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夏目漱石『こころ』を再読して思うこと

皆さんこんにちは、あとーすです!
漱石の『こころ』を読む演習を履修しているので、久しぶりに再読してみました。

不思議と昔のような感慨を感じなくなってしまいました。以下、『こころ』を読んで感じたことを即興的に書いていこうと思います。


『彼岸過迄』、『こころ』、『行人』の漱石後期三部作のうち、『こころ』と『行人』のふた作品を僕は読んだことがあります。この二つの作品には、やはり共通点を感じます。
ひとつは、物語の主軸に恋愛の問題が据えられているということ。『こころ』のKが自殺した要因は恋愛によるものだけではなかったかもしれませんが、それが最も大きな要因であったことは自明のことでしょう。

『行人』もまた、主人公と嫂との関係に主軸が置かれている。結局、人間はこのテーマから逃げられないのかなあと思ってしまいます。

さらに、この二作品は形式の上でも似ているところがありますね。「手紙」という装置を使っているところです。この装置によって、自然な流れで人称を変えることに成功しています。よくよく考えたら、同一の小説で視点が変わるものというのは、純文学の系統ではあまり存在しないように思います。(もし他にもあれば、教えていただけると幸いです)

二葉亭四迷の代名詞ともいえる『浮雲』も、同じような問題を取り扱っているように思います。文体の上でも大きな違いがありますが、やはりこの人称を変更できるということが、『こころ』と『行人』に奥行きを与えているように思います。近代小説は基本的に自我との闘いを描写するものかと思っていましたが、この二作品はしっかりと主人公以外の他者を描写している。



『こころ』の話をするつもりが、『行人』の話も混じってきてしまい増した。少し『こころ』の内容にも触れておきたいと思います。

僕は基本的に、なんだか先生にあまり共感することができない。まあ、お金関係で親戚から騙されたこともなければ、恋愛沙汰で親友を自殺に追いやった経験もないからなのでしょうが。
しかも、この二つがどうも現代では既に陳腐なお話になってしまっていると思うのです。過去の作品に向かって現代の感覚で「陳腐だ!」というのもおかしな話なのですが、まあ、そう思ってしまうのは仕方がない。

ただまあ、そういうところが分かりやすいから高校国語の定番教材になっているのかもしれませんね。誰が読んでも、一応ある程度の反応は期待できる。
それでいくと、僕は梶井基次郎の『檸檬』が定番となっているのは少し謎なんですけどね。あれを読んで、どう反応すればよいのやら……。



ざっとこんな感じになるでしょうか。
久しぶりに記事の更新をしているので、少し感覚を忘れつつあります。もっと書いて、精進せねば。
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お湯は冷ましてから冷やせ!! 冷ますと冷やすの違いについて

みなさんこんにちは、あとーすです!

今日も授業で面白い話を聞いてきたので、それを自分なりに解釈して皆様にお届けしたいと思います。



今回は、類義語について。類義語について。例えば「暇」と「退屈」、「恋」と「愛」、「美しい」と「綺麗」などがそれぞれ類義語ということになるでしょう。ちなみに、Weblio大辞典によると、「類義語」という言葉の類義語は「同義語」になるのだそう。しかし、「同義語」の同義語が「類義語」ということはなくて……うーん、なんかややこしくなってきた。



さて、本記事で取り上げたいのは「冷やす」と「冷ます」という二つの言葉について。どちらも「何かの温度を下げる動詞」という点で共通しており、類義語ということが言えます。でも、全く意味が同じというわけではありません。私たちは、無意識のうちにこの二つを使い分けていますよね? その使い分け方の基準を探っていきたいと思います。


冷やすと冷ますの違いを探るために、まずはこの二つを使う言葉をリストアップしてみました。「冷やす」「冷ます」「どちらも使える」の三つに分類してみました。以下は、僕の行った分類です。思いついたままに書いてみたので、おかしなところもあるかもしれませんが、参考までに。

「冷やす」
・スイカ
・そうめん
・氷
・アイス
・リンゴ
・水
・ぬるま湯
・部屋
・空気

「冷ます」
・お湯(?)
・熱

「どちらも使える」
・身体
・パソコン
・焼きリンゴ
・牛乳
・2人の関係

ざっとこんな感じになりました。今読み返してみると、「冷ます」に分類しているものが少ないですね。個人的には、「冷ます」という単語の方が特殊な使い方をするような気がしていました。本当かどうかはわかりませんが。

さて、分類してみたはいいのですが、果たしてここに使い分けのルールなんてものがあるのでしょうか? みなさんも少し考えてみてください。「冷やす」はどのようなときに使い、「冷ます」はどのようなときに使うのか。

ちなみに、僕は以下のように考えました。

冷やす……元の温度に関係なっく、冷たいと感じるまで温度を下げる。
冷ます……元々熱いものを、熱くなくなるまで温度を下げる。


ここで、少し個別の例を見て行こうと思います。「冷やす」と「冷ます」は、どのような場面で使うのか。僕は「お湯」を「冷ます」でしか使わない言葉だとしましたが、果たして本当にそうでしょうか?

「お湯を冷ます」と「お湯を冷やす」。なるほど、確かに後者は不自然に聞こえるような気がします。しかし、例えばお湯の温度を急速に下げる必要があったとして、まだボコボコいってるようなお湯を冷蔵庫に入れるとします(とんでもない! と言われるかもしれませんが)。

この場合は、「冷蔵庫に入れて、お湯を冷やす」と言えるのではないでしょうか? 基本的に、お湯は「冷ましてから冷やす」という操作をすると思います。この辺に、「冷ます」と「冷やす」の違いが如実に出ているような気がするのですが、冷蔵庫に入れてお湯を冷やすということができるなら、なんだかややこしくなりそうな気がします。



授業で答えらしきものを聞いたので、それを書いていこうと思います。「冷やす」は終点が大事な言葉で、「冷ます」は始点が大事な言葉なのだそうです。「冷やす」は最初の温度に関わらず、冷たいと感じる点まで温度を下げます。「お湯を冷やす」と言う時には、お湯を冷たい水にまでするでしょう。氷を冷やす、というように元々冷たいものをさらに冷たくする場合もあります。



恋は冷めるけど冷えないなんだか、なるほどなあと思ってしまいました。そうすると、これは比喩的な意味の使い方にも影響を及ぼしているのでしょうか? 例えば、「百年の恋もさめる」というような言葉。「百年の恋も冷える」とは言いませんよね。

「冷ます」というのは始点が大事な言葉でした。つまり、あまり終点を想定しておらず、マイナスにはならないのです。恋という概念において、マイナスという概念はないのかもしれませんね。

ところで、「興奮」もさめるものですね。この場合も「冷める」と書くのでしょうが、恋でも興奮でも、「冷める」は「醒める」と通じているところがあるような感じがします。興奮も恋も、何かぼーっとした状況が続く。そこから「醒める」ということとダブルミーニングなのかなあと思いました。




さてさて、いかがだったでしょうか? 類義語というのは、使い方の区別が難しいものです。
また何か類義語について考えることがありましたら、ここに書かせていただきたいと思います!

青空文庫世代の4月課題図書『人間失格』投稿ありがとうございました!

みなさんこんにちは、あとーすです!

さて、4月(正確には3月の終わり)から始めたネット読書会「青空文庫世代」ですが、第一回が遂に締切りとなりました。

今回は合計で三本、太宰治『人間失格』についての感想文が集まりました。
次回以降はもっとたくさんの方の参加をお待ちしております! また、今回は議論にまで発展しなかったので、次は是非みなさんの熱いバトルを待ちたいと思います。


さてさて、4月の投稿は以下の通り。

「人外の存在から見た人間の姿」

「人間失格=新しい人間の誕生」と捉え、人間が書いたとは思えない作品に仕上がっている、という趣旨の感想でした。
性について太宰の描写が優れている、とするのは僕も賛成です。しかし、やはり葉蔵は人間誰しも持っている側面を極端に描いた物なのかな、という気が僕はしています。


教養なのか、娯楽なのか

人は何のために本を読むのか、という部分にまで焦点を当てた感想だったように思います。人は教養か娯楽のために本を読むような気がするけれど、そうじゃない本がある。誰しも、そういう本があるのではないでしょうか?
「共感」これはひとつのキーワードになりそうですね。共感が強い作品に、僕らは惹かれていくのでしょうか。


葉蔵は一体、幾人の女を犯し、幾人の女に犯されたのでしょうか。

拙いですが、僕の感想です。
葉蔵と性体験をざっくりとまとめ、そこに感想をつけています。お暇があれば、こちらもお読みください。



僕はこれで人間失格を三度読んだことになるのですが、他の方の意見を聞くと、まだ知らないその作品の扉を開くことができると実感しています。今回は投稿者が思うように伸びませんでしたが、そのことを知れただけで成功かなと思います。

さて、五月のお題もすぐにお知らせいたします! 次回はもっとたくさんの方の参加をお待ちしておりますので、お気軽にご投稿よろしくお願いします。他の方の感想についての感想を書くのも大歓迎です。皆さんで盛り上げていきましょう(^o^)/

よろしくお願いします!
青空文庫世代

鋭利じゃない刃物、とは何か

殺人事件では鋭利な刃物がよく使われる。刺殺のニュースが流れる度にセットで、僕らは「鋭利な刃物」という言葉を聞く。何気なく聞き流す言葉だけれど、僕の周りでは、この「鋭利な刃物」に関する論争が幾度となく行われてきた。

最初の論争は小学生のときではなかっただろうか。勉強もできて工作が得意で後にギターもこなすようになるめちゃくちゃ憧れの存在である僕の友達がいるのですが、その友人が突然聞いてきました。「鋭利じゃない刃物って、あるんかな?」と。

それまで、僕はそんなこと考えたこともありませんでした。「鋭利な刃物」という言葉を聞いて、ナイフの類を思い浮かべるのみでしたから、その対義的存在である「鋭利じゃない刃物」なんてものの存在に思いを馳せてみたことなんてなかったのです。

彼が言うには、そもそも「鋭利な刃物」というのがよく分からないということでした。鋭利な刃物と言われて、ナイフ以外のものは何があるのか。そもそも、刃物の定義は何か。鋭利であるから刃物なのではないか。鋭利でない刃物で人を刺せるのか。刺せないならば、鋭利な刃物なんていう必要はないじゃないか。等々。

その後、僕はニュースで「鋭利な刃物」というフレーズを聴く度、いつもこのことが気になってしまいます。近くに人がいれば、必ず「鋭利じゃない刃物ってあるのかな?」と聞いてしまいます。半ば病気じみてきました。

こんな風に長期間考えているのですが、なかなか納得できる解答に出会っていません。ノコギリは鋭利じゃない刃物になるのではないかということでしたが、ニュースでわざわざ「鋭利な刃物」という意味の説明ができません。ノコギリじゃ刺殺できないでしょう?


僕のこの長年の謎に解答を示してくれる方、いらっしゃいましたら是非よろしくお願いいたします。
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劇団濫觴「きしかん」を観劇してきた@早川倉庫

こんにちは、あとーすです。
今日は、熊本の劇団「濫觴」の『きしかん』を観劇してきました。
「きしかん」とじゃ「既視感」、つまり「デジャビュ」のこと。このデジャビュを軸にした30分程のお芝居でした。

この既視感、僕もどうして起こるのかということをずっと疑問に思っていました。科学的には、まだ明確な答えが出ていないということだった気がします。その疑問に、この舞台はおもしろい解答を出しています。

別の時間軸で経験しているから、一度体験したような気がするのだ。というのがこの舞台における解答なわけです。そして、何度でも僕らは人生をリセットすることができる。その度に記憶が消去されていく。

「ループ」というキーワード。ハルヒのエンドレスエイトにも同じようなものを感じます。あるいは、まどマギの世界も同じ。ある一人の人以外は、記憶をなくしてしまっている。しかし、この舞台ではもっと様々な要素が絡み合っている。台本を書き換えるという行為、音響の出演。そういう要素によって、世界の枠組みを二重にも三重にもしている。

正直、僕の言葉ではあの世界観を表現することができません。それほど複雑であった。しかし、理解はできた。理解はできるけど説明できないもの。これを、演劇で見せるべきなのだなあと、書く側としても思いました。

濫觴の「きしかん」、本当におもしろかったです。この舞台のキャストが雨傘屋「禿の女歌手」にも出演すると聞いて、とっても楽しみです。

体罰を見せる、という暴力ー被害者は誰かー

みなさんこんにちは、あとーすです!
教職科目で体罰の問題を扱っていて、それについて少し興味があったので、少し書いてみようかと思います。

僕は、基本的には体罰に反対する立場をとっています。状況によれば許される、ということもあり得ないと考えています。まあ、どこからが体罰かということも曖昧な問題ではあると思いますが、その辺はまだわかっていないことが多いですね……。

さて、そんな体罰問題なのですが、今日聞いた話では「体罰を見せることも暴力になる」ということでした。最初は意味がわからなかったのですが、自分の経験に当てはめるとなるほどなあと思うところがあります。

僕が小学生の頃、担任がとても恐い先生でした。と言っても、滅多に怒鳴ることはしない先生なんですが、怒るとめちゃくちゃ恐い。

で、僕はどちらかといえば優等生タイプだったので、怒られるということはありませんでした。しかし、クラスの子の中には怒られる人もいるわけでして。そういうとき、その先生は大抵みんなの前で怒るのです。

怒られているのは僕ではないのですが、その先生の怒り方が恐いこともあって、僕はそれを漠然と「いやだなあ」と感じていた覚えがあります。関係のない人に精神的苦痛を与えることも、感が要によっては体罰になるのかなあと思います。

まあ、この行為が体罰に当たるかどうかは疑問ですけどね。どの程度の起こり方か、という問題もありますし、結論づけるのは難しいことです。ただ、少し考えてから行動したいところですね。


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今さらだけど、「ガリガリ君リッチ クレアおばさんのシチュー味」を食べてみた!

みなさんこんにちは、あとーすです!
先日、「ガリガリ君リッチ クレアおばさんのシチュー味(以下、ガリガリ君シチュー)」を食べましたよ!

世間ではナポリタンが賛否両論のようですが、ここであえてシチュー味をレポートします。
ちなみに、ナポリタン味についても以前書いています。
賛否両論の「ガリガリ君ナポリタン味」を食べてみた

ナポリタン味の感想をNAVERでまとめたので、こちらも是非。
ガリガリ君ナポリタン味 感想まとめ!

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先日近所のコンビニ行きましたところ、どういうわけだかガリガリ君シチューが置いてありまして。昨年数量限定で発売されたとのことで、もうどこにも在庫残っていないだろうなあと思っていた矢先に発見したので、ちょっとテンションがあがってしまいました!

実はコンポタとナポリタンは食べたのにシチューだけ食べることができなかったなあと思っていたところだったんですよね。

ただ、コンポタはそこそこイケたのですが、ナポリタンはちょっと僕の口には合わなかった
ので、シチューが地雷なのか否かというところがとても不安でした。

それで、食べてみたところ……。おおう、意外とイケる! まあ、別にとても美味しいというわけではないのですが、コンポタ同様、確かに食えることは食えるなあという感じですかね。中に入っている得体の知れない物体も、なんかおいしいし。

近くのコンビニやスーパーにはもうなくても、Amazonにはまだあるみたい。食べたことがない人は、是非お試しあれ。


「英語」を「漢語」に置き換えるという翻訳に意味があったのか?

みなさんこんにちは、あとーすです!
この記事では、西洋の知識移入の為に盛んに行われた翻訳と、それに伴う新たな訳語誕生について、思うところを書いていこうと思っています。




結論から言うと、僕は明治期の新訳語については、あまり意味がなかったのではないかと思います。「自由」や「経済」など漢語としての訳語が作り出されたわけですが、カタカナ語のままにした方が手間はかからないし意味も正確に伝わっていいんじゃないの? ということです。


明治期の知識人たちは、漢籍の深い教養を持っていた。それは、前近代の知識人としては当たり前のことだった、という認識を僕は持っています。その上で、更に蘭学や英学に優れている人が出てきた。こういう人たちが、翻訳に携わった。

そうして、「Liberty」を「自由」と訳し、「Economy」を「経済」という風に訳したのでしょう。しかし、例えば僕らが「自由」や「経済」という字面だけを見てその意味が判断できるならばいいのですが、別にそんなことはない。とするならば、別にカタカナ語として移入してもよかったのではないでしょうか。

「経済」の語源となった「経世済民」も、もともとはどちらかと言えば「政治」に近い意味を表す言葉だったようですね。そうすると、なおさら使い方がややこしくなってくるような気もします。


しかし、「自由」や「経済」などの訳語に僕はあまり意味を認めることができないのですが、ある面では大きな役割を果たしていると思います。

それは、例えば「酸素」や「窒素」、「炭素」といった類です。これらは確かに、語尾に「素」がつくことによって、見ただけで元素だということがわかる。英語ではこうはいかないので、確かにこれは頭いいなあと思いました。

また、学問分野にしても「化学」とか「生物学」とか、「学」をつけて言い表そうとするところも良いなと思います。ただ、それならば「化学」と「科学」は、紛らわしいので何か別の訳語を当ててほしかったなあと思います。


しかし、これら以外の場面では、やはりあまり意味がなかったと思った方がいいのではないでしょうか? 漱石にしても鴎外にしても、カタカナ語やアルファベットを使っている箇所が散見されます。これは、日本の訳語が不完全であることを認めていたためではないでしょうか? もしかしたら、まだ訳語が発達していなかったためにそういう使い方をしたのかもしれませんが……。


現在の日本人は、カタカナ語を使いすぎだと言われます。なんでもかんでもカタカナのままで使い、日本語にする努力をしないと。しかし、日本語にする努力をすることがそもそも良いことなのかについては、議論になり得ると思います。そして、僕はあまり必要のないことではないかと思います。

新たに漢語を借用して日本語に翻訳するのと、そのままカタカタ語として移入するのとでは、後者の方が手間が少ないですし、意味も変わらずに保てると思うのです。

「草間彌生 永遠の永遠の永遠展」に行ってきた@熊本市現代美術館

みなさんこんにちは、あとーすです!
先日、熊本市現代美術館で開催されている「草間彌生 永遠の永遠の永遠展」に行ってきました! 日本現代美術を代表する彼女の作品が如何なるものだったのか……簡単ではありますが、レポートしていこうと思います。


草間彌生全版画1979‐2013
写真は、彼女の作品集



草間彌生といえば、幼少時代の幻覚体験をきっかけとして、水玉や編み目などをモチーフとして「無限」や「増殖」をテーマとして創作活動を行ってきた人物です。そんな彼女が今回熊本に持ち込んだ作品は2004年から2007年にかかえて制作された連作「愛はとこしえ」。それから、2009年から始まった「わが永遠の魂」シリーズです。

どちらも、「無限」や「増殖」といったこれまでの草間彌生のイメージとは違っているような印象を僕は持ちました。一際目立って描かれていたのが「人の顔」や「眼」、「植物」でした。

僕は彼女のこれら一連の作品に、生と死の匂いを感じました。草間彌生自身が、生と死の狭間で生きてきた、その匂いが染みついているように感じられるのです。この作品を見て、技巧的だとは誰も思わないでしょう。それでも人を惹きつけるということは、何かしらのパワーがあるのでしょう。


さて、今回僕がすごいと思ったのは、「魂の灯」という作品でした。
作品とは言っても、それは一つの空間です。空間が作品として成り立っているのです。全面鏡張りの空間の中に、たくさんの灯が吊してあり、比喩でもなんでもなく、この世のものとは思えないくらいに美しい世界でした。あの世とこの世を行き交う魂が本当にあるならば、もしかしたらあんな光景なのかもしれませんね……。


その他に、部屋全体に彼女のトレードマークである赤い水玉が描かれている部屋もありました。どちらの作品も、順路通りに行ったら出会えるので、お時間がある方は是非いかれみてください。2014年6月15日まで、開催されています。

「オランダ語 大学」でググってみた

皆さんは、オランダという国について、どれ程のことを知っていますか?
風車やチューリップが有名ということは知っているかもしれません。では、オランダ語のことは? オランダ語の単語を一つでも言える人が、一体どのくらいいるのでしょうか。

旅の指さし会話帳 (29)  オランダ  ここ以外のどこかへ!


大学には第二外国語というものがあります。初修外国語、という言い方もしますね。
日本の高校で学んだ多くの人が英語を第一外国語として、大学では更に新たな言語を学ぶことでしょう。
僕が通っている大学では、フランス語、ドイツ語、中国語、韓国語の4つのうちどれかを取らなければ卒業することができません。

また、このように必修の外国語以外にも、希望すればイタリア語やロシア語、スペイン語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語などの外国語を履修することができます。
僕の大学ではこれだけしかありませんが、外国語大にいけば、専門としてもっと多くの言語を学ぶことができるでしょう。


ところで、そういえばオランダ語をやっている大学生って聞かないなあと思い、「オランダ語 大学」でググってみました。
そうして検索した一ページ目に出てきた大学は、長崎大学と東京外大、それから九大の大学院のみ……。このうち、長崎大学多文化社会学科オランダ特別コースのWebサイトには以下のように書かれていました。

「オランダのことを人文社会学の様々な角度から学ぶ日本に唯一のコースで、1年間オランダに留学します。」

オランダに一年間留学するのもすごいなあと思うのですが、もっと重要なのは「日本に唯一のコース」というところ。そう、東京外大が講座が開かれるのみで、九大の方も大学院の案内。大学でオランダ語を学ぼうと思うと、その門戸はほとんど開かれていないのです。

さすがに東京外大にオランダ語専攻が無いわけないんじゃないかと思って検索してみたのですが、やっぱり見つからず……。


しかも、下の方に行って関連キーワードを見てみると、二つ目までは「大阪大学オランダ語」「早稲田大学オランダ語」なのですが、三つ目からは「外国語大学フランス語」「大学 ドイツ語フランス語」「フランス語大学」「専修大学フランス語」と言ったように、「フランス語」を含んだキーワードばかりが出てきます。
「オランダ」と「フランス語」……確かに口に出してみると、似ているような気もします。


日本とつながりのあるオランダ語

日本とオランダの関係は、今さら解説することも無いでしょう。
鎖国政策をとっていた江戸幕府政権下の日本において、日本の知識人たちは西洋の知識をオランダからの情報に頼らざるを得ませんでした。

さらに、鎖国が解かれて以降も、オランダ(というか、オランダ語)との付き合いは重要な意味を持ってきます。明治時代の文明開化のために必要なのは、何をおいても西洋の知識でした。漱石はこれを、「皮相上滑りの開化」とか「外発的開化」とか言うわけですが、鎖国を続けてきた日本にとって、やはり西洋の知識を受容して成長していくことは急務であったわけです。

そこで、洋書を翻訳する必要が出てきました。そのときに生きたのが、オランダ語の知恵なのです。僕は語学にあまり明るくないので分からないのですが、同じ西洋圏の言語だからか、オランダ語習得者にとっては、ゼロから学ぶよりも容易に英語を習得できたというのです。このように、日本の近代の発展に大きな影響を与えているのですが、日本ではあまり教えられることもなく、なんだか申し訳ないなあという気がするのです。

ちなみに、オランダ語の母語話者数は2300万人ほどなのだそう。まあ、日本の人口の5分の1にしか通じないと考えると、確かに実践的ではないのかもしれませんね。

最強生物がかわいいキャラクターに!その名も「クマムシさん」

みなさん、クマムシという生き物を知っていますか?

乾眠時には驚異的な耐久力を見せるということで、「最強生物」などとメディアで紹介されることも多いですね。
放射線、凍結、真空状態など、様々なストレスの中を耐え抜くのだとか……。

微生物の中には同様にストレスに耐えられるものもいますが、クマムシは特によく知られています。

さてさて、今回紹介したいのは「クマムシさん」というキャラクター。

クマムシを研究している生物学者、堀川大輝氏がデザイン・設定を考案しています。

クマムシ博士の「最強生物」学講座: 私が愛した生きものたち

丸いフォルムにつぶらな瞳。
なかなか可愛いキャラクターになっていますね。

現在、ぬいぐるみやストラップなどのグッズが販売されています。
グッズの売り上げを元に、今後もクマムシ研究が進められていくのだとか。

私は近所のゲームセンターでこの「クマムシさん」のストラップを見かけました!
生憎、UFOキャッチャーは得意でないのでチャレンジはしませんでしたが……。

今後どのような形でクマムシさんが広まっていくのか要チェックですね。

ブラックモンブランはいつ全国で販売になるのだろうか

思えば、小学生の頃から竹下製菓のアイスをよく食べていました。

ブラックモンブラン、おごりまっせ、トラキチ君、しっとるケなどなど……。
今でも夏になるとコンビニやスーパーなどに並んでいますよね。

ところで、そのブラックモンブランなどの商品、実は東日本ではほとんど売られていないって知っていましたか?

竹下製菓の本社は佐賀県。
九州でこそ広く販売されていますが、全国区ではないようですね。

元々九州だけで販売されていたブラックモンブランは、2011年に関西地方に進出。
しかし東日本では、生協などの一部店舗のみでしか扱われていないのだとか。

このネタは九州ではわりと有名で、あの「秘密のケンミンSHOW」でも以前取り上げられたことがあります。


余談ですが、先日「しっとるケ」のさっぱり梅味というものを見かけたので購入してみました。



なんとカット青梅入り。
袋を開けたとたん、梅の香りがパッと広がりました。

味の方は、なるほど「さっぱり」と言うだけあってほんのり梅の味がしました。
いつものヨーブルト味とは全く違う!
後味もすっきりしています。

九州にお住まいの方は、お買い物のついでに探してみては。


小城万彩オリジナルセレクト ブラックモンブランの竹下製菓 アイスバラエティ10本セット

坂口安吾『桜の森の満開の下』を読んだ。退屈の意味とは?

こんにちは、あとーすです。

今回は、とても不思議な小説『桜の森の満開の下』を読みました。
安吾は天才と言うよりも、「鬼才」と言った方がぴたりと来る作家だなあという感を強め、また違う作品を読むのが楽しみです。

桜の森の満開の下 (講談社文芸文庫)



これまで読んできた安吾の小説はと言えば、『青鬼の褌を洗う女』、『風博士』、『白痴』などです。これらの三作品はそれぞれに全く違っているし、『桜の森の満開の下』も全く違った作品となっている。これって、当たり前のことのようで難しと思うんです。

例えば、太宰の作品ってある程度分類することができると思っていて、『人間失格』と『桜桃』は同じライン上にあると思うんです。『ヴィヨンの妻』なんかも、主人公は女であるのですが、同じ匂いを感じることができる。

しかし、少なくとも僕の乏しい読書経験の上では、安吾の小説はそれぞれが違う匂いを放っている。『桜の森の満開の下』は非常に説話的な下がりとなっている。先日読んだ、ハーンの短編集『階段』を思い出しました。しかし、芥川の説話的物語とも違っているし、太宰の作品とも違う。どこか、艷やかさを持っているのが安吾のこの作品の特徴だと言えるのではないでしょうか?

残酷であるのに、幻想的。このような小説は、今までに読んだことがありません。しかし、この作品に果たしてどういう意味づけをするのかと問われると、私はほとんど何も言うことはできません。「実在」ということがテーマになっているという話をチラリと聞きましたが、いまいちピンと来ません。

確かに、女が桜の花びらになって消滅してしまうことには「実在」というテーマが絡んでくるのでしょうが、他のところにどのような意味があるのかと問われると、少し困ってしまう。「無限」に対する懐疑も、「実在」と関わってくるのでしょうか?

この辺の難しいことを考えるのは、またの機会に譲ることにしたいと思います。他の安吾作品も読んでからに。

ところで、今回僕が気になったのは、この作品の中で男が言う「退屈」という単語について。男は、人と喋っていると「退屈」であると言います。この「退屈」という言葉にどういう意味がこめられているのか。もちろん、普通の意味での「退屈」でないことは明らかです。

ここにも、「無限」が関わってくるように思います。彼は繰り返す殺生に飽きていて、都にもあきている。都は賑やかゆえに飽きている、というのはなんだか文学的でよくわかりませんが、少なくとも「無限」との関わりはありそうですね。


というのが、初めて読んでみて思ったことでした。
再読してみて、また違った角度から味わってみたい作品ですね。

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「いただきます」の感謝の対象は何か

こんにちは、あとーすです。
先日、授業で「いただきます」という言葉について考える機会がありました。
僕たちは、一体どうしてご飯を食べる前に「いただきます」と言うのでしょうか?

親から教えられて、習慣になっているから。そう言えばそうなのですが、まあ、もっともらしい答えを探して、少し考えてみることにしましょう。

日本人はいつから「いただきます」するようになったのか
画像はイメージです。


ちなみに、その授業中に出た答えらしきもののいくつかは、以下の通り
・食材への感謝
・食べることができることへの感謝
・作ってくれた人への感謝
・もてなしてくれた人への感謝
・おごってくれた人への感謝

共通する感情は、「感謝」なのかなあということが見えてきました。確かに、食材にありつけた「喜び」を表すために言うのでもなければ、生命を殺してしまったという「悲しみ」から言うわけでもありませんよね。

とりあえず、この記事では「感謝」の気持ちがあるということを前提にして、話を進めていこうと思います。

「食材への感謝」という説明は、僕は説得力があるなあと感じています。
他の選択肢だと、「自分で料理を作った場合」に感謝の対象が消えてしまうからです。一人で食べるときはいただきますと言わないという人もいるかもしれませんが、僕は一人でもいただきますって言っちゃう派なんで……。

アメリカの映画なんかで、クリスチャンが食事をする前に神に祈りを捧げるシーンをよく目にします。あれは、神と命に感謝しているという解釈でいいのでしょうか? そうだとするならば、「いただきます」にあたる言葉がないとしても、共通する習慣を持っているということになる。

しかし、「いただきます」が「食材への感謝」だとするならば、おかしなことが起きてしまうのです。それは、「いただきます」とセットで使われる言葉です……。そう、「ごちそうま」

「ごちそうさま」は、漢字で書くと「ご馳走様」になります。「馳走」というのは、字面からもわかるように「走り回ること」を意味する言葉です。つまり、これは明らかに「作ってくれた人」あるいは「もてなしてくれた人」に感謝する言葉なんですよね。

「いただきます」と「ご馳走様」をセットにして考えるならば、対象はこの2つに限られてくる、ということにならないでしょうか?


奢ってくれた人に「いただきます」って言うのは、最近の風潮ではないかと考えています。多く見積もっても、100年以上歴史のある使い方ではないと思います(調べてみたいですね)。
どちらかと言えば「ごちそうさまです」と食べ始める前からお礼として述べる使い方もあるように思うのですが、いかがでしょうか。

何も考えないで、儀礼的に「いただきます」と言って食事を始め、「ごちそうさま」で終えますが、少し考えてみると面白い言葉ですね。

「コンドーム擬人化募集。イケメンに限る。」賞金10万円ですってよ!

2014年4月10日、「大阪もえしょく(R)プロジェクト」で、コンドームの擬人化イラストを募集することが発表された。同サイトは、作家(職人)と企業の架け橋となることを目的としてたサイトである。期限は2014年5月18日まで。

イケメン二人組が条件

キャラクターのコンセプトは「イケメン男性キャラ 2人」となっている。イケメンはわかるとして、どうして2人なのかということについては、様々な憶測がネット上で飛び交っている。2人の設定も、応募する絵師さんに任せられている。ということは、二人の関係も絵師さんが考えることができる……?!

採用されると、懸賞金として七万円、さらに、追加カット制作料として三万円。合計十万円が支払われる。

他にも擬人絵を募集

この「大阪もえしょく(R)プロジェクト」は他にも様々な擬人化絵を募集しており、最近では「能勢の人形浄瑠璃」や「冬物肌着」の擬人化なども募集している。これらの擬人化絵も、採用されれば総額十万円を獲得することができる。

不二ラテックスのイメージキャラクターになる

ちなみに、このコンドーム擬人化絵を募集している会社は「不二ラテックス」。避妊具以外にも、食品用ゴム容器やメディカル用品など、種々多用なものを製造・販売している。


日ハムが婚活企画とコラボ! 野球観戦しながら将来のパートナーを見つける企画

2014年4月7日、株式会社マリッジイノベーションの婚活企画『スタジアム婚活』が5月18日に開催されることが発表されました。同企画は北海道日本ハムファイターズとのコラボ企画となっています。

3カ月で結婚できる おとこの婚活本。
写真はイメージです。

野球観戦をしながら婚活!

この婚活企画では、北海道日本ハムファイターズ×埼玉西武ライオンズ戦を観戦したり、バーベキューをしながらカップルを成立させようという企画。有料のオプションになりますが、カップルが成立すると後日に個別でお見合いもセッティングしてくれるとのこと。

さらに、当日ファイターズが勝てばさらなるサプライズがあるとのことです。日ハム好きの方は、一緒に応援をしながら将来のパートナーを見つけてみてもいいかもしれませんね!

参加費は、男性が7000円で女性が3500円。場所は日ハムの二軍球場である千葉県鎌ケ谷球場。なお、雨天時で試合が中止になった場合でも、別の場所で婚活イベント自体は開催されるということです。


詳しくは、プレスリリースをご覧下さい。
プレスリリース

東京外大、寄付金クラウドで10億円集めることを目標とする

2014年4月10日、国立大学法人東京外国語大学(東京外大)は、さくら情報システムの「寄付金クラウド」を利用して、寄付金を募ることを発表した。これは、2023年に同大学が建学150周年を迎えるため、今年1月に開始された「建学150周年記念基金」という事業の一環として行われる。なお、10年間で10億円を目標にしているそうだ。

先日、東京都知事選に出馬した家入一真氏がクラウドファウンディングで選挙資金を集めたことは記憶に新しい。今や、営利活動以外のところでも、このようなクラウドサービスでお金を集めるという行為が行われている。

先進的な行いはまず批判にさらされるのが常であるが、こういった非営利団体にこそこのような活動が必要なのであろう。寄付金を集めるという事業自体にもお金がかかる部分があるし、作業が必要な部分だってある。

そういうものをクラウドサービスに任せてしまえば、幾分か作業を減らすことができるだろう。そうすれば、多くの人員やお金を大学本来の研究活動や教育活動に回すことができる。

また、Web上で寄付ができるということで、人々が寄付をするハードルも低くなることが期待できる。どのような反応があるのか、本当に寄付は集まるのか、続報を待ちたいところだ。
東京外国語大学 (2014年版 大学入試シリーズ)

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「あの人物」から逃げ切ると、トヨタのヴィッツが貰える ニューバランスの鬼ごっこ企画

スポーツシューズメーカーのニューバランス(NB)が、2014年5月18日に西武ドームで「メガ鬼ごっこ」を開催します。優勝賞品はトヨタのヴィッツ。同キャンペーンは一旦募集を締め切りましたが、4月10日より最終募集を開始したということです。




この企画は、西武ドームをある人物率いる<ニューバランス鬼>から逃げるという単純明快なもの。そのある人物とは、オールスター感謝祭でお馴染みのシドニーオリンピック銀メダリストエリック・ワイナイナ。

逃走者は、なんと2000人以上になる模様。果たして、この中で誰が最後まで逃げ切ることに成功し、トヨタのヴィッツを手にすることができるのか?!

料金は、スポーツ保険代として500円。中学生以上なら誰でも参加することが可能です。お父さんは、家族と一緒に参加して子どもや奥さんにいいところを見せるチャンスかもしれませんね。

思わずホロリと来てしまう、日産のサプライズCM

みなさんこんにちは、あとーすです!

先日、日産が素敵なCMをYouTubeにアップしていました。
まずは、その動画をご覧ください。




「MOMをWOWに!にする軽」でお馴染み、NISSANデイズのCM。特にお子さんがいる方にとっては、このCMを涙なしで見ることはできないのではないでしょうか? ああ、僕もこんなサプライズされてみたい!

ちなみに、このCMは森三中の大島美幸さんの夫で放送作家の鈴木おさむさんが企画担当をしているということです。

感動したという方は、この動画を是非シェアしてください!

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機内でスマホが常時使えるようになったけど、詳細を追うと便利になったかは微妙…。

機内でスマホなどの電子機器が常時使えるようになったらしいですよ。
ソースはこちら。
 →朝日新聞 機内でスマホ、常時OKに 今夏解禁、通話禁止は継続

スマホなどから出る電波が計器類に影響を与える可能性があるということで、機内での電子機器使用は制限されています。
それが緩和されるということで「すげえ!」と思ったのですが、詳細を追っていくと、なんだかあまり変更がなさそう。

これまでも、機内モードにするなど強い電波を発しない状態にしていれば機内でもスマホやタブレット端末、パソコンなどを使うことができました。しかし、離着陸時には危険な可能性があるということで、その場合だけ電子機器の電源を切ることになっていました。

今回の規制緩和では、離着陸時にもこれら電子機器類の電源を切る必要がなくなりましたよ、というだけのことです。データ通信をすることができないのでは、あまり意味がないような…。まあ、電源を切る手間が省けるところは嬉しいんですけどね。

機内LANなどが充実してくれば、この辺りも完全にクリアできそうですね。続報に期待したいですね。

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文学にできることは、とりあえず諦めないこと?

文学にできることは何だろうか。文学を学ぶものにとって、いつでもモヤモヤとしていて答えの出ない議論だと思います。僕も、いつもこのことについて考えています。
というわけで、この記事では大雑把に「文学」について考えることを通して、できれば文学の役割を発見できればいいなあと思っています。

 その前に、ちょっと理系方面の話を。
 近年、生物学の領域が注目を浴びていますね。ヒトゲノムの解読に成功し、iPS細胞、STAP細胞など、新聞紙面を賑わす日も少なくありません。
 でも、そもそも生物学の領域ってもともとはそんなに目立つ分野ではなかったんですよね。他の理系分野は、ロボットをつくったり、病気の治療に役立ったり、実学の側面が強かった。でも、生物学の領域は特に人類の生活に寄与するような研究を残せなかった(少なくとも、世間では役に立っているという印象を与えなかった)。

 何が言いたいのかというと、文学も諦めなければ、いつの日か生物学のように陽の目を見る日が来るかもしれないということです。ある側面が注目されるということがなくも無い。文学が好きな僕としては、その側面を少しでも探ることによって、世間に文学が注目されるようなきっかけを作りたいと思うのです。


 文学の役割としてよく言われるのは、「人々を善くする」ということではないでしょうか。中国の有名な作家魯迅は、医者を志して日本へ来たと言います。ある日、中国の処刑場で同志が処刑されるのをただ見ているだけの中国人を見て、作家になることを決めたそうです。「医者は一人ずつしか救うことができないけれど、文学ならば、多くの人を一度に救うことができる」これが魯迅の思想でした。

 現代は、他のメディアが発展してしまったために活字を読む人が少なくなってしまった。文学の価値は下がったというより、「希釈されてしまった」という言い方が正しいかもしれません。時代が違えば文学によって救われていた人たちが、他のメディアに張り付いてしまっている。時代が違えば、魯迅は漫画家を志望していたかもしれません。

 もちろん、これは別に不幸なことでは無いと思います。というか、僕らはそういうものを文学の領域に取り込まなければならないと思うんですよね。ラノベだったり、漫画だったり、ネットに溢れている情報だったり。人間を感化する「言葉」あるいは「物語」これを全て包括して論じる必要があると思います。

 もちろん、これまでのように近代文学や古典文学について論じることは必要です。しかし、そこから離れた研究も必要であるでしょう。カジュアルな研究をすると周りから批判がある場合も多いですが、それを恐れてはいけない。現代に寄与するために、現代を研究しなくてどうなるのか(もちろん、「温故知新」も大切ですが)。

 どういう方法を使ってもいいのですが、問題は、「いかにして人間を救えるのか」ということ。文学作品や漫画に出逢って、救われた人の話って巷に溢れています。変な話、いかにして人を救うかの方法を考えるのが、研究としての文学かなあと思います。例えば、僕は太宰の研究をしたとします。太宰の思想に救われたことのある人はたくさんいる。しかし、反対に太宰の思想に害された人もいるかもしれない。そういう人を救うためには、太宰の思想を解釈しなおさなければならない。一方で、それまでの思想に救われていた人のために、他の解釈も残さなければならない。そうやって、解釈を積み上げていくことが文学研究ではないでしょうか。

 もちろん、自分の研究が必ずしも誰かのためになるとは限りません。これは数学に似ている。数学は、ある公式を作ったり、難問を解いたりしても、現代の技術に応用できることは少ない。実際に使われるようになるには、100年を要するものもあると聞きます。中には、全く役にたたないものもあるのではないでしょうか。

 学問研究って、そういうものだと思うんです。あるいは、「文化」がそうだと言っても良い。共産主義の研究やその実行としての運動が現代社会のどこに役立っているかって、役立っているようには見えない。しかし、人々の心に「共産主義」という選択肢が一応あることによって、少なくとも日本では「民主主義」という選択肢を採っている。つまり、無駄の積み重ねも全く無駄ということは有り得ないのです。

 ただ、こういうすぐに役に立つことのないものって研究する当人がそれを好きじゃないとできないし、市場経済にさらしてしまえば一発で淘汰されてしまうでしょう。まだ見ぬ未来のために、学問研究は守られなければならない。これは、文学だって例外ではありません。

 つまり何が言いたいかって、「文学」もある選択肢だと思うんです。文学部に来ても
就職にはきっと不利でしょうけど、もしかしたら文学が必要とされる社会が来るかもしれない。どういう社会って、僕には予想ができませんが……。でも、考えてみてください。100年前の人が、スマートフォンやパソコン、薄型テレビ、その他諸々のものがある社会を想像することができたでしょうか? 今後100年単位で、そういう変化が起こるかもしれない。文学が最重要課題になるかもしれない。

まあ、個人的にはとりあえず文学研究が何か仕事に役立てばいいなあと思うわけです。アカデミックな方面に進む人はほんのひと握りなわけで、大学の「就職予備校」的側面を否定することは最早できない。文学が生き残っていくためには、まず、その辺りをどうにかしなければならないのではないでしょうか?


長くなりましたが、これで終わりにしたいと思います。
あなたの考える「文学」の役割、あるいは意義とは何ですか? 是非お考えをお聞かせください。

読売新聞「小保方氏以外の博士論文280本も調査へ…早大」を読んで。

STAP細胞や論文捏造問題で渦中の人となった小保方さん。彼女が博士号を取得した早稲田大学先進理工学研究所が、すべての博士論文を再調査することを決定しました。
ソースはこちら。
 →読売新聞「小保方氏以外の博士論文280本も調査へ…早大」


同研究所は、不正が発覚した場合には博士号の取り消しも検討するとのこと。学位を授与した博士論文は280本もあるというのですから、大変な作業になりそうです。


先進理工学研究所のこの判断は、英断と言えます。問題が発覚した機関として当然の対応でしょう。しかし、これだけでは対応が不十分だと思われます。

学位といっても、「博士」だけがその対象ではない。「修士」だって、「学士」だって立派な学位であるはずです。その辺まで遡らなくて大丈夫なの? というような気がしなくもないのです。学士や修士という土台の上に、博士があるのですから。

まあ、紆余曲折あっても「博士」さえしっかりとっていれば良いという考え方もできそうですが、それでは、博士論文に不正があっても結果さえ残せば良いというような論理に陥りかねません。それは、どう考えてもおかしいですよね?

ひとまず、この不正調査は「スタート地点」として受け止めなければなりません。アカデミックな世界のチェック体制をさらに厳しくしていく必要があるでしょう。

「見下すこと」は「逃げること」である。

みなさんこんにちは、あとーすです!

「見下すこと」は「逃げること」である。最近、僕はこんな風に思っています。思春期、僕は劣等感を人一倍持ちやすかったように思います。その過程で僕は「見下すこと」を覚えてしまったのですが、本当にそれで良いの? と疑問に思います。

あなたは、どのような人を見下しますか? もちろん、自分よりもある能力が低い人を見下すでしょう。でも、本当にそうでしょうか? 「能力が低い」という判断を下すための基準は、とても恣意的なものではないでしょうか。

例えば、ある政党を支持している人がいるとします。その人は、自分と支持している政党が違う。そういうことだけで、「見下す」基準になり得るのではないでしょうか? 「ああ、こいつはわかってねえなあ」みたいな。その人と話してみて、相手の方が政治の知識があると知っても「いや、こいつは真理に気づいていない」という風に、見下すことで逃げてしまうことがないでしょうか?

別に、政治の話に限らなくても良いです。自分がMacを使っていて、Windowsユーザーを馬鹿にするとか。Chromeを使っていて、IE使用者を馬鹿にするとか。もしかしたら、WindowsやIEを使っている尤もな理由があるのかもしれない。ただ、それを知ってしまうと、自分の優位性が崩れてしまう。だから、そこから逃げているのではないでしょうか?

この見下して逃げるという行為は、劣等感とうまくつき合っていく上では重要なことだと思います。自分の気に入らないことに一々構ってもいられませんからね。ただ、重要な局面では、やはり逃げてはいけないと思います。そこで逃げてしまっては、何も学ぶところがない。学びたいと思ったときには、自分が見下しそうになる相手でも、学び取るところがないかと探さなければならない。


……なんてことを思うのですが、僕が実現できているかと訊かれると胸の痛い話ですね。


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j-cast【「Wi-Fi繋げばエロサイトみれるやん」 中高生はフィルタリング潜り抜けてアクセス】を読んで

ソースはこちら。
 →j-cast「Wi-Fi繋げばエロサイトみれるやん」 中高生はフィルタリング潜り抜けてアクセス


フィルタリング……成人して、そんな言葉とも縁遠い生活を送っていました。
僕は高校生のときに初めて携帯電話を買ってもらい、始めからフィルタリングはかかっていませんでした。フィルタリングをしてしまうと、当時流行っていたSNSが使えなかったから、両親に頼んでそうしてもらいました。

おかげで、随分と色々なサイトを僕は徘徊しました。なんか危なそうなサイトもいくつか見ました。あの頃って、色々な方向に対してエネルギーが有り余っているんですよね。それが思春期というものかなあとか思っています。

フィルタリングって、僕はてっきり端末の方で何かを設定するものだとばかり思っていたので、このような抜け道があるとは知りませんでした。
他にも対策方法はあるのかもしれませんが、確かに、今の時代は親世代よりも子世代の方が圧倒的にメディアに対して知識を持っている。「デジタル・ネイティブ」なんて言葉を目にするようになってからしばらく経ちますが、まさに彼らは情報端末の扱いに関しては、小さな頃から習得してきている「ネイティブ」なわけです。

ネイティブであるから、ある程度怪しいところとそうでないところの区別くらいつくんじゃないかなあとも思うんですけどね。というか、実地をしないと何が怪しいのかもわからないと思うんですよねえ。

ネット教育も、日本って全く充実していないと思うんですよね。と言っても、僕が中学とか高校で情報教育を受けたのは数年前のことになるわけですが、そこでメディアリテラシーについてなんてほとんど教えられなかった。

保健の授業で教えられる性教育って、実際の性となんか離れている感じがすると僕は思っています。それと同じ感じで、教育現場で教えられている情報の授業は、実際からとても離れているように思うんですよね。

これは、僕が大学で情報の教育を受けていても思うことで、もう少し積極的に突っ込んで授業していかないの? と疑問に思う部分が多々あります。

性教育についても、情報機器についても、多少の危険は伴っても実地が必要だと思います(もちろん、最大限失敗をしないようにフォローをするべきですが、実地の場を奪ってはいけない)。
最近は、危ないからと言って子どもを外で遊ばせない大人も多い。これも似たような問題であるように思います。多少怪我をしようとも、外で遊んで得られることは多いと思うんですけどね……。

鳥取県に「すなば珈琲」! スタバ上陸はいつになるのか……

こんにちは、あとーすです!

鳥取県に「スタバ珈琲」ならぬ「すなば珈琲」ができたそうですよ。
ソースはこちら。
 →ねとらぼ スタバが無い鳥取県に「すなば珈琲」がオープン 知事も来店して一言「すなバーッと香りが広がります」


さて、実はお隣の島根県にも最近までスタバがなかったのですが、島根が46番目のスタバ上陸県になって以降、両県は更に軋轢を深めた模様(?)なので、もう鳥取はふっきれてしまったのかもしれませんね。

「砂丘」を「すなば」としてしまう辺りにも自虐の精神が見て取れるわけですが、うう、なんだか気の毒になってきた…。といって、僕は全くスタバに行かない人間なので、スタバが無いからどうなるのか疑問なところもあるんですけどね。

ところで、島根県には平成の遷宮効果で、もうすぐ出雲大社近くにもスタバができるそうですよ!

スタバとMac所有率の相関関係について僕は調べたいと思っているのですが、はてさてどうやって調べたらいいのか……。もし調査結果が既にあるということでしたら、あとーすまでご連絡ください。

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