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LITECO掲載「病と闘う小説はいかが」について

先日、LITECOというサイトを立ち上げた。
初日からUUが90人を達成するなど、スタートとしては上出来ではないだろうか自分で思っている。ちなみに、Twitterアカウントのフォロワー数が100人を超えたらツイキャスで「LITECO配信」と銘打って、掲載記事に対する批評なんかをやってみたいと考えている。


さて、本題に入っていく。今回はそのLITECO掲載記事第一号となった、かしのしゅうかさんの「病と戦う小説はいかが」を読んで思ったことを、つらつらと書いていこうと思う。


かしのさんは言う。「わたしにとって闘病小説ほど明るい文学は、純文学においては非常に珍しいとさえ感じているのだから。」
僕はこの言葉に衝撃を受けた。そして、読みすすめていけばこの言葉が別に奇をてらって言っているわけではないということがわかり、更に驚いた。僕自身、何であんなに読んでいて辛くなるような話を読むんだと感じていたのだが、この論考を読むと、見方が変わってきそうだ。

闘病小説とは、見えない敵との闘いの記録であると言えるかもしれない。病気というのは、正体がつかみにくいものだ。正体が完全に分かっているならば、それを治療(克服)することが可能であろう。これは、人生に似ているところがある。人生も正体というか正解が掴みづらいものである。正体など無いと断言しても良い。

また、かしのさんが使う「生への執着」というものも興味深い。僕は、人間の最大の関心事は「死」と「性」の二つにあると考えている。どのような小説も、基本的にはこの二つのものを取り扱わずにはいられない。人間は必ず死ぬし、必ず性に関して興味があるのだ(付け加えるならば、性に無関心である人でも、世の中の大勢の人が性に関して興味があるため、無関心を表明するために関心せざるを得ない)。

ありがたみが分かる、という言葉を使うと少し陳腐になってしまうだろうか。闘病生活をしている人はこんなに生に執着していても、生きることができない。だから、僕たちは生きなければならない。そんな教訓を読み取るのであろうか。何か違うような気がするが、近からず遠からずであろうと勝手に思っている。

僕は『一リットルの涙』なんかが辛くなって途中で見れなくなる性質なので、最後まで通して読むことは難しいかもしれない。しかし、読むのが辛くなるということを感じることも、また「生」に対して考えることになるのだろう。


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