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太宰小説における理不尽な<敵>について

太宰について、何かやろうと思っている。
僕はどちらかといえば太宰が好きだけれど、決して太宰の熱心な読者であるわけではない。『人間失格』だけは三回読んだ。それだと、いわゆる「青春のはしか」にかかっただけみたいで悔しいので(というか、何かやるためにはどうせ読まなければならないので)、太宰作品を色々と読んでみることにした。

ただ読むだけでは全く頭に残らないので、何か指標になるものは無いかと図書館をぶらぶらしていたら、斉藤理生先生の『太宰治小説の<笑い>』という本を見つけた。パラパラとめくっていくと、主に短編の作品論を展開しているようだ。それらを全て<笑い>というキーワードで捉えていて、中々おもしろそうだ。というわけで、読んでみることにしたのだった。

しかし、恥ずかしながらそこで扱われている作品のほとんどを私は読んだことがなかった。そこで、新たな論考に入る前に青空文庫とにらめっこをして、ほほお、これは凄いななんて関心をしながら、新たな太宰作品を読んでいった。僕はやはり後期の太宰イメージが強かったので、新鮮な印象を受ける作品も多かった。斉藤先生の論考の中身も去ることながら、僕にとっては、多数の太宰作品に触れるきっかけを作ってくれたことがこの本の一番の効果かもしれない。


さて、大変失礼なことだとは思うけれど、斉藤先生がこの本の中で頻繁に指摘する点をここでいくつか取りまとめておきたい。

まず一つ目は、「自分を相対化(対象化)しないことに対する笑い」である。この本の中では「対象化」とか「相対化」という言葉が出てきて、僕は大体おなじような意味で捉えているんだけれど、それで大丈夫だろうか。ヤバいんじゃないかという指摘があったら、教えてください。

この指摘はかなり根本的だと思う。というのも、『人間失格』なんかは太宰の心情がそのまま表れているように読まれることが多く、太宰はナルシストなんじゃないかという誤解を多くの読者に与えかねないからだ(僕もそういう印象を持っていたんじゃないかなあ、と当ブログに掲載した過去の記事(太宰治のナルシズムは文学だからこそ許されたのではないかを思い出しながら考える)。

斉藤先生が強調しているのは、多分そういうのと全く違った太宰像だ。太宰は徹底的に猪突猛進型の思い込みの激しい人物を描くことによって、その滑稽さを際立たせている。だから、僕らは太宰を読むときに、その登場人物たちに感情移入しきってはいけないと言えるのかもしれない。まあ、そういう読みを排除するわけではないと思うけれど、斉藤先生の論では「距離を置く」とかいう言葉も頻発していた。基本的に、物語上の盲信は笑いを誘うものとして考えられている。


二つ目は……この辺でブログのタイトルと中身が全然一致してないじゃないかという人がいるかもしれない。だから説明しておくけれど、最後の方までそのことについては書かない。それに、あんまり書かないんじゃないかとも思う。まあ、『太宰治小説の<笑い>の感想としてこの記事は読んでもらえれば良いんじゃないかな。

さて、気を取り直して。二つ目は「繰り返し肯定する=言い聞かせることがむしろ否定の効果を生み出している」ということだ。

何度か指摘されることだけれど、太宰の小説には繰り返しが多い。確か、「男女同権」なんかがそうだ。あの男は、嫌味っぽく言うことである言説を嘘っぽくさせている。何かのCMで、人間は大事なことは一回しか言わないというのがあった気がするけれど、大体そんなところだろう。「飲まないから、今日はお酒なんてぜーーーーーったい飲まないから!」なんて言うやつは、大抵飲んでしまう。フラグが立っているのだ。繰り返し語られることは、もしかしたら嘘かもしれないと思ってよい。

この手法が多く使われているんだと、斉藤先生は指摘しているわけですね。僕はそういう視点を持っていなかったけれど、なるほど、確かにそう思って読んでみると登場人物の滑稽さの理由が分かるような気がしてくる。


三つ目は、「個別の事象を安易に一般化すること」だ。これも「男女同権」の話になるんだけど(このお話は面白い)、主人公の男は、自分が個別的に受けてきた女からのひどい仕打ちを、全て女一般の話に広げてしまう。まあ、それだけ女に虐げられてきたならば女一般がひどいものだと思うのも当然だよなあと思うけど。そうは思うけれど、斉藤先生のこのような指摘は別の作品でもなされていて、かなり面白い指摘だなあと思う。



かいつまんで書くと、大体こんな感じだろか。興味を持った方は読んでみると良いかもしれない。面白さは保障する。割と新しめの本なので、大学図書館などには入っているのだろうか?
調べてみると、まあそこそこ入っているみたい→http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB12638290#anc-library



で、まあブログのタイトルにもしてしまったので、太宰作品における<敵>について思ったことを、書きながらまとめていきたいと思う。

『太宰治小説の<笑い>』で扱われている作品の中で僕が<敵>を認めたのは、「畜犬談」「浦島さん」「グッド・バイ」「親友交歓」「眉山」である。

「畜犬談」→犬
「浦島さん」→亀
「グッド・バイ」→キヌ子
「親友交歓」→親友(と自称する男)
「眉山」→眉山

というような感じで、それぞれの作品に<敵>が設定されていると考えることができないだろうか。他の話でも主人公が敵とみなしている人物はいると思うんだけれど、ここで言うのは「読者の敵」でも言ったらいいんじゃなかろうか。読者が、言い負かせないような敵なのである。

まず、「畜犬談」における犬。なんだか嫌なやつだけれど、どうしても可愛くて飼ってしまう。最終的に、可愛くなくなってしまっているのに飼いたくなる。このどうしようもなさというのは、読者にも理解できる部分があるのではないだろうか。

「浦島さん」の亀に浦島は口で絶対に勝つことはできない。それは読者も同様ではなかろうか? キヌ子にもまんまとしてやられるし、親友にもいつの間にか酒瓶を空けられている。眉山だって、どんなことを言ってもあっけからんとしている。これらのキャラクターは全て主人公あるいは読者にとっての<敵>として見ることができないだろうか?

<敵>というのは恐らく「不条理」と読み替えても差し支えないように思う。僕が最もムカつく不条理は、小学生のときにいた「何でも真似してくるやつ」だ。こちらの言うことを全て真似してきて、こちらが「真似すんな!」と怒っても、相手は同じように「真似すんな!」と返してきてヘラヘラする始末。こちらも向こうも同じ労力をかけて行動しているはずなのだが、こっちは苛々しているのに向こうは嬉々としている。不条理である。そして、その真似っ子マンは僕にとっての敵である。

これとおんなじような不条理さが、これらの作品には見え隠れしているような気がするのである。このことが作品にどのような効果を与えたかなんてことについては、僕はさっぱり答えを持っていない。もしかしたらいつか思い出して、答えを導きたくなるかもしれない。でも、今はここまで気付いたところでまあ良いかと満足したので、こんな感じで今回は終わりにさせていただこうと思う。
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