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「小説投稿サイトに関するアンケート」を取ってみた

こんにちは、あとーすです!

先日、「小説投稿サイトに関するアンケート」を取らせていただきました。
主にTwitterでの呼びかけだったのですが、お蔭さまで114件の解答をいただきました。
ご回答くださった皆様、本当にありがとうございます!

さて、この記事ではそんなアンケート結果を一緒に眺めて行こうと思います。
今回は自由記述欄が多かったので、そこのコメントもいくつかピックアップし、僕もコメントを返していきます!

問1.あなたの性別は?

この辺りは属性に関する質問なので特に言うことはないのですが、まあ参考までに…。

ちなみに、アンケートを取ると毎回女性が多いです。協力的な人が多いのかな?

・女性→84票(73.0%)

・男性→28票(24.3%)

・それ以外→3票(2.6%)


という結果になりました。

問2.あなたの年齢は?

・10~14歳→1票(0.9%)

・15~19歳→41票(35.7%)

・20~24歳→41票(35.7%)

・25~29歳→14票(12.2%)

・30~34歳→7票(6.1%)

・35~39歳→5票( 4.3%)

・40~44歳→2票(1.7%)

・45~49歳→2票(1.7%)

・50~54歳→1票( 0.9%)

・70歳以上→1票(0.9%)


このアンケートを見る限りでは15~19、20~24が多いのですが、Twitterのユーザーも恐らくこの辺りが多いでしょうし、僕のフォロワーもこの辺の年齢の方が多いような気がします。


しかし、小説投稿サイトを使うのは若年層が多い、ということはよく耳にします。


意外と25歳以上の方が多かったので少しびっくりしました。

問3.あなたの職業は?

・学生・生徒→68票(59.1%)

・会社員→15票(13.0%)

・パート・アルバイト→7票( 6.1%)

・主婦→5票(4.3%)

・派遣社員→4票(3.5%)

・無職→3票( 2.6%)

・自営業→2票(1.7%)

・自由業→2票 (1.7%)

・公務員→1票 (0.9%)

・その他→8票 (7.0%)


回答者の70%以上が25歳以下なので、そりゃあ学生・生徒が多くなりますよね…。


主婦の方が5人もいるんですね。自由業の方は、フリーライターとかしてるのかなあ、と想像してます。

問4.あなたは小説投稿サイトを利用(書くor読む)しますか?

・はい→103票 (89.6%)

・いいえ→12票(10.4%)


ご回答いただいた方々のうち、約9割が小説投稿サイトを利用している方でした。


僕としては利用していない方々の意見も気になるところなので、この後、利用していない方のコメントもピックアップしていきたいと思います!

問5.お使いの小説投稿サイトを教えてください。(利用していない方は、「なし」とご回答ください。)

この質問は、複数利用している方のことを考え、自由記述欄としていました。


票の多寡にばらつきはあるものの、合計で36種類の小説投稿サイト(ブログサービスなども含め)が出てきました。


トップ3を発表すると、


・小説家になろう→53票


・Pixiv→42票


・Eエブリスタ→7票


ということになりました。


1位と2位も10票以上の差がありますが、2位と3位の差は歴然。


実は僕、小説家になろうとエブリスタは使ったことがあります。エブリスタは、モバゲーをやっていた頃に使っていましたね……懐かしい。


ちなみに、Pixivは僕の所属する文芸サークルセピアが過去の作品を載せていて、僕の作品も一つだけ載っています。


ちなみに。小説家になろうが多いのは、僕のフォロワーになろう作家の方が多いからかもしれません。というか、個人のアンケートなので、数字はあまりあてにしないでください……。

問6.小説投稿サイトをどのように利用していますか?

・書くだけで、全く読まない→2票(1.7%)

・書くこと中心で、たまに読む→37票(32.2%)

・書くことと読むこと、半分ずつくらい→27票(23.5%)

・読むこと中心で、たまに書く→32票(27.8%)

・読むだけで、全く書かない→10票(8.7%)

・利用していない→7票(6.1%)


大体予想していた通りの結果になりました。


読むこと中心の人よりも、書くこと中心の人が若干多いのは面白いかなと思いました。


一方で、書くだけという人は読むだけという人よりも少ない。

問7.小説のジャンルをライトノベル、エンタメ小説、純文学に大別したとき、小説投稿サイトで4みたい(あるいは書きたい)ジャンルはどれですか?(複数回答可)

・ライトノベル→79票(68.7%)

・エンタメ小説→71票(61.7%)

・純文学→44票(38.3%)

・無回答→3票(2.6%)


小説のジャンルについては定義問題がとても難しいのですが、とりあえずこの3つにしてみました。絶対にこの枠では捉えきれないことがあるだろうと思い、問8を設定しております。


例えば小説家になろうはいわゆる「異世界転生モノ」が多いという評価をネットで見て、ラノベ寄りのが多いのかなあという印象でした。結果を見てみても、ライトノベルを求める人が多いようですね。


この3つ、本当にざっくり言うと、重厚さが増していく(と思われる)順番で並べています。だから、小説投稿サイトで求められているのは軽さなのかもしれません。


けれど、「純文学」と回答している方も結構いて、馬鹿に出来ない数だなあと思います。

問8.小説のジャンルについて、他に何かありましたら自由にお書きください(特に、上のジャンル区分を超えたご意見をお待ちしております)。

これは、気になったものをピックアップし、それに僕がコメントをする形で紹介していきたいと思います!




・二次創作物

→漫画もそうですが、アマチュア・同人は二次創作が好きな方って結構多いですよね。著作権の問題などもありますが、最近では公式がOKを出しているものもあるとか。




・キャラモノ、ストーリーモノ、その他
 ネット小説に限っていうと、SS、短編小説、連載小説、脚本、ポエム、設定集

→キャラモノとストーリーモノという区別を僕は初めて聞いたのですが、一体どういう区分なのでしょうか? キャラが主体のものとストーリーが主体のもの、という理解で良いのでしょうか。SS(ショートストーリー)という形式は、ネット独特な気がします。




・多数決で良いものを決めるのは結構だが、
 今の二つのサイトはポピュリズムに堕し、
 内容の変わらぬアニメ脚本が歓待される。
 内輪話に終始しているように見えるのは、
 その所為だと思う。

→多数決で良いものを決めるつもりはないのですが、ポピュリズムに堕していない純文学もなかなか頑張っているようです。ラノベは、やはりアニメの影響を強く受けているような気はしますね。それと「内容が変わらない」ことに因果関係があるかどうかは置いといて。内輪話は、やはり読み手からするとつらいものがありますかねー。




・ライトノベルをライトノベルと一括りにするのはよくないと思う

→僕もよくないと思っているので、ここにそのアツい思いを書いていただきたかったです。エンタメ小説も純文学も、一括りはよくないですね。



・ネット小説は恋愛や二次創作が多いがホラーやグロテスクな作品は少ない

→どちらかといえば年齢が低い人達の方が多いからかも知れないが私はそういう描写のある作品が読むのも書くのも好きだが少ないせいで「ネット小説ではホラーやグロテスクな作品はウケない」と思ってしまい書いているが投稿できないでいる


・現代社会を中傷した作品なども好きなのに見たらよく荒らしや中傷を受けている
そういう作品は荒らしが増えるというものをなくして欲しい

→ホラー・グロテスク、少ないんですね。確かに、少し年齢を重ねないと理解できない世界なのかもしれません。ネットでそういうものを読みたいと思っている人がどれくらいいるのか、今後もし調査することがあれば、訊いてみたいと思います。中傷の仕方にもよるのかもしれませんね。中傷したのに中傷されたと傷つくのも変な話ですが。程々にすると良いのかもしれません。



・最近商業で出てきていますが、エンタメ(一般文芸)とライトノベルの中間くらいのライト文芸(=キャラクター小説寄りの一般文芸・ライトノベルではないがライトノベル寄りのエンタメ)というジャンルがあればいいのになと思います。先に挙げた小説家になろうなどのSNSだと、文芸と呼ぶにはキャラクター寄り過ぎ、かといってライトノベルに分類するのも違うといった感じで、登録に困ることが多いようなので。

→ライト文芸、初耳でした。エンタメの別名って一般文芸になるんですかね。この書き方だと、ラノベはどちらかといえばキャラ寄りということでしょうかね。



・「純文学」「エンタメ小説」もそうだが、「ライトノベル」もまた区分がひどく曖昧な単語で、未定義きわまりないので個人的にはあまり信用していない。
内容の分類と形態の分類をせめて分けて考えなければならないと思う。

→境界線は曖昧なところがありますが、「ザ・純文学」「ザ・ライトノベル」みたいな作品はあるのかなあと思っています。イメージの話になってしまいますが。内容と分類と形態の分類というのがよく分からなかったので、詳しく書いていただけていると嬉しかったです…。


・主人公を「記号」として扱うジャンル。主人公を群像劇を眺める窓のような立ち位置に置き、限りなく無個性で作中の人物とあまり(ほとんど)関わらず、俯瞰から覗くような存在として書いているもの。

→な、なんか僕がTwitterで書いたのと同じようなことが書いてある……分身なのか。と思ったら、「主人公が」記号なのですね。これってジャンルなのかなあ。



・同性愛小説。
 特にGLは区分分けされていないことがあるので困っています。

→BLだけ区別されているとかあるんですかね。苦手な人は、苦手なんですかねえ。




・教科書に載っているような、かたい文章のお話が読みたい。

→「小説投稿サイトでずっと書いてました!」みたいな人が商業誌デビューした挙句に教科書に載るような時代が来ないですかねえ。そのうちハルヒとか教科書に載りそうな気もしてるんですけどね。



・異世界ラノベじゃないものを読みたい

→(某サイトのことだ……さっきも書いたけど)


問9.「ネット小説」というとどのようなイメージがありますか?

この質問、僕は「なんとなく悪いイメージがあるんじゃないかなあ」と思って作りました。ネットに上がっている小説全てがというわけじゃなくて、「ネット小説」という言葉がね。



・気楽に読める半分、面白い作品は少ない。好き嫌いが分かれる。生物を扱った物や二次創作、三次創作などグレーゾーンの作品も多く著作権を意識している人が少ない?

→まあ、誰でも書けるので全てに高いクオリティを求めるのは酷な話でしょうね。ところで、生物は「なまもの」と読むべきなのでしょうか……無知ですみません。


・ケータイ小説のような薄っぺらさを感じる

→ケータイ小説とネット小説の区別も難しい気がしますね。ケータイ小説って散々たたかれてたイメージが僕にはあるんですが、そんな感じで捉えられているのでしょうか。



・似たり寄ったりのライトノベルやハーレクインもどきが多数を占めている。

→もどきって言われちゃってる……。


・上手い下手関係なく、誰でも創作できる、いわば「入り口」見たいなイメージを持っています。

→小説を書くハードルが低くなったということは良いことですよね!


・文章作法を知らずに書いている人が多い。

→これに憤っている人をよくTwitterで見ます。(僕も同じようなこと言ってたんですけどね)


・横書きで改行が多め。
・従来のしきたりにとらわれない(段落の付け方や句読点の付け方といった文章のルールなども含めて)

→ネット小説独自の進化を遂げているような気がしますね。これが良いことなのか、悪いことなのか。


・基本的には金銭の絡まない個人が自主的に行っているものなので、出来の高低が激しい。また定期的な連載を望みにくい。というか、「連載」文化はあると思う。ところでこのアンケート、「ネット小説」サイトに関するアンケートだと思うんですが、実情や実感ではなくイメージを問う意義が見えない。
「ネット小説」というのもあんまりな大分類で、だいたい大きな(そして主観まみれの)主語に使われるので、イメージは色々と先行しているとは思う。

→このように「連載文化」があると答える方がいる一方、短編が多いと答える方もいました。書籍化を目指すようなものは、連載するんですかね。アンケートについては、僕が気になったことを並べているだけなので、まあイメージも聞いとこうかなと。サイトに投稿している人としていない人のイメージ比較ができればなあと思ったのですが、後者があまりいなかったので断念しました。「ネット小説」が大きくて主観まみれの主語に使われているというのはもっともだと思います。そして、このアンケートでやっぱり悪いイメージが先行しているのかなあと感じました。が、意外と悪いイメージを持っていない方もいましたね。


・読みやすくとっつきやすいので、これから色々な人が触れていく文学になるだろうと思っている。けれど、純粋な文学と認められるには未だ足りないものは多いように思う。もちろん、純文学をネット小説としてお書きになっている方もいらっしゃることは知っているが、それ以上にラノベ的な雰囲気の作品が圧倒的に多すぎる。メディアや商品としての価値は実証されている通りとても高いのだが、年配層からの支持を受けるのは難しいだろう。正に、現代的な文学と言えるのではないだろうか。

→現代的な文学! これからはラノベ的なものが主流になるのでしょうか? 何度も繰り返すようですが、僕はネット小説の文脈から純文学的なものが出てきて欲しいですね。

問10.小説投稿サイトのTwitterアカウントをフォローしていますか?

・はい→22票(19.3%)
・いいえ→92票(80.7%)

予想よりかなり少なかったです。小説家になろうアカウントのフォロワー数がやっと1万ちょっとなので、そんなもんですかね。

問11.上の質問に「はい」と答えた方は、そのサイト名を教えてください。

当然のようですが、「小説家になろう」が多かったです。
他のサイトについては、下に載せるアンケート結果URLから。

問12.小説投稿サイトのTwitterアカウントにはどのような情報を投稿してほしいですか(RTも含めて)?

・メンテナンスの開始、終了のアナウンス。
・おすすめ作品の提供ポスト。
・コンテスト情報
・サイトを利用しない第三者にも読まれるような動き
・我々(外輪)から見た意見を書く識者
・創作に関係する公募の情報(小説や絵本のコンクール等)
・企画やらなんやらで普段日の目を浴びない書き手を掘り出す手伝いをしてほしいと思う。
・文章構成の技術などの解説。

みたいなことが書かれていました。公募情報は、専門のサイトがあるのでそちらを見れば良いと思うのですが、小説投稿サイト側でも流すと喜ばれる?

ところで、こんな意見もありました。

・メンテナンス情報と企画の開催概要だけでも投稿してくれればそれで十分です。
 RTで投稿作品を宣伝されてしまうと、その多大な数に流され他の情報を見落としてしまう可能性があるので。

他にもいくつか、同じような意見が見られました。サイトURL付きのツイートをRTすることは歓迎されないのかもしれません。

問13.お使いの小説サイトで、何か不満な点がありましたら、お書きください。その際、後ろにカッコ書きでサイト名を付けてください。 例:○○なところをなおしてほしい(サイト名)

●全サイト
・自演対策して欲しい。ランキング上位がつまらないと面白いの探すのが難しい
・サイトによって好まれるジャンルが偏っていること。オールラウンダーなサイトを利用したい
・同じような内容の小説ばかりがランキング上位を占めているのは納得いかないので内容別ランキング欲しい
・連載中でない作品は、完結している良作であっても埋もれてしまい読まれなくなってしまう(読みたくてもなかなかたどり着けないなど)ことはなんとかならないかと思う。

●小説家になろう
・18禁などの小説を投稿すると、男女別にされてしまう。書いているこちらとしては、心情や性描写などどちら向けでもなく書いているので、分けないでほしい
・評価ポイントは1~5ポイントの間で入力出来るが、その平均を取ってソートする機能がないため、実装して欲しい
・書籍化する事で内容が大幅に変わるのに削除をする事。
・似たような傾向の小説ばかりとりあげている
・ランキングなど、特定の傾向のもので埋まってしまいそこから外れた傾向の面白い作品が上位に上がってこないこと
・検索が使いづらく読みたい傾向のものになかなかたどり着けないこと
・最近は商業出版社の草刈り場となってしまっていること
・読者との距離が近すぎるためか荒らしや中傷コメントが発生しやすく、作者が潰れてしまいやすいこと
・完結作品にまで更新されていない作品という表示が出てしまうことは何とかしてほしい
・話ごとではなく作品全体の.txtを一括でダウンロードする機能がほしい
・internet explorer以外のブラウザでも縦書き執筆が出来るようにしてほしい
・感想欄への書き込みで、極少数ですが非常に不愉快な読者がいること
・えげつない広告はなんとかならないのか
・高機能執筆フォームというのを使ったことがあるのですが、それほど使いやすくない
・小説を投稿しようとするととてもややこしい

●pixiv
・R-18と一般のように、BL、百合、ノーマルカップリングなど住み分けして検索をしたいです
・縦書き表示に対応してもらいたい
・作品を.txtでダウンロードできる機能がほしい
・好きではない類いの広告がよく流れてくるので撤廃してほしい
・表紙の修正が有料会員限定のところ
・シリーズ物の管理(名前変更や並べ替えなど)ができないところ
・タグ付けの有無・各タグの優先度の曖昧さ、ランキングの特定ジャンル占領
・レイアウトが統一化されがちで、作品ごとの視覚的な新しさというものが薄い

他の小説投稿サイトについても、いくつかありました。気になる方は、下の方にアンケート結果へのURLを貼るので、ご確認ください。

問14.小説投稿サイトにあったら良いなと思う機能・企画があれば教えてください。

●機能
・ケータイ版はその人の書いたその作品のタグに絞り込める機能がほしい
・同じ一つの文章の中でフォントを使い分けたり、文字の大きさや色が変えられたらいい
・設定別に細かいタグ検索(マイナス検索含)
・分野別に投稿時期の古いものでもおすすめが出てきたりすると便利
・投稿、更新時期での検索
・目次を飛ばして1ページ目までジャンプする機能
・スマホでもPCと同じ様にできる事
・自分のつけたい場所に振り仮名をつけられるのが便利
・イラストレーターさんが気に入った作品の挿絵を描いてあげられるような、それを読者が見ることが出来るような機能。
・公正で誰もが納得できるような評価機能
・作者同士が交流できるような機能
・サーチエンジン並の細かなカテゴライズ。ランキングから拾うのではなく、検索し易さを求めています。
・個人のホームページやTwitterをリンクにできる機能。


「マイナス検索機能」は複数の方から意見があり、僕もあったら便利だなあと思いました。

スマホで書きやすい、ということも重要ですよね。僕は本腰入れてキーボード叩くスタイルの方が好きなのですが、思いついたときにすぐ書けるのは確かに便利。


●企画
・詩に関する企画
・作品数の少ないジャンルにスポットを当てた企画
・運営がいくつかお題を出し、それに沿った小説を書いて投稿するような企画
・自分たちで相談して企画を立ち上げたりとか(運営側から提案されたものではなく)。

詩に関する企画! 確かにあまり見ないような気がします。「小説」投稿サイトではありますが、ジャンルに「詩」を設けているサイトもありますし、もう少し注目されても良いような気がしますね。

ユーザー主体の企画とかも面白そうですね。ちなみに僕は今、Twitterの呼びかけで集まった人たちとリレー小説して、それを小説投稿サイトに載せようかという話をしています。
大きくなってきた自主企画を運営が公式企画にする、なんてのも面白いかもしれませんね。

問15.その他、何かありましたらお書きください。

・自身のサイトも萌えや理想の形を晒すものだが投稿型の方が気楽な上、SNSのような側面を持つために長続きしやすいと思う。ある程度書き溜めたらサイトを持つのがベストか。

→ある程度書き溜めてからサイトに移行する人は多いのでしょうか? 投稿サイトをSNS感覚で利用し、宣伝の為に利用しても良いかもしれませんね。イラストや絵の世界では、ピクシブがそういう役割を果たしているのではないでしょうか?


・ネット小説投稿サイトの現状においては、規模の小さなサイトでは作品が多くの人に読まれず、規模の大きなサイトではあまりにも多くの作品が投稿されている為、優れた作品が埋没し、陳腐で大衆迎合的な作品が注目される傾向にあると思われる。
優れた作品が多くに人に読まれる為には、ジャンルや傾向等を細かく分類したり、優れた作品をピックアップするといった工夫が必要ではないかと思う。
ただ、分類を細かくしすぎると煩雑になったり、ピックアップされる作品をどう選ぶかといった問題が生じ、難しい問題ではないかと思われる。
個人的に思っているところを勝手気ままに書き殴りました。自分勝手なことを述べまして失礼いたしました。

→大衆迎合亭な作品が注目されることは当然といえば当然ですし悪いことではないのですが、仰る通り何かしら違うタイプの良作を発掘する仕組みが欲しいですよね。サイト側が企画を打つなり、個人で探してリンク集を作るなり。


・サイトを立ち上げる知識が無くとも、小説が自由に投稿・発表できるようになって、喜ばしいと思う。

→小説投稿サイトの良いところは、やはりこれに尽きるんだと思います。僕は自分で同人誌発行したりしていますが、色々と面倒臭いことも多いです。しかし、そんな面倒なことをしなくても小説を発表する場は十分に確保されている。良い時代になりました。

まとめ

今回のアンケートによって、小説投稿サイトに対して抱く思いは人それぞれだなあと改めて感じました。

このアンケートの結果を受けて、僕がどうするということは特にありません。個人レベルでできることならば何かするかもしれませんが、当然大きなことは無理ですからね。

しかし、ここに集まった意見を読んだ皆様の意識が少しでも変わるようなことがあれば、アンケートを取って記事を書いた意味があるのかなと思います。


今回の記事では取り上げなかった意見がまだまだたくさんあります。
誰でも自由に結果を見ることができるようにしていますので、気になる方は是非ご覧になってください。
「小説投稿サイトに関するアンケート」結果



ところで宣伝になるのですが、最近「taskey」という小説投稿サイトが運営する「taskey U」というメディアで記事の執筆・編集をさせてもらってます。まだプレオープンの状態ですが、人気のある作品は順次翻訳されるそうです。今後が楽しみなサイトですよ!
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『待兼山文学 第二号』を読んで 雑感

大阪文学フリマ戦利品の一つである『待兼山文学 第二号』をやっと読了した。手をつけるのに時間がかかったけれども、読み始めると夢中でページをめくっている自分がいて、何だか少しおかしかった。以下、書く作品を読んで感じたことを書き残しておきたいと思う。


●河上真冬「ホチキスの針」
以前、無間書房ブログに1000字程度の批評を書いたので、そこへのリンクを貼っておきます。
『待兼山文学 第二号』より「ホチキスの針」を読んでー加虐と自虐の一体性ー



●伊藤広晃「客星」
クトゥルフ神話の世界観を借りているのだと、読んでいる途中で気付いた。僕はその方面に造詣が深くないからよく分からないのだけれど、このようなある種二次創作的な試みは盛んに行われているものなのだろうか? 

文章は良くも悪くも「厨二的」と評することができる。かなり洗練されているなと感心して読んだのだが、このような文章作法にもクトゥルフの影響があるのだろうか? 他人の文法を真似するというのは並大抵の努力でできることではないので、その辺りも気になるところである。



●吉村雄太「黒い鳥と自動販売機」
小説に初挑戦と編集後記に書いてあったが、それにしては見事。僕なんかより数段うまい。
夢と現実を重ね合わせているところに作品の妙があると言えるが、いささかその手法だけに満足してしまっている感がある。ただ、その繋ぎとして「カラス」を挿入したのは見事であった。

この手の小説は、基本的には社会的・風刺的に読むことを強要される。作者がどのような話を書こうとしたかに拘らずに。

人間一人では狩りもできずに何も食べることができないくせに、自動販売機なんかに頼って生きている。もしも資本主義経済という大きな黒い鳥が死んでしまった場合、僕らはどうするのだろうという風刺だ。手垢がついているテーマという感は否めないが、それを夢に出てくる黒い鳥とダブらせ、鮮明に読者の記憶に留めたことは素晴らしいとしか評しようがない。



●「「あの花」に見る深夜アニメ批評」
あの花から導き出されたものを深夜アニメ一般に敷衍させるのかと思っていたが、作品論のみに終始していたのが残念。また、やや主観的で感想文めいているという感想を抱いたことも事実である。

ただ、試みとしては非常に面白い。僕はほとんど未読だが、サブカル批評の本はたくさん出版されているので、そこで用いられている手法などで分析を試みれば「深夜アニメ」を「文化」に昇華されるという筆者の意図に適った論評ができるのではないだろうか。

瑣末なことだが、アナルはアナルと書かなければならないように思う。気持ちは分かる。痛いほど分かる。しかし、そこはアナルと書くべきである。アナルと書くべきである。大事なことなので、二度書いておく。

じんたんやその他のキャラクターがいわゆる「アニメ的」では無いという批評があったが、「まどマギ」に関して同じような感想をどこかで聞いたことがある。曰く、「さやかだけは人間的造詣が施されている」と。何故そのように描かれているのかも分析されていたように思うけれど、忘れてしまったのでここには書けない。

さて、そこにアクセントとして、メンマのアニメキャラ的造詣が加わるという論旨だったように思う。つまり、メンマは萌え豚ホイホイだったわけだ。なるほど。



●「蝶の紋」羽佐田晃佑
よくできたゴシック小説という感じ。「精神病」という共通項もあって、『ドグラ・マグラ』を思い出した。遺書という形式も面白かった。

ただ、明治浪曼か大正浪漫か昭和浪曼か分からないけれど、やや古風な時代背景と言葉遣いが読者(つまり僕)との間に懸隔を生んでいて、個人的にはあまり好きではない(あくまで、個人的に)。しかし、その設定と文体が更なる怪奇性を付与していることは紛うことなき事実である。

怪奇小説好きの方にはオススメの作品。僕は泉鏡花も夢野久作も安部公房も何だか肌に合わないので、ダメである。


●「私的用語集」日谷良平
出色。あまりにも好きなので、何も書きたくない。

例えば純文学の定義なんぞはアカデミックな立場から言えば全然違っているのだろうけど、そういう見解は受け付けていないようだし、ある種真実だと僕も認めるところなので、特に何も書かない。

一緒にお酒を飲みながら、日谷氏の文学講義を拝聴したい。本誌未読の諸氏は、「私的用語集」を最初に読むことをオススメする。


●「クリスマスの夜に」福原崇太
このニッキーはとんでもなく長生きなのか、はたまだ四代目くらいのニッキーなのかと読了後に考えたが、まあどうでも良いことである。勝手にクリスマス氏は老人だと想像していただんけど、もしかして壮年男性なのかな……?

「ピカイチ」がこの物語の世界観の全てである。勿論他にも構成要素はたくさんあるのだが、ウォーリーとデイヴィッドが「ピカイチ」と言い続ける作品であることに、この作品の良さが詰まっているのだと僕は思う。


●「沈黙の時間」船津拓実
突然の女性との出会いと、衒学と、カフェと、音楽と、本とに村上春樹を。退廃に太宰治を感じた。足して2で割ったような感じだなあと思っていたんだけど、よく考えてみたら春樹成分の方が多いかもしれない。

しかし、ただのかぶれものでは無い(春樹も太宰も影響を受けていなかったらすみません)。筆力がめちゃめちゃあって、簡単にこの世界観に引き込まれてしまう。筆力もさることながら、本を読むことも好きなんだろうなという風に感じた。読んでいてどういう書き方をされていたら気持ちいいかということがわかっている(というのは、読んでいて僕が気持ちよかったというだけのことなんだけど)。

話の構成も全体的に凄くよくできていて、批評したくないんだけど、最後に語り手が批評家めいた顔をしない方が良かったんじゃないかと僕は思う。変に寓話的になってしまう。同じ過ちを芥川が「酒虫」でやってのけている。答えは全部削るべきだったんだ。しかし、その語り手からの答えを踏み台にして、読者が別の答えを見つけられなければならないのかもしれない。

芥川龍之介「酒虫」先行研究目録

先日、演習の講義で芥川龍之介「酒虫」を取り扱ったのですが、先行研究を探すのに大変苦労しました。そこで、「酒虫」を研究材料にしようと考えている人のために少ないながらも文献目録を残しておきたいと思います。他にも芥川の「酒虫」に言及されている文献を知っている方がいらっしゃいましたら、お知らせいただければと思います。


●単行本
稲垣達郎 「歴史小説家としての芥川龍之介」『芥川龍之介研究』1942年 河出書房
吉田精一『吉田精一著作集第一巻 芥川龍之介Ⅰ』1979年 桜楓社
菊池弘 「芥川龍之介の歴史小説」 『芥川馳之介 表規と存在』1994年 明治書院
菊池弘・他編『芥川龍之介事典(増訂版)』関口安義「酒虫」 2001年 明治書院
志村有弘編『芥川龍之介大辞典』矢作武「酒虫」2002年 勉誠出版
関口安義・他編『芥川龍之介全作品事典』菅聡子「酒虫」 2000年 勉誠出版

●雑誌掲載論文
孔月「芥川龍之介「酒虫」における治療と病の寓意――『聊斎志異』の「酒蟲」との比較をとおして」(『文学研究論集』27 2009年 筑波大学比較・理論文学会) PDFへのリンク
広瀬朝光「芥川『酒虫』の文芸性」(『愛知大学国文学』16 1967年 愛知大学国文学会)
単援明「芥川龍之介<変者>の系譜――「鼻」「酒虫」「芋粥」」(『熊本工業大学研究報告』24 1999年 熊本工業大学)
小谷瑛輔「芥川龍之介の初期作品における反語的完結性――「羅生門」「鼻」「酒虫」を中心に」(『国語と国文学』87 2010年 ぎょうせい)
林[ハイ]君「芥川龍之介「酒虫」論」(『国文白百合』37 2006年 白百合女子大学国語国文学会)

●同時代評
「芥川君の作品(上)」江口渙「東京日日新聞」 大正6年6月28日
「芥川君の作品(下)」江口渙「東京日日新聞」 大正6年7月1日

※「東京日日新聞」に掲載された江口渙の評論は、『新聞集成芥川龍之介像一』(1984年 岩波書店)によって閲覧。未確認だが、『芥川龍之介研究資料集成 第一巻』 (1994年 日本図書センター)でも閲覧可能という。

太宰小説における理不尽な<敵>について

太宰について、何かやろうと思っている。
僕はどちらかといえば太宰が好きだけれど、決して太宰の熱心な読者であるわけではない。『人間失格』だけは三回読んだ。それだと、いわゆる「青春のはしか」にかかっただけみたいで悔しいので(というか、何かやるためにはどうせ読まなければならないので)、太宰作品を色々と読んでみることにした。

ただ読むだけでは全く頭に残らないので、何か指標になるものは無いかと図書館をぶらぶらしていたら、斉藤理生先生の『太宰治小説の<笑い>』という本を見つけた。パラパラとめくっていくと、主に短編の作品論を展開しているようだ。それらを全て<笑い>というキーワードで捉えていて、中々おもしろそうだ。というわけで、読んでみることにしたのだった。

しかし、恥ずかしながらそこで扱われている作品のほとんどを私は読んだことがなかった。そこで、新たな論考に入る前に青空文庫とにらめっこをして、ほほお、これは凄いななんて関心をしながら、新たな太宰作品を読んでいった。僕はやはり後期の太宰イメージが強かったので、新鮮な印象を受ける作品も多かった。斉藤先生の論考の中身も去ることながら、僕にとっては、多数の太宰作品に触れるきっかけを作ってくれたことがこの本の一番の効果かもしれない。


さて、大変失礼なことだとは思うけれど、斉藤先生がこの本の中で頻繁に指摘する点をここでいくつか取りまとめておきたい。

まず一つ目は、「自分を相対化(対象化)しないことに対する笑い」である。この本の中では「対象化」とか「相対化」という言葉が出てきて、僕は大体おなじような意味で捉えているんだけれど、それで大丈夫だろうか。ヤバいんじゃないかという指摘があったら、教えてください。

この指摘はかなり根本的だと思う。というのも、『人間失格』なんかは太宰の心情がそのまま表れているように読まれることが多く、太宰はナルシストなんじゃないかという誤解を多くの読者に与えかねないからだ(僕もそういう印象を持っていたんじゃないかなあ、と当ブログに掲載した過去の記事(太宰治のナルシズムは文学だからこそ許されたのではないかを思い出しながら考える)。

斉藤先生が強調しているのは、多分そういうのと全く違った太宰像だ。太宰は徹底的に猪突猛進型の思い込みの激しい人物を描くことによって、その滑稽さを際立たせている。だから、僕らは太宰を読むときに、その登場人物たちに感情移入しきってはいけないと言えるのかもしれない。まあ、そういう読みを排除するわけではないと思うけれど、斉藤先生の論では「距離を置く」とかいう言葉も頻発していた。基本的に、物語上の盲信は笑いを誘うものとして考えられている。


二つ目は……この辺でブログのタイトルと中身が全然一致してないじゃないかという人がいるかもしれない。だから説明しておくけれど、最後の方までそのことについては書かない。それに、あんまり書かないんじゃないかとも思う。まあ、『太宰治小説の<笑い>の感想としてこの記事は読んでもらえれば良いんじゃないかな。

さて、気を取り直して。二つ目は「繰り返し肯定する=言い聞かせることがむしろ否定の効果を生み出している」ということだ。

何度か指摘されることだけれど、太宰の小説には繰り返しが多い。確か、「男女同権」なんかがそうだ。あの男は、嫌味っぽく言うことである言説を嘘っぽくさせている。何かのCMで、人間は大事なことは一回しか言わないというのがあった気がするけれど、大体そんなところだろう。「飲まないから、今日はお酒なんてぜーーーーーったい飲まないから!」なんて言うやつは、大抵飲んでしまう。フラグが立っているのだ。繰り返し語られることは、もしかしたら嘘かもしれないと思ってよい。

この手法が多く使われているんだと、斉藤先生は指摘しているわけですね。僕はそういう視点を持っていなかったけれど、なるほど、確かにそう思って読んでみると登場人物の滑稽さの理由が分かるような気がしてくる。


三つ目は、「個別の事象を安易に一般化すること」だ。これも「男女同権」の話になるんだけど(このお話は面白い)、主人公の男は、自分が個別的に受けてきた女からのひどい仕打ちを、全て女一般の話に広げてしまう。まあ、それだけ女に虐げられてきたならば女一般がひどいものだと思うのも当然だよなあと思うけど。そうは思うけれど、斉藤先生のこのような指摘は別の作品でもなされていて、かなり面白い指摘だなあと思う。



かいつまんで書くと、大体こんな感じだろか。興味を持った方は読んでみると良いかもしれない。面白さは保障する。割と新しめの本なので、大学図書館などには入っているのだろうか?
調べてみると、まあそこそこ入っているみたい→http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB12638290#anc-library



で、まあブログのタイトルにもしてしまったので、太宰作品における<敵>について思ったことを、書きながらまとめていきたいと思う。

『太宰治小説の<笑い>』で扱われている作品の中で僕が<敵>を認めたのは、「畜犬談」「浦島さん」「グッド・バイ」「親友交歓」「眉山」である。

「畜犬談」→犬
「浦島さん」→亀
「グッド・バイ」→キヌ子
「親友交歓」→親友(と自称する男)
「眉山」→眉山

というような感じで、それぞれの作品に<敵>が設定されていると考えることができないだろうか。他の話でも主人公が敵とみなしている人物はいると思うんだけれど、ここで言うのは「読者の敵」でも言ったらいいんじゃなかろうか。読者が、言い負かせないような敵なのである。

まず、「畜犬談」における犬。なんだか嫌なやつだけれど、どうしても可愛くて飼ってしまう。最終的に、可愛くなくなってしまっているのに飼いたくなる。このどうしようもなさというのは、読者にも理解できる部分があるのではないだろうか。

「浦島さん」の亀に浦島は口で絶対に勝つことはできない。それは読者も同様ではなかろうか? キヌ子にもまんまとしてやられるし、親友にもいつの間にか酒瓶を空けられている。眉山だって、どんなことを言ってもあっけからんとしている。これらのキャラクターは全て主人公あるいは読者にとっての<敵>として見ることができないだろうか?

<敵>というのは恐らく「不条理」と読み替えても差し支えないように思う。僕が最もムカつく不条理は、小学生のときにいた「何でも真似してくるやつ」だ。こちらの言うことを全て真似してきて、こちらが「真似すんな!」と怒っても、相手は同じように「真似すんな!」と返してきてヘラヘラする始末。こちらも向こうも同じ労力をかけて行動しているはずなのだが、こっちは苛々しているのに向こうは嬉々としている。不条理である。そして、その真似っ子マンは僕にとっての敵である。

これとおんなじような不条理さが、これらの作品には見え隠れしているような気がするのである。このことが作品にどのような効果を与えたかなんてことについては、僕はさっぱり答えを持っていない。もしかしたらいつか思い出して、答えを導きたくなるかもしれない。でも、今はここまで気付いたところでまあ良いかと満足したので、こんな感じで今回は終わりにさせていただこうと思う。

小松左京『物体O』を読んだ。とりあえず日本SF御三家に触れて思う事

物体O (新潮文庫 こ 8-7)


星新一、筒井康隆、小松左京。この三人をまとめて日本SF御三家と呼ぶことを知ったのは、結構最近のことだった。それだけ、僕はSFに興味がなかったということになる。

星新一のSSは小学生の頃に大好きで読みまくった記憶がある。個々の物語を正確に思い出すことはできないけれど、いくつか印象深い話を思い出すことができる。例えば、大きな穴に次々とゴミを捨てる話とか。これは僕が使っていた英語の教科書に載っていたので、結構鮮明に話の筋を覚えている。

筒井康隆については、半年位前に何気なく手に取った『将軍が目覚めた時』が最初に読んだものだった。これが結構よくて、次も何か読みたいと思っている。『時を駆ける少女』をの原作を書いたということでそっちも読んでみたのだけれど、これは全然本気じゃないんだろうなという気がしたから、僕の中であれは筒井作品にカウントされていない。『旅のラゴス』が面白いと聞いているので、書店で見つけたら購入しておきたいと思っている。


さて、そうして僕は日本SF御三家の最後の一人、小松左京に手を伸ばしたわけである。本当は最も有名だと思われる『日本沈没』あたりから手をつけるべきだったんだろうけど、古本屋にたまたまこれがあったのだから仕方がない。積ん読本はまだたくさんあるんだけれど、気になってしょうがなかったので先に読んでみることにした。

これが予想以上の大当たり。僕は純文学的なものよりもSFの方が好きなのかもしれない。そりゃあ、娯楽性が強いから面白いのは当たり前だろうと言われるかもしれないが、小松左京作品にはそれ以上の魅力が感じられるような気がする。

SF御三家に通底しているのは、「批判の精神」だと思う。そういえば、星新一のSS集を読んだときにも少し似たようなことを書いた(→風刺という実用的かつ娯楽的なもの 星新一『午後の恐竜』を読んで


この人たちはメチャクチャ頭が良い。ここでいう頭が良いというのは、社会を俯瞰することができるということだ。また、”if”の物語にリアリティを持たせることができる。表題作「物体O」で言うならば、ある物体によって日本のある部分が分離してしまったときに起こるだろうことをちゃんと予測することができている。これは文句なしに凄い。

日本の純文学作家というのは、この辺の感覚にはあまり優れていないように思われる(というか、あまり優れている必要がないのかもしれない)。個人的な感傷を描くことは馬鹿みたいにうまいけれど、それって僕の感覚でいうと”頭の良い馬鹿”みたいなことになる。僕はこの馬鹿が好きなので、純文学のことが結構好きなんだけれど。

もちろん、純文学の中でも社会というものをちゃんと捉えているものがあるんだろうけど、それって芸術性をかなぐり捨ててない? 純文学と他の小説との境界を突破しようとしていない? という風に思ってしまうのだ。

でも、『蹴りたい背中』とか『桐島、部活やめるってよ』がスクールカーストとかを鮮やかに描き出していて、それが社会的だと言われれば確かにそうかもしれない。でも、それって結果的にそうなっちゃっただけで……ということを言い始めると、別にSF小説も社会的に書こうとしたわけではなくて、面白く書こうとしただけなのかもしれない。むむう。


話が逸れてしまった。まあ、動機がどんなものであるにせよ、SF小説の研究というのはこの先文学の領域でなされなければならないと思うのです。江戸戯作文学なら、少しくらい真面目に研究している人がいると思うんだけど、ちょっと時代が下ってしまうとまだまだ。まあ、他の領域では随分と研究されているような気もするんだけど、ここに文学の手法を持ち込んでみるともっと面白くなると思う。

この記事を書きながら、「純文学」の定義をもう一度見つめ直さなければならないなあと思った。それから、いわゆる「中間小説」がどのようにして台頭してきたのか。多分、日本SF御三家の方々は、この中間小説というものをかなり意識しててんじゃなかろうかと思う。

で、SFの流れってラノベに引き継がれていると思うんだけど、そういえば最近のラノベってかなり前衛的な流れに行っているみたいだね。Twitterでネタになっているのを見ているだけだけど……。あれってなんか純文学に近くなってきてるんじゃないかなあと思う。村上春樹の『風の歌を聴け』みたいな。まあ、これは本論から外れてしまうんで、また別の機会にでも書こうかな。


レマルク『西部戦線異状なし』 青春を奪うものとしての戦争の悪質性


 レマルクは1898年に『西部戦線異状なし』を発表したという。名前だけなら聞いたことがあるという人も多いのではないだろうか。僕も、最近までは名前を知っているという程度だった。教養のある人ならば、読んだことがなくともこの小説が第一次世界大戦中のドイツ軍の一人の兵士の物語であることを知っているだろう(ちなみに、僕は内容については全く知らなかった)。

 第一次世界大戦において敗戦したドイツは、次の戦争では勝ちたいという気持ちがあったのだろう。レマルクは1931年に反戦作家として迫害を受ける。彼が反戦を唱えていたかどうかは別として、『西部戦線異状なし』を読んだ人は、戦争がいかに悲惨なものであるか理解できるはずだ。

 もちろん、今は時代も変わってきている。作中ではびっくりするほど簡単に人が死ぬ。それほどの怪我で死んでしまうのか? と読み進めていて疑問に思った。現代の医療ならば、命に別状がない程度の怪我もあったのではないだろうか。

 とはいえ、戦地ではまともな治療ができないことや兵器の進化を考えるならば、当時と対して状況は変わらないのかもしれない。それに、この物語のテーマは戦争への嫌悪というものではないと思う。戦争を悪として描いているが、それでは、『西部戦線異状なし』では戦争の何が悪なのかということを突き詰めていくと、この物語の真髄が分かるのではないかと考える。


 端的に言ってしまえば、戦争は人を変えてしまうからいけない。しかも、二十前後の青少年の心を大きく変えてしまう。壮年の人々は、戦争が終わればそれまでの生活に戻ることができるだろう。しかし、青少年期に戦争を体験し、人を殺し、殺されるところを見、過酷な状況で生き延びたという経験は、彼らの価値観の形成にいかなる影響を与えるだろうか。きっと、戦争というものをずっと引きずって生きていくことになる。戦争が青春を奪うということの罪はかなり大きい。そのことをレマルクは作中で繰り返し語っているんだと私は読み取った。

 例えば、人を殺さなければいけないということ。青春って、多くの「何故?」が渦巻く時期だと思う。何故勉強をしなければならないのか、何故生きなければならないのか、何故自殺をしてはいけないのか、何故人を殺してはいけないのか。小学生でも考えることができる考えを、この時期まで引きずってしまう。そして、道徳的な観念でしか答えを出せなかったことに自分なりの答えを出す。何故人を殺してはいけないのかという問いには、それぞれ答えが違うと思う。しかし、多くの人は何らかの理由で「人を殺してはいけない」という答えにたどり着くのではないだろうか。人文学的にも社会科学的にも様々な答えが想定しうる。

 しかし、戦争というのはその答えをひっくり返す。人を殺さなければ自分は生き残れないし、国家が生き残ることができない。そこでは、人殺しが正義となってしまう。大人は「これは戦争だから」と割り切ってしまうことができるだろう。しかし、青少年はこの価値観の衝突に大きく苦しみ、それを大人になっても引きずってしまう。

 青春の喪失、というと僕のイメージするものと少しずれてしまうのだが、それ以外に適当な言葉が思いつかない。青春って別にキラキラしているものではなくて、発達段階として非常に重要なものなのだ。それが破壊されてしまうということは、とってもマズイことだ。しかし、戦争には多くの若い人材が必要になる。必然的に彼らの青春は破壊されてしまう。反戦小説は数あれど、この青春の小説を描いた作品というのはあまり無いんじゃないだろうか(僕は戦争文学をあまり読んでいないので、同じような主題の作品があれば教えてください)。



 最後にちょろっとだけ書くけど、この小説では母親というものの存在が大きいなあと思った。主人公が家に帰ってきてから、他の家族もいるはずなのにほとんど母親とのことしか描かれない。父親は実はもう死んでしまっているのかと思ったが、読み進めればピンピンしていることがわかる。他にも姉妹がいるのだが、あまり姿を見せない。家族としては、母親が前面に押し出されている。

 どういう要素が組み合わさって、こうなっているのかなあというのが僕の気になるところ。作者のレマルクとしても何か意図があったんだろう。しかし、例えば戦争文学は母親を出すものだとか、青春時代には母親との距離感が問題になるとか、ドイツにおける母親と家族とか、多角的に見ても面白いんじゃないかなあ、と。

柴崎友香「春の庭」を読んで思うこと。

『文芸春秋』2014年9月特別号掲載の柴崎友香「春の庭」と氏へのインタビュー、および選考委員の選評を読んだ。以下、その雑感を書きつけていこうと思う。物語の構成とかは書きますが、物語の重要な部分についてはたぶん書かないと思います。


まず読んで思ったのは、なんだか疲れるなあということだ。それは、芥川賞の選考対象になるような作品(あるいは作家)に独特な雰囲気なのかもしれない。ここのところいわゆる大衆向けの作品ばかり読んでいる節があるので、そちらに感覚の拠り所があるせいなのかも、とも。

また、急いで読もうと思ったのがいけないとか、姿勢が悪かったとかはあるかもしれない。……などと書いていると、本当に作品の評価というのは文脈に影響されるなあと思う次第です。三日くらいっかけてゆっくり読んだなら、また評価が違ったのかもしれない。

しかし、決して退屈ではなかった。いや、本当のところ言うとちょっと退屈だったけど。しかし、それを上回るパワーがあったように思う。物語の冒頭で一応の「謎」は用意されているし、それにそってストーリーが展開していく。物語の構成ということも、しっかり考えられているんだなあと感た。

一番興味深いなと思ったのは、太郎に対する自分のイメージ。三人称視点で語られていて、心情なんかにも入り込んで描かれている前半と、お姉さんの目線で描かれる部分とではかなり印象が違ってくる。この違いは一体何だろうと疑問に思った。見る角度によって物事は違って見えるのだという、本当に当たり前で何度も繰り返し言われてきて陳腐なことを、改めて実感した。

というか、この小説の人称って一体どうなっているのだろう。三人称視点で語られているかと思えば最後の方で「私」(=太郎の姉)視点になって、そして知らないうちにまた三人称視点に戻っていく。矛盾なく解決しようとするならば、きっと、これはお姉さんの一人称視点での話なのだろう。まあ、そのお姉さんが太郎の生活を全て知っていて、巳さんの過去も西さんの過去も全て知っているというのはおかしな話なのだけれども…。でも、そういう全知の存在としてお姉さんを仮定すると、物語全般、特に後半部で違った読み解き方をすることが出来るのではないだろうか。


ところで、選評を読んでいると「カメラみたい」「写真みたい」というような表現がたくさん出てきた。柴崎さん自身も、そういう指摘をされることが多くある、というようなことをインタビューで書いている。僕が疲れた原因はここにあるのかもしれないと思った。

柴崎さんも好きだと言っている漱石は、なんでもかんでも書きすぎる傾向があるような気がする。それも、無意味な情景を。東京の地図が頭に入っていない僕にしてみれば、東京の地名がどうだとか、本当にどうでも良い話なのだ。その点、僕の好きな太宰はそういうのを排除して、自己の内面の重要事だけを活字として残すように努めている気がする(本当に、気がするだけかもしれない)。

「意味」というものを考えてしまうと話がややこしくなるので詳しくはしないけれども、簡単に言うと、僕は意味のないものを極力排除してほしいと思う人間だ。カメラで撮ると、別に表したくなかったものまで写ってしまう。それは意図して排除したいと思ったものではなく、無関心なものが紛れ込んでしまうということだ。普通の作家は、意識したものしか書けない。それは柴崎さんだってそうだろうけど、彼女は意図していないものも書いているように見せているのだろう。それが彼女の優れているところなのだろう。僕は積極的には評価しないけれど。


しかし、選考委員の仲が悪いんじゃないかと選評を読んでいらぬ心配をしてしまった。そういえば、僕は選考委員の小説をほとんど読んだことがない。宮本輝の『青が散る』、小川洋子の『博士の愛した数式』くらいではないだろうか。おお、もっと積極的に読まなければ。彼等の中にどのような対立があるのかを知ることも、ミーハー趣味ではあるけれど、おもしろそうだ。

群像新人文学賞を受賞したと話題で名前だけはよく聞いていた「吾輩ハ猫二ナル」はあまり評判がよろしくなかったようで。ずっと気なってはいるので、機会があればいずれ読みたいと思っている。


今回は適当に書きつけただけなので、いずれまた思うことがあれば、しっかりした感想でも書きたいなあと思っている。

角田光代『八日目の蝉』を読んで。「におい」が少し気になった。

八日目の蝉 (中公文庫)



本作は主に1章と2章の二つの章で語られる。0章も冒頭に付されているのだが、これは1章と同等に扱って構わないと思う。

粗筋をざっと記述しておこうと思う。
物語は主人公がとある夫婦の家に侵入するところから始まる。ある事情からその夫婦と子どもに深い思い入れのある女性が、その子どもを一目見ようと侵入するのだ。しかし、女性はその子供を見ているうちに感情を抑えきれなくなり、子どもを融解してします。彼女は様々なところを逃げ回る。友人の家に行き、不思議なおばさんの家に行き、女性だけで集団生活をしている施設に二年ばかり落ち着く。しかし、捜査の手が伸びてきて、彼女はその施設から逃げ出し、小豆島で暮らすことになる。はてさて、その後はどうなるか……。

二章は、一章を受けてその誘拐された赤ん坊が成人してからの話になる。赤ん坊だった女性は自分が誘拐されたことがあると知っており、そのことについて悩みを持っている。そこへノンフィクションライターの女が現れ、自分が誘拐された女と一緒に住んでいたところを回ることになる。


この小説で1章と2章、どちらに重点を置いて描かれているのかといえば、僕は二章の方だと思っている。というか、構造上2章は1章を受けた形でないと意味を持ちえない。だから、1章がある意味まくら的に見えてしまうせいかもしれない。

2章では、1章に出てきた誘拐された女のようにはなりたくないという気持ちが働く。しかし、物心がつき始めたころには母親だと思っていた人物から離れることはやはり苦しいことなのであろう。現代として描かれている主人公がそのようなことを思う描写はないが、回想の中で、それをにおわせるような描写が散見される。

夏目漱石の『こころ』は第三章以外はまくら的なもので、やはり三章が重要なのだと言う話をこの間聞いた。それと似たようなものだろうと勝手に考えている。

さて、僕らはきっと、この小説を読んで、自分が同じ立場に立ったらどういう行動をするだろうかと考えなければならない。きっと、そういう性質の小説なのだと思う。例えば、愛する人に別の女の子どもができたら? もしその子どもを攫ってしまったら? そして、捜査の手が伸びてきたら? あなたなら、どうするだろか。

また、誘拐された赤ん坊の立場に立つことも可能である。誘拐されたことによって、彼女は幸せな家庭で正しく育つことを阻害されてしまった。根本的に悪いのは、きっと犯人である。しかし、犯人だけが悪者なのではなく、家族にも悪いところがあるのだということに赤ん坊だった女性は気付いている。

結局、物事は善悪は割り切ることができず、だいたいの人間はしょうがなく悪いことをやってしまうことがあるのだという風にしかできないのだが、この小説には、それを再認識させる力がある。ああ、自分も同じ状況に立ったら、同じようなことをするのだろうか。それは嫌だけれど、けど、きっと同じことをするのだろう。そういう諦感が僕を包んだ。このような状況になくて、本当に良かったと思う。


ところで、僕はこの小説を読んでいて気になったことがある。
それは、「におい」である。
1章の主人公は、誘拐した後に逃げ込んだ老婦人の家がどこか奇妙なことに気付く。その奇妙さを引きずりながら、誘拐してきた子どものおしめを替える。その匂いに老婦人が過剰に反応するのを見て、あることに気付く。

 そうして気がついた。この家はにおいがまったくしないのだ。玄関を入っても廊下を進んでも、なんのにおいもしない。私が抱いたあのへんな感じは、そのせいだったのかもしれない。(p.49)

また、今度は誘拐された女の子薫の感覚として、次のようなことも語られる。

 車を降りて、あ、においがなんにもしない、と思った。ずっとかいていたにおいが、あのとき、ぱたりと消えてしまった。(p.220)

この他にも「におい」に関する記述が散見される。もちろん、小説の中ににおいの記述があっても別に構わないのだが、この小説では特ににおいというものにこだわって書いてあるような印象を受けた。まず、最初のにおいに関する記述が印象的だ。においがしないから、変な感じがする。これは僕らが生きるうえに置いて、さほど意識しないことではないだろうか。それなのに、においを引き合いにだしている。

詳しく考察することはしませんが、少し気になっているところではあります。文学における「におい」の意味というものを考えても面白そうですね。

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吉田修一『横道世之介』を読んで

横道世之介 (文春文庫)



横道世之介の青春はキラキラ輝いて見えた、というのが僕の率直な感想である。友達もそれなりにいて、恋して、彼女もできて。結構充実している部類なのではないかと思う。

だいたい、なんで小説において大学の登場人物は入学してすぐに友達ができるのだろうか。僕にコミュニケーション能力が欠けているのか、世之介みたいなのが普通なのか。まあ、どっちかはわからないけれど、少なくとも輝いて見えたことは事実である。

大学一年生の頃、僕はこのような生活を送ることができていただろうか? 世之介はバイトを頑張っているけれど、そういえば僕はろくにバイトなんてしていなかった。友好関係についてはどうか、恋愛についてはどうか、等々いろんなことを世之介と比べてみる。

しかし、よくよく考えてみれば、僕も世之介と対して変わらないような大学生活を送ってきたのかもしれない。そりゃあ、友人が妊娠して大学を中退するなんて大事件はなかったけれど、それでも、それなりに楽しい生活を送ってきた。他人の生活というものは、羨ましく感じてしまうものなのだろうか。


さて、少し構成面に言及しておきたいと思う。
個人的に思うのが、世之介意外の登場人物にほとんど必然性が感じられないということだ。というか、忘れ去られているような気がする。お隣さんは最初に出てくるとあとはほとんど出てこないし、阿久津結もあまり出てこなくなってしまっている。その割に、祥子は最後の方でうんざりするくらい出てくる。祥子は、ヒロインという位置づけになっているのだろうか? だとすると、描き方がちっともヒロインらしくはないなあと思う。

ただ、それはこの物語が世之介の物語であるのだということを強調しているような気がする。世之介にとって、やっぱり他の人の人生などというのは関係のないことなのだ。どんなんに親しく喋っていても、お隣さんであること以外に接点はないし、冷房を借りる以外に用事がない友達がいたっていい。

もう一つ構成面でいいなと思ったのが、登場人物たちの未来が描かれていることだ。これが物語に心悲しさをプラスしている。大人になってしまった登場人物たちはどこか疲れてしまっている。それは、文章に漂う雰囲気からもわかるし、彼らの言動からもわかる。達観して、疲弊している。これと対比することで、青春の輝きが強調される。


吉田修一は『パーク・ライフ』で芥川賞を取っておきながら、こういうライトな作品も書ける凄い作家だと思います。『パーク・ライフ』は以前読んだことがあるのですが、あまり覚えていないので、今度また読んでみようかと思います。


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俵万智『サラダ記念日』を読んで。定型詩の未来。

短歌、あるいは詩というものは何を目指せば良いのだろか。そんなことを、『サラダ記念日』を音読しながら考えていた。

そう、僕はこの本を音読してみたのだ。目で追っているだけだと、流し読みしちゃって何も残らないから。その成果が出たかどうかはわからないけれど、僕はある程度この短歌集を楽しむことができたように思う。

話を戻そう。僕は短歌とか詩に造詣が深いというわけではないので、本質的な話はできない。ただ、僕が感じたことをそのまま並べてみようと思う。

短歌とか詩というものは、従来から制限の中で表現をするものである、ということが出来るだろう。日本の場合、短歌や俳句のように字数が決まっているし、西洋の詩や漢詩なんかは、韻を踏むことでリズムを出す。散文詩なんかは別になるんだろうけど、短歌や詩は、まあこういった制限の中で成長してきた文学だということができると思う。

ここには、きっと引き算の美学がある。昔はあまり引き算の美学というものがよく分からなかったんだけど、最近はなんとなく分かるようになってきた気がする。本当に、なんとなーくだけど。

引き算の美学と、あとは言葉の面白みを追求していかなければならない気もしている。文学的な雰囲気というか、詩情というか、ポエジーというか。ただ、これって未熟か完熟しているかどうかが判別できないところで、難しいものだなあと思う。というか、未熟であっても完熟であると思い込まなければ価値が生まれないというか…。ただ奇をてらって文学的な雰囲気のある文章にしたところで、叩かれるのがオチだからなあ。

内容も必要なんだろうけど、短歌の長さでどう内容を伝えればいいのだろか。『サラダ記念日』内の最も有名なものは
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
であるが、これに意味があるのかと言われればどうだろうか。いや、この「意味」という言葉の意味にも捉え方が色々とあると思うので、その前提から……ええい、ややこしい。

とりあえず、僕はこの文章に意味はないと思っていて。もしも意味があるとするならば、この情景を思い浮かべて、色々なことを想像することができる、といったところか。そこには、文字にしかない魅力がある。想像は、各々に任せられる。また、定型詩の良いところは覚えやすいところだ。暗唱すれば、それを簡単に持ち出すことができる。

ところで、果たして短歌に未来はあるのだろうか? 俵万智は幸福にもベストセラー作家になることができたが、この先短歌などが日の目を浴びる日は来るのだろうか? まあ、日の目を浴びる必要がなく、短歌が好きだからやっていくというのは素晴らしいと思うのだが、この「定型詩」というものは今後どのような方向に向かっていくのだろう。

僕は、Twitterがここに大きく絡んでくるのではないかと言う風に思う。Twitterは周知のとおり、140字という字数制限がある。幾つかのツイートにわけて情報を発信することも可能だが、多くの場合、長い文章もどうにか140字以内にまとめようと苦心して発信する。

アルファブロガーならぬ「アルファツイッタラー」とでも呼べそうな人がTwitterには数多く存在している。こういう人たちが、定型詩の後を継ぐと言っても良いのではないかなあという風に思う。Twitterに書かれたものが文学かどうかには争いがあるかと思うが、私見を昔書いたので、参考までに貼っておきます。
「つぶやく」という小さな単位の文学

詩と呼べるかどうかは分からないけれど、定型文学は、こういう場にさらわれていっちゃうんじゃないかなあという気がしています。小説とかは紙媒体がなくならないと思ってたけど、定型文学(この言葉の定義が怪しいけど)は徐々に紙媒体から姿を消していくのかもしれませんね。

三浦しをん『まほろ駅前多田便利軒』を読んで。合理的不合理とか。

まほろ駅前多田便利軒 (文春文庫)



『まほろ駅前多田便利軒』を読んでみて「ミステリ要素のない探偵物」という表現が脳裏をかすめたのだけれど、僕はあまりうまい探偵物を読んだことが無いので、この表現が妥当かどうか分からない。

さて、この作品は『船を編む』で一躍人気作家となった三浦しをん氏のシリーズ小説第一作である。東京にあるという架空の街「まほろ市」に便利屋を構える多田とそこに転がり込んできた行天が織り成す痛快コメディとでもいうことになるだろうか。

連作短編形式に近いものがあり、事件ごとに物語の分断が見られる。そして、物語を重ねていくにつれて愉快な仲間たちが増えていくのだ。もちろん、仲間が増えていくことで、話はさらに面白く、おかしく、ややこしくなっていくわけだ。

登場するのがユニークな人物ばかりで面白かったことには面白かったのだが、個人的な感想を綴るとやや否定的なものになってしまう。しかし、そういうことを気にしていては感想が描けそうにないので、今回は思ったことをそのまま書きつけてみようと思う。

とはいえ、僕がこの小説を否定的に見るのには、僕にも原因があると言える。それは、星という人物の存在に端を発しているところが少なくない。ヤクザとかチンピラとかと普通の人間が仲良くしている物語が、どうもしっくりこないのである。不良も含めて。同じような理由で、僕は石田衣良氏の『池袋ウエストゲートパーク』があまり好きではない。

しかも、本作では星と多田は最初反目し合っていたはずなのに、いつの間にか仲良くなってしまっている。ここは明らかに不合理なんじゃないかなあと僕は思う。

そう、この小説は不合理と意味不明で埋め尽くされている。行天が多田のところに来たのも意味不明だし、多田が行天を連れて帰ったのも意味不明。その後も、二人やその仲間たちは意味不明で不合理な行動ばかりをとるので、読者は常にハテナを抱えながら読み進めていくことになる。

僕は伊坂幸太郎氏が好きなので彼の話になるが、彼はとても不合理を合理的に描くことのできる人物だと思っている。『砂漠』に出てくる不思議な一見不合理な気がするが、その不合理をキチンと説明しようとする。それに賛成できるかどうかは別として、一応納得できるようにはしてあるのだ。

伊坂作品におけるこの合理化は、ある程度合理的な人物である主人公の人物の存在が大きいように思う。合理的という言葉がまずければ、「プレーン」という風に言っておこう。一方、『まほろ駅前多田便利軒』と方では、多田も行天も不合理で意味不明、つまりは「変人」であるから、話がややこしくなり、合理的な精神を持った読者は説明を得られないまま、置いてけぼりを喰らうことになる。

こう書くと、僕が合理的な人間であり、普通の人間はみな合理的であるかのような印象を受けるかもしれませんが、僕もそうは思いません。ただ、人間が不合理な行動を取る場合、その裏には理由は大きかれ小さかれ、ある合理的な理由が含まれていると思うのです。本人の中では、合理的不合理なのです。その合理的不合理が描き出されず、不合理だけが残されていることに僕は気持ち悪さを感じていました。

などと色々言いましたが、ストーリーとしては面白く、さすがだなと舌を巻いた次第です。恋愛や結婚、性に対する倫理的な問いも含まれており、この辺は僕の大好物なので考えるところがあって面白かったです。ただ、倫理的な問いに煩悶するときだけさっきまで不合理的だった人物が合理的になってしまう感があったので、問いがぶれてしまって残念だったなあという風に思います。

続編があるということで、そちらも読んでみようと思います。それから、『船を編む』も……。


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スティーブンソン『ジーキル博士とハイド氏』(田中西次郎訳)を読んで

ジーキル博士とハイド氏 (新潮文庫)



スティーブンソン『ジーキル博士とハイド氏』は原題では"The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde"となっており、直訳すると邦題は『ジキル博士とハイド氏の奇妙な物語』となっている。
外国の作品(映画なんかも含めて)のタイトルが邦訳されるときに変わってしまうのはよくある現象ですが、この作品のタイトル変更には一体どういう意図があるのでしょうか? 少し気になるところですね。

さて、この『ジーキル博士とハイド氏』読んだことはなくとも、あらすじと悲惨な結末を知っている方は多いのではないでしょうか? 実は僕も小学生のときに既に本の存在は知っていて、その後、この話の結末を知ることになりました。と言って、今回が初読だったんですけどね。

薄い本だったのですが、読むのに結構骨が折れました。やはり、僕は翻訳作品を読むのは苦手なようです。しかし、今回は訳がうまかったのかストーリーが面白かったのか、骨が折れたとはいっても楽しんで読むことができました。

悪の人格であるハイド氏と、善悪混合の人格であるジーキル氏の物語。ハイド氏が悪であるのに対して、ジーキル氏が混合人格であるというのが面白いところですよね。完全なる善人はいないのだという思想がここにあるような気がしてなりません。性善説か性悪説かでいえば、性悪説の方かもしれませんね。純粋な悪は抽出しうるが、純粋な善を抽出することはできない。まあ、他の人が薬を飲んでいれば、もしかしたら純粋な善を抽出することができたのかもしれませんが。


話の内容の面白さも去ることながら、このお話は構成面も面白い。既に指摘されているようですが、死せる人の意図を知るために長い手紙が導入されているというのは、漱石の『こころ』と連関するところがあります。そういえば漱石は『行人』の中でも手紙を有効に使っております。

いわゆる「心理小説」とでも呼ばれるものは「手紙」というものが大きなキーワードになりうるのかもしれません。
はてさて、手紙の効力とは何か。まず、既に死んでしまった人物に物語をさせることができる。さらに、三人称小説も手紙形式の中では、それを読み上げていく上で一人称小説になる。別の角度から見てみれば、他にも効果があるかもしれません。


善とは何か、悪とは何か。そういうことについて考えさせる内容になっています。
まだ読んだことのない方は、この機会に是非!


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尾崎翠『第七官界彷徨』を読んで

第七官界彷徨 (河出文庫)



読書会の課題であった。毎度と違うのは、この本を僕が選書したということ。前回の選書『浮雲』からもう四か月も経つというのだから、時の流れは本当に早い。

今回の作品は『浮雲』なんかよりも数段読みやすかった。時代が下がるにつれて、やはり日本語の感覚が私達と近くなってくるのであろうか? 同じ時代の作品であっても読みやすいものと読みにくいものがあるので、なかなか判断できないところである。


さて、まずは僕がこの本を課題図書として選んだ理由を少し書いておこうと思う。
僕はアーバンギャルドというバンドが好きで、この前も新アルバム「鬱くしい国」を買った(初回限定盤で!)。滅多にCDを買わない僕が買うのだから、そのくらいには愛着のあるバンドだ。

そのアーバンギャルドの楽曲「都会のアリス」に次のような一節がある。
「丸の内じゃ悪魔になれなくて メトロでカクテル・キスしたの 電車はまっすぐ地獄行きなの 第七官界彷徨って」
アーバンギャルドは文学や哲学、様々な領域からの引用を得意としていて、この「第七官界彷徨って」というのも『第七官界彷徨』を意識している。

この『第七官界彷徨』という作品、大声でメジャーだという作品ではないのだけれど、いかにもアーバンギャルドの松永天馬さんが好きそうな作品だ。
僕は、この作品を始めて読んだときに太宰の匂いを感じ取った。天馬さんは太宰が好きだ。「ワンピース心中」という曲には「玉川上水 さらばふたりグッド・バイ 未遂に終わって あなたひとりDogDie」という歌詞の一節がある。

どこが太宰に似ているのかというと、恐らく感情表出の手法だろう。太宰の作品(例えば、『人間失格』『女生徒』『斜陽』)の主人公たちは激情を知らない。怒っているときも、悲しんでいるときもある。しかし、その感情は極めて温度が低い。低い温度で、じわじわと僕らの心を侵食する。

『第七官界彷徨』の主人公町子はとてもよく泣く。しかし、その涙に熱さを感じることができない。僕には、作者が意図的に熱っぽさを排除しているようにしか思えない。物語は静かに進行していく。登場人物たちは現在の状況に強く抗うことはなく、静かに頽廃的に時の流れに身を任す。

とにかく、太宰が好きだよっていう人はこちらも読んでみると気に入るんじゃないかと思う。ので、よかったら手に取ってみてくださいね!

第七官界彷徨 (河出文庫)
尾崎 翠
河出書房新社
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幸田露伴『五重塔』を読んだ

五重塔 (岩波文庫)


今までどうしてこの本を読んでいなかったのか、僕は非常に後悔している。
読書会の課題図書であったため、僕はこの図書を選定してくれた人に感謝をせねばなるまい。

葛藤。僕は小説の中で、葛藤のある小説が好きだ。そういう小説は僕に考える余地を与えてくれる。もちろん、それらの作品の全てを名作と呼ぶわけではないが、少なくとも想像の余地を与えてくれるから好きなのだ。

そういう意味では、僕の好きな『人間失格』は葛藤の少ない小説である風に思う。主人公は、葛藤することを拒絶している。ううん、好き嫌いを判断するのは難しいことです。


さて、『五重塔』に話を戻したいと思います。
「エゴイズム」というキーワードで以てこの小説が語られることが多いようですが、僕の知っているエゴイズムとは違う世界がそこには広がっていました。

それは、おそらく「人情」というものが織り交ざっているから、この話がより複雑になっているのだと思います。源汰も十兵衛も五重塔を作りたいという気持ちはある。「エゴイズム」というものがキーワードであれば、お互いが譲ることなく話が進んでいくことでしょう。

しかし、最初の方で源汰は十兵衛に五重塔建立を譲ろうとする。ただし、自分も建立に参加するという条件で。しかし、十兵衛はこれをはねつけてしまう。多くの読者はこれに共感できないことだと思います。この時点で、十兵衛という魅力的な登場人物ができあがる。

僕は十兵衛に共感することはできないけれど、十兵衛の気持ちがわかるような気がする。共感できないのに分かるというのは、作者の力によるところが大きいように思います。

また、僕は幸田露伴にある種、実篤文学と似たような匂いを感じました。
と言っても、それは「特異なエゴイズム」という括りでしか言い表せないものなのですが。


とにかく、面白い作品でした。
まだ読んでいない方は、是非。



五重塔 (岩波文庫)
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岩波書店
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澁澤龍彦編『変身のロマン』を読んだ。

変身のロマン (学研M文庫)



『変身のロマン』というアンソロジーを読んだ。思えば、違う作家の作品がたくさん詰め込まれたアンソロジーなるものを読むのはほとんどはじめてのことかもしれない。

本棚には『源氏物語 九つの変奏』とうアンソロジーが入ってはいるのだが、なかなか手を出すことができない。そういえば、これは僕の好きな江國香織と金原ひとみの著作が入っていたから買ったのだと思いだす。


さて、この『変身のロマン』は文字通り「変身」、もっと正確に言うならば「メタモルフォーシス」に焦点を当てて編まれたものである。まず、ざっと全編の簡単な感想を書いてみようと思う。


上田秋成「夢応の鯉魚」

彼の最も有名な著作『雨月物語』からの一篇。ザ・日本の説話とう感じが僕はしたのだが、他の人が読んでみるとどのような感想を持つだろうか? このような説話性というか説教臭さが日本大衆小説の根幹にあったような気がするのだけど、最近はこういうものもなくなってしまったように思う。現実から乖離したある種の不思議さを感じた。

泉鏡花「高野聖」

このアンソロジーの中で最も長い作品であった。また、著作から余程年月が経っていることもあり、かなり読みにくいという印象を受けた。小説の語り口が独特で、それも読みにくさの一因なのかもしれない。最初から最後まで何が書いてあるのかよくわからなくて退屈をしていたのだけれど、一番詩顎だけは、本当に面白かったです。二回くらい読むと、良さがわかるかも。僕には、これをもう一度読む元気はないけど。

中島敦「山月記」

僕が通っていた高校の教科書には、この「山月記」が載っていて、僕も国語の授業でこれを勉強した覚えがある。当時は特に何も感じなかったものの、今の状況で読んでみると、色々と感じるものがありますね。時間の経過というのは残酷なものです。戻ろうと思っても、絶対に戻れない。陳腐だと分かっていても、自分より若い者に「今を大切にしろよ」というメッセージを与えずにはいられないのが僕ら人間なのかもしれない。

太宰治「魚腹記」

僕はいわゆる「いやらしい」太宰が好きなので、この話はあまり好きになれなかった。とはいえ、「竹青」や「清貧譚」と同じように古典作品を換骨奪胎した作品も太宰の特徴ではあるので、無視はできない。僕には変身の理由がよくわからなかった。何か相当なことがないと、変身せざる理由がないと変身をしてはいけないのではないかと僕は思うのだが、この作品の変身にはそれが感じられない。

安倍公房「デンドロカカリヤ」

恥ずかしながら、安倍公房の作品を始めた読んだ。なるほど、賞賛する人が多いのもわかる、といった感じ。エログロナンセンスの系譜にこの作品はあるのだろうと感じた。とはいえ、少し調べた限りでは安倍公房は他の作家をほとんど認めていなかったらしく、何かの系譜の中に彼を位置づけるのは少々失礼なことなのかもしれないが。顔が裏返る、という表現が面白かった。さてさて、ここから何を読み取るのか。

中井英夫「牧神の春」

三大奇書の一つ、「虚無への供物」作者である中井英夫氏の作品。突然始まった変身に対して、僕らはどのように対応するのだろうか。少なくとも、正気でいることはできないであろう。この作品は、その疑問に対する一つの答えを提示しているように思われる。もちろん、答えは無限にあるのだろけど、どこかこれは説得力を持った答えである。

蒲松齢「牡丹と耐冬」

中国文学についてはあまり詳しくないが、なんとなく持っている中国文学のイメージと合致するものだった。『金瓶梅』と同じ匂いがするといえば良いのだろうか、どこか艶っぽい作品となっている。面白いと思ったのは男の女たちに対する対応である。これを現代社会に持ち込んだならば、男は「ありえなーい」と批判されることだろう。そういう男が普通に存在している社会を見て、僕は色々と感じるところがあった。


<h4>オウィディウス「美少年ナルキッスとエコ」ナルシズムという言葉の語源がこのナルキッスの物語にあるということを知っている人は多いと思うが、実際に作品を読んだことがある方はそう多くはないのではないだろうか。恋をするということがいかなるものかについて考えさせる。なるほど、自分を自分と認識していなければ、好きになってしまうこともあるだろう。そういえば、ここには同性愛的な考え方もあるのだろうか。

ジャック・カゾット「悪魔の恋」

やたらと短い話だった。一読しただけでは何のことやらわからず、現在もやもやしているところである。約束を破るとどのような罰があるのか、罰はないのか。

ギョーム・アポリネール「オノレ・シュブラックの失踪」

発想が面白く、SF的だと思った(星新一的だ! と思ったのだが、各方面に失礼な気がするのでSF的と言い表した)。奇怪で入り組んだ話が多いのか、この小説の分かりやすさはありがたい。

ジョン・コリア―「みどりの想い」

そろそろ各作品についてのコメントを書くのがめんどくさくなってきたが、頑張って書いている。
蠅の花も伏線なのだと気づいたとき、僕は感動したのだが、勘の言い人は最初の方で気づくのであろうか。自分が植物に変身してしまったときに、どう考えるだろう、ということを想像して読んだ。もっと絶望が広がるような気がしていたのだが、読んでいる限りでは、割とあっさり受け入れているのが面白かった。

フランツ・カフカ「断食芸人」

そこは「変身」を持ってくるべきだろうと思ったのだけど、紙幅の関係もあってこちらにしたようだ。いやはや、面白かった。僕は人間のエゴが見える作品が好きなので。断食芸人を殺したのは、世間の「かわいそう」という風潮である。近年のバラエティが芸人を殺しているのに似ているかもしれない。倫理的観念が正しいとは限らないのだ、いつの時代も。

アンデルセン「野の白鳥

童話というものを久しく読んでいなかったのだが、アンデルセンって滅茶苦茶面白いじゃないですか。ちゃんと筋があるし、一応感動する。まあ、この感動があまり好きじゃない人もいると思いますが、綺麗に収まっているのは好感が持てますよ。
一番最後の服だけ編めなかったのには、何か意味があったのだろうか。ただ、時間がなかったことを表したかっただけなのだろうか。

花田清輝「変身譚」

メタモルフォーシスに関しての考察が記述してある、半分冗談みたいな評論。いや、でも面白い。衒学趣味的なところがあるような気がしなくもないけれど、全てを理解していないので何ともいえない。もしかしたら、凄いのかもしれない。



ざっと、全部の感想はこんな感じである。
本来ならばここでメタモルフォーシスの効果について僕の意見でも述べておきたいところなのだが、僕は別にこの現象に惹かれるものがなかった。お手軽に奇異を起こすことができるから、装置の一つとして機能しているんじゃないか、というくらい。カフカの「変身」なんてまさにそうで、カフカの作品であれが最も読まれているのは、単純にその奇異性に惹かれてのものではないかと思っている。

まあ、でもこれから何かを読むときに「変身」という一つの見方が加わったのは大変嬉しいことである。
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カエサルの『ガリア戦記』を読んだ。なんか、ハエドゥイー族だけ覚えている。

ガリア戦記 (岩波文庫)



『ガリア戦記』はカエサルの書いたガリア遠征の記録である。よっぽどの世界史好きかよっぽどの活字中毒者ならまだしも、普通レベルの読書好きにはおすすめしない。僕も普通レベルの読書好きという類の者なので、徹頭徹尾そばに退屈を伴って読み進めた。読書会の課題図書でなければ、20ページ程読み進めたところで諦めていたかもしれない。そう考えると、普通は読まないような本を読ませるように仕向けてくれるので、読書会というのは本当にありがたいものだ。

で、まあ300ページほどあるこの文庫本を読んだわけだけれども、まあ長いながい。何を言っているのか分かって長いのは良いけれど、よく分からないことがつらつらと書いてあるからいけない。いや、話の筋は恐らく分かりやすいのだ。ただ、固有名詞がこれでもかと言うほど出てくるので、情報過多で頭がパンクしそうになる。

地図が文庫本の頭に付されていたのでこれを一々参照していればもっと頭に情報を入れながら読み進めることに成功できたのかもしれないが、三分の一程読み進めた段階で気づいたので、もう面倒臭くって参照するのを諦めてしまった。ただ、この地図のおかげで、ガリア人とゲルマーニー人が住んでいる場所の位置関係はある程度把握できたように思う。まあ、この知識が果たしてどこで生きてくるのかは分からないが……まあ、今後もしも世界史を学ぶことがあったら、参考にすることにしよう。

ところで僕は『三国志』も『水滸伝』も読んだことがないのだけれど、ああいうものもこれと同じようなことが書いてあるのだろうか? あるいは、日本の軍記物も。あれはもう訳してくれなければ読めたものではないので、なおさら読んでいない。
もし同じようなものなのだとすれば、それはちょっと興味がある。物語の中身をおもしろいと思うことはできなかったけれど、比較してどこが同じか、あるいはどこが同じかを論じることには興味が少なからずある。

まあ、当時の人は楽しかったんでしょうね。例えば日本が戦争をおっぱじめて、現地の大将が逐一ブログに戦闘状況をアップしていたら、そりゃあ読むと思うんですよね。僕だけじゃなくて、日本中の色々な人がね。もちろん、当時とは戦争に対する考え方が違うので、なんか色々な問題が生まれて論争も生まれそうな気がするけれど。でも、当時もカエサルの行動に対して批評はあったはずで、そう考えると、「ブログに戦闘状況をアップ」というのとさして変わらない状況だったのかもしれない。

さて、当時の人が読んで楽しかったのはどうでも良いんだ。それは横へ置いておくとする。僕はこれ以降このことを思い出すことはしない。当時はともかく、現代、そして日本に住む僕たちがこの作品をどう楽しめというのか。七年間もの記録を、二千年超えた異国の地の僕らが、どういう風に享受すればいいのか。

教訓はある程度得られるように思う。カエサルはいつでも最終的には戦争に勝ってしまうので、集団のマネジメントをどうすれば良いかというヒントをここから得ることができるかもしれない。そのためには、際限なく出てくる、あまり区別のつかないような部族の名前と付き合っていかなければならないのだけれど。いや、その苦痛に比すれば、得られるものはあまり大きくないように思う。

古代ヨーロッパ史を勉強するような人は、必読の書なのだろう。これを繰り返し読めば、この時代にどのような部族がいたのかをある程度把握することができるのではないだろうか。機械的に羅列されたものを覚えるよりも良いだろう。物語があった方が、まだ覚えやすい。もちろん、これは世界史に大きな情熱を持って対峙できるものに限られるのだろうけれど。そうでなければ、到底耐えることができない。


つまるところ、強い意志がなければ、『ガリア戦記』なんて読まなくても良いと思う。僕は、別にこれが良い作品だとは思わないから。ただ、世界史を勉強したいなあなんて思う人は、有名な著作であるから、一度は通読しておいて損はしないことだろうと思う。


追記:
ところで、僕はどうしてだか「ハエドゥイー族」という固有名詞だけを忘れることができずにいる。どのような部族だったのかはすっかり忘れてしまったのだけれど。ただ、繰り返し出てきたから覚えているのかもしれない。


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トオマス・マン『トニオ・クレエゲル』を読んだ。

トニオ・クレエゲル (岩波文庫)


トオマス・マン『トニオ・クレエゲル』を読んだ。さて、ところで僕はこのトオマス・マンという者の伝記的事実を知らない。もちろん、僕だって彼の名前くらいは聞いたことがある。馬鹿にしちゃいけない。しかし、そういえば彼がどこの国で生まれた人なのかも良く知らないし、どうして偉い人なのかも知らない。

調べてみると、ドイツ人。『ヴェニスに死す』を書いた人だと言われれば、ああそうかそうか位は言うことができる。しかし、ドイツの小説が皆こんな感じなのかと考えると、僕はもうこれ以上ドイツの小説を読むことができないかもしれない。そこそこに面白かった。面白かったけれど、もう一作同じ作家の作品を喜んで読むかと訊かれれば、「教養の為に」と応えるしかない。

そもそも、僕は同性愛というものが理解できないからいけない。いや、同性愛者を非難するわけではない。同性愛者が異性愛者の感覚を共有することができないように、僕も同性愛者の気持ちを共有することはできない。だから、トニオがハンスに恋をするという気持ちが、どうしても分からない。これに共感することができたら、この小説をもう少し面白く享受することができたのかもしれない。

それから、女画家と話をするシーンがあるけれど、そこで言っていることの意味が半分くらいしか分からない。もちろん、これは僕の読解能力が低いことも要因の一つであるとは思う。二、三回読んで初めて了解することのできた部分だって多々あるのだから。
ただ、もう少し分解することができたろうにとは思う。僕も自分で作品を書くときは大概セリフが長くなる方だが、ここまで長くはならない。そもそも、こんなに複雑なことを人はこんなに纏まって話すことはできない。できないし、文章にするならもう少し詳しく書くべきだと思う。羅列しているだけなのか、纏まって書いているのか、どっちつかずの状況であると言えないだろうか。

まあ、訳が少し古いというのも読みにくさを助けることになっているのかもしれない。名作は十年に一度くらい誰かが翻訳すると良いのではないかと思う。あるいは、換骨奪胎して現代人日本人にも分かりやすいように翻案・超訳するとか。源氏物語が漫画化されて久しい。そのくらいしても、別に構わないのではないかと思う(そういう試みを、自分でやってみようとも思う)。

ただ、最後は非常に良かった。自分の愛した者二人が、お互いを愛するようになってしまっている。この状況は、何とも言えず良かった。僕は生まれてこの方、異性愛者だけれど、この場面だけはトニオの心情を想像することができた。いや、トニオのこの心情というものは、ほとんどの者が想像をするしかないだろう。そこには、想像の余地があった。作者の押しつけではなく、僕はその余地の中で考えることができた。ああ、もしも僕が同じような状況に立ったとき、果たしてどのような気持ちになり、どのように考え、どのように行動したかと。そういう余地を持つものが、小説として一級だと僕は信じている。

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夏目漱石『こころ』を再読して思うこと

皆さんこんにちは、あとーすです!
漱石の『こころ』を読む演習を履修しているので、久しぶりに再読してみました。

不思議と昔のような感慨を感じなくなってしまいました。以下、『こころ』を読んで感じたことを即興的に書いていこうと思います。


『彼岸過迄』、『こころ』、『行人』の漱石後期三部作のうち、『こころ』と『行人』のふた作品を僕は読んだことがあります。この二つの作品には、やはり共通点を感じます。
ひとつは、物語の主軸に恋愛の問題が据えられているということ。『こころ』のKが自殺した要因は恋愛によるものだけではなかったかもしれませんが、それが最も大きな要因であったことは自明のことでしょう。

『行人』もまた、主人公と嫂との関係に主軸が置かれている。結局、人間はこのテーマから逃げられないのかなあと思ってしまいます。

さらに、この二作品は形式の上でも似ているところがありますね。「手紙」という装置を使っているところです。この装置によって、自然な流れで人称を変えることに成功しています。よくよく考えたら、同一の小説で視点が変わるものというのは、純文学の系統ではあまり存在しないように思います。(もし他にもあれば、教えていただけると幸いです)

二葉亭四迷の代名詞ともいえる『浮雲』も、同じような問題を取り扱っているように思います。文体の上でも大きな違いがありますが、やはりこの人称を変更できるということが、『こころ』と『行人』に奥行きを与えているように思います。近代小説は基本的に自我との闘いを描写するものかと思っていましたが、この二作品はしっかりと主人公以外の他者を描写している。



『こころ』の話をするつもりが、『行人』の話も混じってきてしまい増した。少し『こころ』の内容にも触れておきたいと思います。

僕は基本的に、なんだか先生にあまり共感することができない。まあ、お金関係で親戚から騙されたこともなければ、恋愛沙汰で親友を自殺に追いやった経験もないからなのでしょうが。
しかも、この二つがどうも現代では既に陳腐なお話になってしまっていると思うのです。過去の作品に向かって現代の感覚で「陳腐だ!」というのもおかしな話なのですが、まあ、そう思ってしまうのは仕方がない。

ただまあ、そういうところが分かりやすいから高校国語の定番教材になっているのかもしれませんね。誰が読んでも、一応ある程度の反応は期待できる。
それでいくと、僕は梶井基次郎の『檸檬』が定番となっているのは少し謎なんですけどね。あれを読んで、どう反応すればよいのやら……。



ざっとこんな感じになるでしょうか。
久しぶりに記事の更新をしているので、少し感覚を忘れつつあります。もっと書いて、精進せねば。

坂口安吾『桜の森の満開の下』を読んだ。退屈の意味とは?

こんにちは、あとーすです。

今回は、とても不思議な小説『桜の森の満開の下』を読みました。
安吾は天才と言うよりも、「鬼才」と言った方がぴたりと来る作家だなあという感を強め、また違う作品を読むのが楽しみです。

桜の森の満開の下 (講談社文芸文庫)



これまで読んできた安吾の小説はと言えば、『青鬼の褌を洗う女』、『風博士』、『白痴』などです。これらの三作品はそれぞれに全く違っているし、『桜の森の満開の下』も全く違った作品となっている。これって、当たり前のことのようで難しと思うんです。

例えば、太宰の作品ってある程度分類することができると思っていて、『人間失格』と『桜桃』は同じライン上にあると思うんです。『ヴィヨンの妻』なんかも、主人公は女であるのですが、同じ匂いを感じることができる。

しかし、少なくとも僕の乏しい読書経験の上では、安吾の小説はそれぞれが違う匂いを放っている。『桜の森の満開の下』は非常に説話的な下がりとなっている。先日読んだ、ハーンの短編集『階段』を思い出しました。しかし、芥川の説話的物語とも違っているし、太宰の作品とも違う。どこか、艷やかさを持っているのが安吾のこの作品の特徴だと言えるのではないでしょうか?

残酷であるのに、幻想的。このような小説は、今までに読んだことがありません。しかし、この作品に果たしてどういう意味づけをするのかと問われると、私はほとんど何も言うことはできません。「実在」ということがテーマになっているという話をチラリと聞きましたが、いまいちピンと来ません。

確かに、女が桜の花びらになって消滅してしまうことには「実在」というテーマが絡んでくるのでしょうが、他のところにどのような意味があるのかと問われると、少し困ってしまう。「無限」に対する懐疑も、「実在」と関わってくるのでしょうか?

この辺の難しいことを考えるのは、またの機会に譲ることにしたいと思います。他の安吾作品も読んでからに。

ところで、今回僕が気になったのは、この作品の中で男が言う「退屈」という単語について。男は、人と喋っていると「退屈」であると言います。この「退屈」という言葉にどういう意味がこめられているのか。もちろん、普通の意味での「退屈」でないことは明らかです。

ここにも、「無限」が関わってくるように思います。彼は繰り返す殺生に飽きていて、都にもあきている。都は賑やかゆえに飽きている、というのはなんだか文学的でよくわかりませんが、少なくとも「無限」との関わりはありそうですね。


というのが、初めて読んでみて思ったことでした。
再読してみて、また違った角度から味わってみたい作品ですね。

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伊坂幸太郎『バイバイ、ブラックバード』 太宰の遺作『グッド・バイ』と、バイバイですか。

バイバイ、ブラックバード (双葉文庫)


太宰治の絶筆となった作品が『グッド・バイ』であることはよく知られています。これがいわゆるコメヂアンとしての太宰が最期に遺したエンターテインメントではないかと言われるのも、もう幾度となく聞いた話ですね。

伊坂幸太郎『バイバイ・ブラックバード』は、『グッド・バイ』に話の筋がよく似ている。というか、発想が全く同じなのでびっくりしました。複数の女性と交際している男が、その女性との別れ話をしに行く。しかも、面倒くさい女を一人伴って。

……と、一人発見した気になって試しにググってみたら、結構そのことを指摘してある記事が出てきてがっくり。というか、そもそも伊坂さんもそのつもりで書き始めたみたいな記述もあって更にげんなり。でも、やっぱり意識しているんだということが確認できたのは嬉しくもありました。

伊坂さんの書く作品は、完璧にエンタメ小説だということができるでしょう。勿論、最近の作品にはエンタメとは言えないものもいくつか出てきているような気はしますが、基本的にはミステリなどのエンタメ畑のです。

一方、太宰は純文学の作家ということができるでしょう。戦後、他の作家たちが戦争にまつわる物語を書く中で、彼は『人間失格』や『グッド・バイ」など、戦争の悲しみを描こうとはしない。戦争を小説の材料に使おうとはしない。あくまで、人間を描こうとしました。僕は、これこそ純文学作家の姿だと思うのです。社会的有用性とかではなく、一人の人間の弱さを描き出し、誰かを救う。純文学はそうあるべきだと思うのです。

そんな純文学の作品を、エンタメ作家の代名詞と言ってもいい伊坂さんが読んでいる。そして、それをオマージュしたような作品を書いている。純文学もエンタメ小説も好きな僕は、これほどワクワクすることは無いわけです。

そもそも、小説って面白くないと意味はないのだから、その点に関しては純文学だろうとエンタメだろうとあまり関係はないと思うのです。その中に、思想めいたものがあればなおよし。

太宰は、その文体のリズムと響きによって人々を魅了し、その思想めいたものでさらに人を魅了する作家であったように思います。伊坂さんは、精緻なストーリーで読者を惹きつける一方で、その独特な主人公が持つ哲学が僕らをうならせます。その辺、共通するところがあるよなあと思うんですね。

何が言いたいかって言うと、とにかく嬉しいわけです。僕は難解であるだけの小説なんかはほとんど読みたくないので、こういう分かりやすい作品たちが手を組むのはいいことだなあと思うのです。

…なんて、この記事を深夜に書いているためか、何を言っているのかわからなくなってきました。

とりあえず、これから『バイバイ、ブラックバード』を読む人、そして既に読んだという方は、併せて『グッド・バイ』も読むことをおすすめします。
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伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』 すぐに爆発するアメリカ映画は嫌いだけど、すぐ爆発する伊坂幸太郎は何故か許せる

ゴールデンスランバー (新潮文庫)



みなさんこんにちは、あとーすです!

皆さん、洋画って好きですか? 実を言うと、僕はあまり洋画が好きではありません。
何かというとすぐに爆発してしまうところにやや抵抗を感じてしまうんですよね。あと、ストーリー展開がわかりにくいというのも受け付けない原因の一つかもしれません。

邦画はどちらかといえばアクション系が少ないので、そちらの方が安心して見ることができるんですよね。そっちの方が、人間の心情なんかを見ることができて、好きです。

そんな僕が、伊坂幸太郎さんの『ゴールデンスランバー』を読みました。この作品が世に出たのは2008年のことで、今更読んだのかよーという感じです。前々から家にあって読もうとは思っていたのですが、タイミングがなくて、最近やっと読了しました。

この作品も、アクション的な部分が目立ちます。映画化されているようですが、きっと何度か爆発したり銃をぶっぱなしたりするのでしょう。
それでも、僕は伊坂幸太郎びいきなので、そんなこと気にせずに読んでしまいました。ミステリとして完成されているところも評価の高いところです。

伊坂ワールドが展開! と叫びたいところですが、世界観で言うと、僕の好きな伊坂さんとはちょっと違っているなあと感じました。もちろん、周到に用意されたミステリ的展開はいいのですが、今回は、人物設定が弱い。

僕は伊坂さんの作品のミステリ的作品も好きなのですが、同時に好きなのが、伊坂ワールドの登場人物達が持つ独特の哲学なんですよね。

『砂漠』だったり、『チルドレン』だったり、この作品以前の作品には、もっと濃いキャラクターたちが出てきていたと思うんです。社会に反抗するキャラクターです。そういうキャラクターたちの痛快さに、僕は元気をもらっていました。

しかし、『ゴールデンスランバー』では、なんだか皆物分りが良すぎる。勿論、森の声が聴こえるとか言ったり、ロックンロールがうんたらとか言ったり、そういう人は存在します。しかし、キャラクターが分散していて、これまでの作品ほどの痛快さがないのです。

ただ、もちろんエンタメ作品としての完成度は高いです。プロットを練る段階で相当苦労したのだろうなあということは容易に想像できます。思いもよらないものが伏線になる。あれって、どういう風に伏線を考えているのか気になるんですよね。何気なく書いたものを後から伏線にしているのか、それとも、後で「ここにコレ欲しいな」と思って、さかのぼって加えているのか。

僕は何かものを書くときに設計図を考えるということができないので、本当に羨ましいなあと思う限りです。
最近は設計図を考えて書く練習もしているんですが、この記事に関しては、思いつくままに書いております。


僕は伊坂ファンを自称しているのですが、まだまだ読んだことのない伊坂作品がたくさんあります。ひとまず、これまた家にずっと置いてある『売買、ブラックバード』を読むところから始めなければなりません。
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その人を決定づけるものは何か カフカの『変身』を読んだ

みなさんこんにちは、あとーすです!
実はぼく、文学を志ながらも恥ずかしいことにカフカの『変身』を読んだことがありませんでした。そこで、今回は青空文庫でカフカを見つけ出して、読んでみたというわけです。青空文庫はあまり外国人作家が充実していないのですが(翻訳者の著作権の関係でしょう)、カフカは豊富にあったので、他の作品も読んでみようかなと思っています。


さて、『変身』について。
この作品の冒頭はあまりにも有名です。僕も、『変身』が毒虫になってしまった青年の話だということは噂で知っていました。ただ、それだけではその奇異さが話題として消費されるばかりで、その文学の奥深さというものはさっぱりわかりません。

それで僕は読んでみたのですが、なるほどしかし、この作品はその設定の奇異さで読者を作品から離れさせないことに成功しているような感があります。それゆえに、この作品がカフカの代表作と言われるのでしょう。
しかし、それ以上にこの作品には意味がある、ということも感じられます。

僕がこの作品を読んで思ったことは、「その人を決定づけるものは何か」ということです。
僕たちは、ある人を判別するときに何を規準とするのでしょうか。例えば、相手の顔を見て判別したり、声を聞いて判別したり、匂いを嗅いで判別したり。つまり、私たちは五感で以て、相手が誰であるかを判別します。五感で感じ取れる記号を、自分の記憶の中にある記号と照合し、それが一致した場合に、その人がその人であると特定することができるわけです。

それでは、その人自身が、自分を自分だと認める材料はなんでしょうか? もちろん、五感で感じ取ることも大事ではありますが、その人自身のみが唯一判断材料とできるのは、自我あるいは自己の経験の記憶でありましょう。世界五分前説なんかと関連してくるかもしれませんが、結局、自己が自己であると決定する要因は、自己の経験の記憶しかない。

そして、この『変身』では、その「五感」と「自己の経験の記憶」に違いが出てくる。五感で感じるものは、自分ではない毒虫である。一方、自己の経験の記憶によれば、自分は自分であるということが確かである。グレーデル青年にとっては、この大きな矛盾こそが、悩みの種となるわけです。


ところで、グレーデル青年自身は自己の経験の記憶によって、己が己だと信じることができますが、家族にとっては毒虫をグレーデルと信じる材料が乏しいように思います。だって、それがグレーデルだと信じる材料は、ただ、毒虫がグレーデルの部屋にいたということでしかないのですから。

この点は、物語にも大きな影響を与えているような気がします。結末まで読めばわかりますが、家族は、結局毒虫がグレーデルであることを否定してしまう。他人にとって、やはりその人をその人と決定づける要因は、外見ないし五感で感じ取れるものに限るということなのでしょうか。


とまあ、初発の感想はざっとこんな感じです。
この作品に関しては、きっと様々な論評があると思いますので、それを読んでみたいなあと思います。

日本怪談文学の逆輸入 ラフカディオ・ハーン『怪談』を読んだ

みなさんこんにちは、あとーすです!

今回はラフカディオ・ハーンの『怪談』を読みました。
ハーンは僕の住んでいる熊本とも非常に縁の深い人物であります。その昔、熊本大学の前身である第五高等学校の講師として教鞭をとっていたんだとか。

さて、そんなハーンは、日本の怪談文学を語る上では欠かせない存在ということができるでしょう。この著『怪談』は日本の古典文学に題材を求めた翻案小説だということができます。その話の長短は様々で、僕から見れば、完成度も様々といった感じです。

昔聞いた事もある話も多く含まれていました。例えば、最初の方に出てくる「耳なし芳一のはなし」だったり、「おしどり」だったり。僕は、これをハーンの怪談として聞いた事があるのか、はたまた原話として聞いた事があったのか…。


さて、僕がこの短編集の中で一番気に入った話は「安芸之助の夢」でした。
中国の古典、邯鄲の夢を彷彿とさせる内容でした。邯鄲の夢は、他の呼び方として胡蝶の夢という言い方もします。「安芸之助の夢」で出てくるのは蟻ですが、ハーンはこの『怪談』の後半部で蝶と蟻についての考察を虫の研究編として記しており、なにやら関連が感じられます。少なくとも、ハーンが蟻に何か人間以上のものを感じとっていたからこの話が書けたのだということはわかりました。ただ、これは日本語でいう「怪談」とはやや離れた内容だったかなとも思います。もちろん、「怪談」の定義が広いか狭いかによるところなのでしょうが。まあ、一目見てわかるように分類するならば、「奇談」の方がしっくりくるような気もします。

「怪談」とはっきり分類することのできるものは、日本人に馴染みの深い(?)ろくろ首やのっぺらぼうの話がありました。


と、つらつらと感想を書き連ねると、ざっとこんな感じでしょうか。
また詳しい考察をしてみたいと思うのですが、そのためにはまず翻案のもとになった原話を読まなければならないなあと思います。

ところで、ハーンの著作を日本語訳で読むというのは何か奇妙な感じがします。
だって、もともと日本語で書かれたものをハーンが英訳し、それをまた邦訳して僕たちが読んでいるのですから。

もちろん、ハーンの書いた作品は単なる翻訳ではなく、換骨奪胎した翻案ということができるでしょう。しかし、それにしてもここには奇妙な逆輸入的現象が起こっているということができるでしょう。

はてさて、ハーンの文学は日本文学と位置づけるべきなのか、それとも英米文学と位置づけるべきか。まあ、どちらにも属するというのが適切なのでしょうかね。

カフカの『城』を読んだけれど、現段階では僕にはよくわからず。

城 (新潮文庫)


みなさんこんにちは、あとーすです!
今回は、フランツ・カフカ作の『城』を読みました。

そういえば、ドイツ語圏の文学作品はほとんどはじめて読むかもしれません。ゲーテの詩集を少しだけ読んだことはあるのですが、暇つぶし程度に読んだだけなので、内容もあまり覚えておりません。

日本文学をやっていると、あまりドイツというキーワードに出会わないような気がします。しかし、漱石はニーチェに多大な影響を受けたという話も聞きます。うーむ、僕もこれを機にドイツ文学をやってみるかなあ…。


さて、僕がどうして代表作での『変身』ではなくてこの『城』から読み始めたのかというと、先輩方やその他有志でやっている読書会の課題図書であったためです。

課題図書じゃなかったら、恐らく最初の数ページで挫折していたことでしょう。そもそも僕は翻訳ものが苦手ですし、内容もなんのことやらよくわからないし…その思いは、600ページの大長編を読了した今でも続いています。

一言で言うならば、僕には『城』はわかりませんでした。何を一体どうしたいのかが
、さっぱりわからなかったのです。この手の小説は、別に娯楽小説ではないのですから、面白い必要はありません。しかし、何か言いたいことだとか、何か信念を感じなければ、その作品に僕は価値を見出すことはできないのです。

もちろん、他の人にとっては価値のある作品なのかもしれません。しかし、少なくとも現段階では僕にとってあまり価値のある作品だと言うことはできません。

しかし、僕はこれが悔しい。というのも、わからないのは僕に原因があるかもしれないとも思うからです(同じことを、読書会のメンバーの一人も言っていました)。
となると、僕はこの作品に隠れている何かを見つけだして、何かを了解し、この作品を征服してやらなければなるまいと思うのです。

「職業」ということがキーワードになっているようですが、僕にはそのこともよくわかりません。確かに、主人公は「測量士」という職業でしか表されていないようにも思われます。しかし、そこまで洗練されていて抽象化されているわけではない、かといって具体的であるわけでもないので、そのことが余計にわかりづらいのだと思います。


どれだけ言葉を並べ立てても、やはりわからないものはわからないと言うしかないようです。関連する書籍を読んで、何かわかったことがあれば、また続きを記したいと思います。

城 (新潮文庫)
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二葉亭四迷『浮雲』を読んだ

みなさんこんにちは、あとーすです!
今回は参加している読書会の課題図書である『浮雲』を読んだので、その感想というか備忘録というか、そんな感じです。

主人公は議論が別れるところであるようですが、初読の人であれば、十中八九、文三が主人公だと信じて疑わないことでしょう。僕も、彼が主人公だということで話を進めていこうと思います。

主人公に感情移入してしまい、同情してしまうのが僕の常なのですが、同情する一方で、文三はとても自己中心的な性格だという風に感じました。
文三は、自分の高尚な思想にそぐわないからといって、一度は愛したお勢のことを見限ってしまう。ところが、またもやもやしているうちに心がお勢に戻っていく。
あやふやな態度をとるお勢もお勢なのですが、僕が男なので、男の立場で言えば、ちょっと文三のやっていることは真似したくないなあと思いました。

と言っても、人間ですから、恋愛においてこういう失敗をしでかすのもよくわかります。教訓、ですかね。僕は文三のようにはなりたくない。

しかし、失業というのはいつの時代でも大きなもののようですね。
そりゃあ食い扶持がなくなるのですから一大事なのは当然で。でも、昔はもっと鷹揚に構えていられたのかもしれないというイメージを持っていたので、ちょっと意外。
やはり、理想はあっても金のない男とは結婚することはできない。また、娘と結婚させることもできない。肚の中では、いつでもそんな思想があるのでしょう。

ところで、この小説は恋愛小説であるとしたいのは僕だけでしょうか。文三の悩みは、ほぼお勢に関する苦悩であります。
というのは、僕が殊に恋愛ごとへの興味が強いからそう感じるだけかもしれません。例えば、国許の母や叔母との関係、また、昇への怒りというのも十分テーマとすることができますからね。
しかし、やはりお勢に関する懊悩が多いような気がしました。これは、数量的な分析をしてみたいところ。どの悩みに、どの程度の紙幅を割いているのか。


とりとめもない文章となりましたが、『浮雲』初発の感想は以上のようなものになります。
しかし、文章構造が現代とかけ離れていると読むのにも一苦労ですね…。いくら言文一致とはいえ、文語臭さがかなりありました。