの参加者が居てほしいものだと個人的には願っている。

gojunkoの芝居はリアリズム的、あるいは現実主義的側面が強いものだと感じた。しかし、手法は斬新で、ある恵まれない一人の女性の心情を二人が交互に会話することによって物語が進んでいく。一人語りでは実現できないのは、「会話」である。人々の心の中には必ず複数の人物が住んでいる。それは現在と対比してまだ過去をひきずっている自分かもしれない。

最初に出てくる白紙の手紙は、終幕に近いところで過去の自分からの手紙だということが明らかになる。手紙を持ってきた人物は過去の自分かもしれないと観劇者は推定することができるだろう。そういう視点を持って頭の中に残っている物語を遡って行けば、また新しい発見があるかもしれない。

それから、二人で語ることの重大な効果がもう一つ。作中では主人公以外の人物たちが回想形式で幾度も出演する。その人物たちとの関係性を描くためには(身体演技的にも、言語演技的にも)二人の登場人物が必要であっただろう。

この物語にあるのは不幸な一人の女性の感傷である。しかし、それを二人の人物が交互に語ることによって、そこに新たな感情が生まれる。それをどのように解釈するかは、観客に委ねられることになるだろう。

劇団鳴かず飛ばず

コメディとして出色。最初から最後まで、観客席からの笑いが絶えることがなかった。思い切って熊本のことを馬鹿にしたことが、今回の成功に繋がったと言えるだろう。

小道具の使い方もとてもうまくて、特に「フラフープ」を様々な方法で使っているのが印象的だった。その他にも、くまもんのお面やくまもんのソフトハンマーを持ってくるなど、”熊本で行われるDENGEKI”というものを強く意識しているということが感じられた。この辺りも、決勝に進むことができた秘訣かもしれない。

演劇はややもすると抽象的な方向に走ってしまいがちだ。それで面白くなるのならば良いのだが、逃走の方法として抽象化を目指すことも少なからずみられる。その中で、鳴かず飛ばずは徹底して分かりやすい芝居を展開していた。すべったらどうしよう、などということは全く考えられていない。次々と繰り出されるギャグの数々が心地よかった。鹿児島での更なる期待を活躍し、また来年もDENGEKIでに出場されることを願いたい。次は、どのようなテーマで挑戦するのか。

with a clink

熊本唯一のミュージカル劇団ということで、劇中にもたくさんの歌やダンスが取り入れられているのが印象的だった。gojunkoがリアリズム的・現実主義的ならば、with a clinkはロマンチシズム的・理想主義的ということができるだろう。世界中の本を読んだ司書さん、子どもの頃に読んだ本を探して図書館に通い詰める青年、「ペーパーフィッシュとサイダーの海」というタイトルもロマンチックだ。図書館という場所はロマンチックな場所として機能するものかもしれないなあと、ジブリの名作「耳をすませば」を思い出しながら考えていた。

舞台装置が飛び抜けて良かったように思う。特に光る本棚には感動した。また、ガムテープを使うシーンで、その効果音として本当に後ろの方でガムテープをはがすなど、細かな演出を感じることができてそこも良かった。

中核的な役割を果たす人物は二人で、もちろんその二人が前景として昨日しているのだが、光景に四人の人物がいて、この四人の動きも楽しむことができた。人の使い方がうまい劇だったと言える。

劇団ヒロシ軍

昨年に続き、二度目の出場となる劇団ヒロシ軍。今回も順当に決勝に駒を進めた。
前回の作品も見ているので、ヒロシ軍らしい青臭さが出ているなあと今回は安心して見ることができた。逆を基本としつつも、実はその奥底にとてつもないリアリズムが潜んでいる。

まずは導入が見事。前説をしているのかと思えば、実はもうそこから芝居が始まっているということに驚き(僕がにぶかっただけかもだけど)。そこで観客を巻き込むことによって、終止拍手を貰ったりするなど、彼岸と此岸をつなぐ仕掛けがうまく機能していると感じた。演劇はどうしでも生ものだから、こうして観客を巻き込むことができる芝居というのは、一つの理想形ではないだろうか。

主人公をずっとヒーロー的に描いていくのだが、そのヒーロー像を終幕に近いところで徐々に解体していくのがまた面白い。主人公に感情移入していた人々は、すぐさまそこから距離を取ろうとすることだろう。脚本からも、あらゆるものを相対化しようという意識が感じて取れる。

それから、触れておかなければいけないのは持ちネタといっても良いペットボトル一気飲みである。今回は一回の芝居のうちに二回行い、いずれも観客の拍手を誘っていた。来年は更に進化した一気飲みに期待したいところだ。

DO GANG

参加三年目にして遂に優勝盾を獲得したDO GANG。今回が初優勝とはいえ、過去大会でも好成績を収めている彼らには他の劇団には見られないような風格が備わっていたように思う。

ネコという名前の犬や、吉田偽男(ブラフマン)という一匹と一人で物語が展開される……と書くとわかっていただけると思うが、序盤からシュールさ全開の芝居であった。そのままシュールで押し切るのかと思いきや、ちゃんと骨のある物語も備えている。

ニートの吉田は人間の世界に絶望していて、死にたいと願う。しかし、死へと逃避したところで現状が変わるという保証はない。もしもあの世があれば、そこで働かなければならないかもしれないからだ。これは現代社会を生きる僕らへの痛切な風刺になっている。逃げてもその先に快楽があるとは限らないのだ。

個人的には小道具にSurface Pro3が使われていて「良いなあ」と思った次第である。僕は初代SurfaceRTの非力さを身に染みて感じているから、ちょっと触らせてもらいたいなあと思いながら見ていた。

総括

今回のDENGEKIには僕も熊本大学演劇部(クマエン)の「冷たい味噌汁」に出演させていただいた。結果はぶっちぎりの予選敗退という結果になってしまい、去年のクマエンの二の舞という形になってしまったんだけど、毎年重要なことを学べているような気がする。シビアな勝負の世界で戦って「悔しい」と感じることはとても大事なことだ。

前回・前々回優勝の不思議少年が不在の今大会ではどの団体が優勝してもおかしくなかった。いや、不思議少年が居たとしてもどこが優勝していたか全く分からなかっただろう。結果としてはDO GANGの優勝ということになったが、他の団体も票が拮抗していたし、個人的には劇団鳴かず飛ばずが一番良かったと思っている。もちろん他の劇団も良かったのだが、上でそれぞれの魅力については書いたので割愛する。

来年も開催されたら、僕は絶対に観劇に行きたいと思っている。どんな劇団が登場するのか、そしてどこが優勝するのか、今から楽しみでならない。

【ゼロソー】 松岡優子舞台生活30周年記念公演『つれなのふりや すげなのかおや』観劇レポート

熊本市内には多くの小劇団が存在する。
その中でも中堅的位置に存在し、コンスタントに演劇を続けている劇団がこの『ゼロソー』です。

僕は熊本市内にある「早川倉庫」で行われた『ゼロソーの嫉妬(ラ・ジャルジー)』を観劇したことがあります。
つまり、僕がゼロソー主催のお芝居を観劇するのは、これで二度目ということになりますね。

松岡優子さんの舞台生活30周年記念公演第二弾、ということで。もちろん第一弾もあったのですが、あいにく都合が悪くて行くことができず……。今回の公演を見て、第三弾は絶対に行こうと心に決めている次第であります。

さて、この『つれなのふりや すげなのかおや』ですが、三本の短編が一つの話を織りなすという形になっています。

その三本とは、
「Eight Arms to Hold You.」作:石田みや
「つれなのふりや すげなのかおや」作:亀井純太郎
「梅酒」作:田中知啓

となっています。

石田みやさんは脚本家であり、演出家であり、役者でもあります。
テント劇団「どくんご」に参加し、全国で公演を行っています。

亀井純太郎さんは熊本の劇団「第七インターチェンジ」の代表であり、同劇団の脚本・演出を担当しています。「トリオ」では役者としての一面を垣間見ることができました。

田中知啓さんは熊本大学理学部に在籍している方で、同大学の図書館が主催する文芸賞「東光源文学賞」において最優秀賞・優秀賞と取っておられる方です。

そんな三人がそれぞれ書いた作品を亀井純太郎さんが構成し、演出したものが大枠としての『つれなのふりや すげなのかおや』となります。

しかも、その構成の方法が斬新。短編をそれぞれ独立して上演するのではなく、すべての作品を並行して上演するというものです。

その一見バラバラで無秩序に見える話を繋ぎとめる役割をしているのが主演である松岡さん。彼女の演技は一見の価値ありです。今まで見てきた女優さんの中で、一番自信に満ち溢れているというような印象を受ける方でした。

そして特筆すべき点はその舞台装置と音・光です。
舞台上を縦横無尽に動くパネル、天井から出てくる「何か」(見てのお楽しみ!)、点滅し明滅し、様々に表情を変える光。僕らを舞台からひきつけて離さない音響。
そのどれもが、見事に亀井さんの演出とマッチしていました。

構成・演出を考えるという点について、僕も学ぶところが多いにありました。
脚本も素晴らしかったのですが、僕はこちらの方に目がいきましたね……

この『つれなのふりや すげなのかおや』は27日(月)まで公演を行っています。
お時間のある方は、是非ご覧になってください。
料金は、前売りで一般が2000円、高校生が500円。当日券はそれぞれ500円増しとなっております。

予約の方法など、詳しい情報はこりっちへ!
 →つれなのふりや すげなのかおや


自発的に動くということ 伊丹万作『演技指導論草案』を読んで

先日、伊丹万作の『演技指導論草案』を読みました。
伊丹万作は戦前の日本を代表する脚本家・映画監督・俳優であり、ノーベル賞作家大江健三郎の義父にあたる人物です。

恥ずかしながら、彼の脚本や映画というものを僕は全く知らないのですが、「演技とは何か、創作とは何か」を考える上でこれを青空文庫で読んだので、読んでみた感想というか、気づいたことを書いていこうかと思います。



リーダーは一番働け
まず、全体を通して僕が感銘を受けた言葉がこちら。
演出者が大きな椅子にふんぞりかえっているスナップ写真ほど不思議なものはない。病気でもない演出者がいつ椅子を用いるひまがあるのか、私には容易に理解ができない。

これは、映画や演劇だけにいえることではないと思います。
演出家というのは、舞台や映画の全体を決める重要な役割を担っています。これを一般的な社会に置き換えるならば、リーダーと呼べるものになるでしょう。

演出家の意向次第で、様々なことが変更されます。照明のあたり方や音響、小道具や俳優の演技も変わってしまうのです。
演出家は頭脳的な役割を担っているということもできるでしょう。

そんなリーダーであり、頭脳的な役割を担った人が、あまり自分では働かないという場面に私はよくでくわします。

自分は指示さえ出していればいい、自分は考えてアイデアさえだしていればいい。
そう考えている人、あなたの周りにもいませんか?

しかし、リーダーというのは、誰よりも動かなければいけない人だと思います。
自分が受け持った仕事のすべての知識を得て、すべての仕事を理解すべき存在なのです。
そんな人が椅子にふんぞり返っている暇など、確かにないなあと思います。

つまり、リーダーは一番働く者であれ、ということです。
僕は今度舞台の演出を務めることになるので、この言葉は肝に銘じておこうと思います。


偶然を排除せよ
伊丹万作は次のように言います。
 演技の中から一切の偶然を排除せよ。
 予期しない種々な偶然的分子が往々にして演技の中へ混じりこむ場合がある。
(中略)演出者の計算にははいっていない偶発的なできごとは一切これを演技の中に許容しないほうがよい。ところが我々は実際においては、ともすればかかる偶然を、ことにそれが些事である場合には、いっそう見逃してしまいたい誘惑を感じる。
 そしてその場合、自分自身に対する言いわけはいつも「実際においてもこういうことはよくあることじゃないか」である。

うーん、なるほどなあと思いました。
僕らは、生きる上で常に偶然とともに生きています。
その中で、偶然の出来事が笑いになることを知っています。

例えば自己紹介をするときに、自分の絶妙な噛み方で笑いをとることができたり、ナイスタイミングでくしゃみが入ることで、それが空気を和ませることがあります。

しかし、意図的に人を楽しませたり場を和ませたりしたいというのならば、これは偶然に頼ってはならないのです。

例えば、プレゼンをしなければならないとしましょう。
場を和ませるために、いわゆる"つかみ"というものが大事になっています。

この"つかみ"ですが、はじめから準備しておかないと、ほぼ間違いなくすべります。

お笑い芸人なんかだと気の利いたセリフをとっさに言うこともできるでしょうが、彼らだってはじめは「漫才」や「コント」といった、台本のあるものからはじめているのです。

言葉の瞬発力というのは一朝一夕で習得できるものではなくて、それを習得するまでは、事前に準備するということで修練を積まなければならないのです。



演出のメソッドは、実生活でも役立つことが多い


人間が創造的な生き物であるという性質ゆえ、演出の方法論というのは、実生活でも役立つものがあります。

リーダーは偉そうにしてはならないし、事前の準備を怠ってはならない。

当たり前のことも、こうしてみると説得力を持つように思います。
ああ、ぼくも実践しなければ!