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名作を読む 梶井基次郎「愛撫」

梶井基次郎という作家を聞いて、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。
私は「檸檬」を思い出します。みなさんも、高校国語の教科書なんかで梶井の「檸檬」を読んだことがあるのではないでしょうか。
彼の命日は代表作「檸檬」にちなんで「檸檬忌」と呼ばれています。

さて、今回は「檸檬」ではなく、「愛撫」という作品をご紹介したいと思います。
有名なのは最後の文
「仔猫よ! 後生だから、しばらく踏み外はずさないでいろよ。お前はすぐ爪を立てるのだから。」

僕は物書きのための語彙bot(@monokakigoi_botを作っているのですが、そこで「後生」の項目を編集しようとしたときに「後生」を検索してみたときに知った作品です。

どんな作品かと言うと、一言で表すならば「猫の小説」です。
猫について梶井の思うところが存分に詰め込まれている作品と言っていいでしょう。

例えば、猫の耳に対する考察。
切符切りでぱちんとやってみたい、なんて残酷なことも出てきます。
でも、私たちも子どもの頃に、同じような残酷な思想を持っていたのではないでしょうか。
例えば、虫の解剖なんかを子ども時代に平気でやっていた御仁もいらっしゃるのでは?

しかも、猫の前足が化粧道具になってしまうなんて驚きの展開も用意されています(まだ読んでいない方も安心してください。別にこれが重要なことということでもありません。ストーリーなんてあって無いようなものですから)。

猫好きの方には是非読んでいただきたい作品ですね。
今後の猫との付き合い方が変わってくるのではないでしょうか。
なお、最後のシーンをご自分で再現するときは、くれぐれもご注意なさいますよう!


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名作を読む 新見南吉「手袋を買いに」

新見南吉という作家をご存じでしょうか。
名前は聞いたことがなくても、「ごんぎつね」を知っている人は多いでしょう。
そう、新見南吉はその「ごんぎつね」の作者です。

仮想の世界イーハトーブを描いた宮沢賢治と同じ時代に生きた童話作家で、「北の宮沢、南の南吉」と呼ばれ、賢治とは好対照をなしていた人物です。

今回、この作家の「手袋を買いに」という作品をご紹介いたします。
この作品には、ごんぎつねと同じようにキツネが登場します。

話の筋は以下の通り。

ある冬の朝、キツネの母親と息子が住処の洞穴から出てきて雪の中で遊んでいました。
子狐は無邪気なもので、雪の冷たさも忘れて遊んでいます。
母親は、子狐がの手が霜焼けにならないか心配で、手袋を買ってやろうと思います。

そこで二人で人間の町に手袋を買いに行こうとします。
しかし、母親は以前人間に追いかけられたことを思い出し、足がすくんでしまいます。
そこで、子狐が一人でおつかいに行くことになります。

初めて来る人間の町。
片手だけは、お母さんが人間の手にしてくれています。
人間は悪いやつだから、狐だとわかると捕まえられると言い含められている子狐。
なので、こちらの手だけを出して、手袋を売ってもらうのです。

ところが、子狐は人間の手とは反対の手を出してしまいます。
それにも関わらず、手袋屋のおじさんは手袋を売ってくれました。

子狐は思いました。
人間は悪いやつだと思っていたけれど、いい人もいるじゃないか、と。

そこへ子守歌が聞こえてきます。
狐のおかあさんに似たようなやさしい声です。
人間の子供も、もう眠りにつくころなのです。

子狐は早く帰りたくなって、跳んで帰りました。
お母さんも子狐を心配して待っていました。
子狐は言います。「母ちゃん、人間ってちっとも怖かないや!」
母親は「ほんとうに人間はいいものかしら、ほんとうに人間はいいものかしら」と呟きます。



この作品はとても童話らしい童話なあという感じがします。
描写がとても綺麗ですね。

最初のシーンなんか大好きです。
子狐の目に何か刺さったの思ってこちらまで心配したのに、それが太陽光線だったなんて。

私たちは、初めて目にする自然の感動というものをもう忘れてしまっています。
初めて太陽を見た日のことなんて覚えてないでしょう?
その感動を疑似体験できるのです。
あ、初めて太陽を見るときって、こんな感じなんだ。


終わり方も好きですね。よくある結末な気もしますが、何か真理を表している気がするのです。

狐を追いかけるような人間もいるけれど、黙って手袋を売ってくれるような人間もいる。
しかも、人間の子供と自分は何も変わらない。
人間って、案外捨てたもんじゃないぞと思えるのは、すごく良いと思うのです。
……まあ、母狐の場合は友人が家鴨を盗んでいるので、追いかけられるのは当たり前だと思うんですけどね。

ただ、僕がよくわからないのが、母狐の行動です。
どうして子狐を一人でおつかいに行かせたのでしょうか。
家鴨を盗んだらお人間が追いかけてきたということから、母親の意識には人間が危険な生き物であるという意識があったはずです。

この状況で、普通の母親だったら子供をおつかいに行かせるでしょうか?
だってこれは、戦争中に敵地におつかいにいかせるものでしょう。

ここは物語の構成上しょうがない、というべきなのでしょうか。
町へのおつかいが子狐だけでなかったのならば、この話は大幅に変わってしまうでしょう。
しかし、なんだか他の狙いがあるような気もするんですよね。
そこまで新見がうかつなのかなあ、とも。


とても短い作品なので、是非読んでみください。

名作を読む 芥川龍之介「羅生門」

多くの人が、この作品の初読は高校の現代文の授業ではないでしょうか。
もちろん、私も高校で初めてこの作品を読みました。

例えば泉鏡花や漱石の『草枕』などが出てきて、それを高校生が読み通すということはとても難しいことでしょう。

しかし、芥川の文章は読めます。辞書を引かずとも、ほとんどはっきりとその輪郭をつかむことができるでしょう。

また、辞書を引くことで、さらに古き良き日本語というものを知ることもできまs。
この点が、「羅生門」が高校教科書に採用される要因となっているのではないでしょうか。

もちろん、この作品は内容面でも優れていると思います。
高校生といえば、自分の善悪の判断が正しいのか悩む時期ではないでしょうか。
この作品は、善悪の判断には基準などない、決めるのは自分自身だということを教えてくれているような気がします。

まずは、話の筋を追ってみましょう。

雨が降っている日のことです。羅生門の下に一人の下人が立っています。
この下人、不況の余波をくらって先日奉公先に暇を出されたばかり。食べるのにも困る生活をしていたのです。
下人は、盗人になるか、盗人になるくらいならいっそ餓死しようか逡巡します。

なんとか寝る場所を確保しようと、下人は羅生門の上にあがっていきます。そこは、死体遺棄場となってしまっているのですが、背に腹は代えられません。

上へ上がると、その臭気に思わず鼻をつまむ下人。
しかし、その臭気もすぐに飛んで行ってしまうような衝撃が下人を襲いました。
老婆が死人の髪を抜いているのが目に入ったのです。

彼の心に、悪を憎む気持ちが芽生えました。先ほど自分が盗人になろうかと悩んでいたことなど、忘れてしまっています。

下人は老婆に飛びかかり、ここで何をしているのかと聞きます。
老婆は、カツラを作るために髪の毛を抜いていたのだと言い、今髪の毛を抜いている女は悪女だと強調したうえで、こう弁明します。

「わしは、この女のした事が悪いとは思うてゐぬ。せねば、餓死をするのぢやて、仕方がなくした事であろ。されば、今又、わしのしてゐた事も悪い事とは思はぬよ。これとてもやはりせねば、餓死をするぢやて、仕方がなくする事ぢゃわいの。ぢやて、その仕方がない事を、よく知つてゐたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」

その言葉を聞いて、下人はこう言います。
「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もさうしなければ、餓死をする体なのだ。」

そして、下人は老婆の着物を剥ぎ取り、走り去っていきます。
最後の一文は有名ですね。
「下人の行方は、誰も知らない。」


さて、この話で最も注目すべきは、上でも述べたように善悪観や倫理観といったものだろう。

あなたは、この老婆の行動や言い分が正しいと思いますか?
また、この下人の行動や言い分が正しいと思いますか?

私は、正直これじゃいけないよなあと思います。
というか、こういう考え方の人が世の中に溢れていたら、今頃大変なことになっているんじゃないかなあって。

例えば。今朝あなたが自転車をドミノ倒ししてしまったとします。
急いでいなければ、起こしますよね?
例えばもし急いでいてそのままにしたとして、罪悪感を持ったままその場を去ると思いまs。
そして、次のひ時間の余裕があるときに他の誰かがドミノ倒しをしていたら、あなたは喜んで自転車起こしを始めるのではないでしょうか。罪悪感から逃れるために。

罪悪感。不確定なものながら、この感情の持つエネルギーというものは大きいです。
下人も最初は罪悪感を持っていて、ゆえに盗人になる決心がつかずにいたのです。

ただ、下人は不幸でした。その罪悪感を失ってしまった老婆と出会ってしまったからです。
……いや、不幸かどうかはわかりませんね。だって、下人はここで老婆と出会っていなければ餓死を選んでいたことでしょうからね。

ドミノ倒しでは死なないけれど、ここでは「死」というものが絡んでくるのです。

「死」は物語に深みを出す魔法なのではないかと常々思っています。おそらく、「恋」も魔法の一つでしょう。

どれだけ高尚なことを述べたところで、人間の悩みというのは、すべて「死」と「恋」に集約されてしまう気がするのです。

さて、この大きな「死」に直面すると、私たちは大事なものが見えてきますね。
命を賭してでも守らなければならないことは何か。
僕には子供がいないので、命を賭けて子供を守ろうとする人々の気持ちがわかりません。
ただ、自分の好きな人のために死ぬ気持ちというのは、なんだかちょっとだけわかる気がするのです(もちろん、死に直面してみないとわからないなあとは思います)。


さて、内容はこれくらいにしまして。
手法でちょっと気になったところを取り上げていきたいと思います。

まず、下人が羅生門の楼の上に出る場面。
「それから、何分かの後である。羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫のやうに身をちゞめて、息を殺しながら、上の容子を窺つてゐた。」

ここで、おや? と思いました。この「男」というのが誰を指すのかわからいのです。
もちろん、少し読み進めていけばこれが誰なのかすぐにわかります。先ほどまで登場していた下人です。
しかし、先ほどまで「下人」と呼ばれていた彼が、突然「男」と呼ばれたのはなぜなのでしょう。違和感がありますね。

これは三人称小説(神の視点)だから成せる業でしょうが、「羅生門」は非常に視点の移動が多い小説です。
最初は下人の姿や心に焦点を合わせていたのだが、時には老婆に焦点が移ったりして、最後にはなんとずっと追いかけていた下人の姿とも心ともおさらばするのです。「下人の行方は誰も知らない」
私たちは、知らずしらずのうちにこの構成に魅せられているのですね。

また、冒頭近くで出てくる鴉も印象的です。この動物は、どうしてこんなに強い印象を我々に与えるのでしょうか。

鴉と言えば、長州藩士の高杉晋作が作った都都逸「三千世界の鴉を殺し 主と添い寝がしてみたい」が真っ先に私の脳裏には浮かびます。

また、太宰の書いた「竹青」も鴉の話でしたね。

「鴉の文学」というのはまだ研究されていない分野なのではないでしょうか。
今後調べてみるとともに、先行研究がなければ、研究してみても面白そうですね。

名作を読む 太宰治「葉桜と魔笛」






太宰作品の中で何が一番好きかと問われれば、

私は真っ先にこの「葉桜と魔笛」を思い出します。

と言っても、私はこの作品を長年愛していたというわけではなく、

本当にごく最近、この作品に出合ったのです。



物語の筋はこうである。



語り手である老婦人には、その昔妹がいた。

彼女は幼少の頃から病気を患っており、18歳になったときに遂に余命宣告をなされる。



そんな折、姉は妹が保管していた手紙の束を発見する。

封筒に書いてある差出人はそれぞれ違っていたが、

開封してみれば、それはすべてある詩人から送られてきた手紙であった。

さらにその手紙の内容から推察するに、二人は恋仲にあり、

しかも妹はすでに純潔を保てていなかった。



その発見と前後して、その男からまた一通の手紙が届く。

その内容は、夜六時になれば必ず軍艦マアチを吹きにきますよ、

というものであった。



しかし、この手紙の内容が明らかにされた直後に、

この手紙は姉が書いたものであることがわかる。

さらに、姉が発見したそれ以前の詩人からの手紙は、

すべて妹が自分で書いたものであることがわかる。



その二つの事実がわかったとき、口笛の音が聞こえた。

時刻はちょうど六時。もちろん、姉が何か目論んでいたわけではない。



何が起こったのかわからぬまま、妹は三日後に死んでしまう。





と、だいたいはこんな話である。

とても短い話なので、みなさん読んでもらった方が理解が早いかもしれない。

青空文庫にも入っています。



私が初めて太宰を読んだのが、恐らく他の多くの人もそうであろうと思うのですが、

『人間失格』だったのです。

私は、この作品が大嫌いでした。



ナルシズムと言い訳、自己肯定にあふれた作家であるから

私はこんなやつが目の前に出てきたら一発で嫌いになると思いました。

でも、「嫌い」と思うのも非常にエネルギーのいることで、

その「嫌い」のエネルギーで私にその作品を読了させてしまった太宰という作家は、

今までの私が好きだった作家と違った意味ですごい作家なのだと当時思いました。



それから「女生徒」や「斜陽」を読み、太宰の描く女性がいかなるものであるかを学びました。

私は太宰が描く女性は大好きです。

特に好きなのは「ヴィヨンの妻」に出てくる、ダメ男の妻です

。あのしなやかさが、私は大好きなのです。



さて、前置きが長くなってしまいました。

「葉桜と魔笛」に対する私の見解を述べたいと思います。



初読に際して、私は途中まで特に何の感慨もなく読んでいました。

手紙の中に出てくる詩人は、よくある私の嫌いな太宰でした。

調子のいいことを言う、ダメ男でした。



しかし、手紙の後に私のこの作品に対する気持ちががらっと変わることになります。

先ほども書いた通り、この手紙は姉が書いたものだったのです。

この事実が、いいじゃありませんか。

私はこのような女性を愛していたのです。



ダメ男を許容できる女性。

私はそういう女性を愛しているのだと思います。

だから、こういうダメ男を想定してい書いている姉も良いし、

そういうダメ男を愛することができるであろう妹も、

また良いと思うのです。



そう考えると、ややロマンチックすぎるような「葉桜と魔笛」というタイトルも

とてもいいもののように思えてきます。



太宰の言葉は綺麗で、私はこの句読点の打ち方というものには

尊敬の念を抱いています。



皆様、是非この作品を読んでみてはいかがでしょうか。