2014/09/03 Category : 文学 レマルク『西部戦線異状なし』 青春を奪うものとしての戦争の悪質性 レマルクは1898年に『西部戦線異状なし』を発表したという。名前だけなら聞いたことがあるという人も多いのではないだろうか。僕も、最近までは名前を知っているという程度だった。教養のある人ならば、読んだことがなくともこの小説が第一次世界大戦中のドイツ軍の一人の兵士の物語であることを知っているだろう(ちなみに、僕は内容については全く知らなかった)。 第一次世界大戦において敗戦したドイツは、次の戦争では勝ちたいという気持ちがあったのだろう。レマルクは1931年に反戦作家として迫害を受ける。彼が反戦を唱えていたかどうかは別として、『西部戦線異状なし』を読んだ人は、戦争がいかに悲惨なものであるか理解できるはずだ。 もちろん、今は時代も変わってきている。作中ではびっくりするほど簡単に人が死ぬ。それほどの怪我で死んでしまうのか? と読み進めていて疑問に思った。現代の医療ならば、命に別状がない程度の怪我もあったのではないだろうか。 とはいえ、戦地ではまともな治療ができないことや兵器の進化を考えるならば、当時と対して状況は変わらないのかもしれない。それに、この物語のテーマは戦争への嫌悪というものではないと思う。戦争を悪として描いているが、それでは、『西部戦線異状なし』では戦争の何が悪なのかということを突き詰めていくと、この物語の真髄が分かるのではないかと考える。 端的に言ってしまえば、戦争は人を変えてしまうからいけない。しかも、二十前後の青少年の心を大きく変えてしまう。壮年の人々は、戦争が終わればそれまでの生活に戻ることができるだろう。しかし、青少年期に戦争を体験し、人を殺し、殺されるところを見、過酷な状況で生き延びたという経験は、彼らの価値観の形成にいかなる影響を与えるだろうか。きっと、戦争というものをずっと引きずって生きていくことになる。戦争が青春を奪うということの罪はかなり大きい。そのことをレマルクは作中で繰り返し語っているんだと私は読み取った。 例えば、人を殺さなければいけないということ。青春って、多くの「何故?」が渦巻く時期だと思う。何故勉強をしなければならないのか、何故生きなければならないのか、何故自殺をしてはいけないのか、何故人を殺してはいけないのか。小学生でも考えることができる考えを、この時期まで引きずってしまう。そして、道徳的な観念でしか答えを出せなかったことに自分なりの答えを出す。何故人を殺してはいけないのかという問いには、それぞれ答えが違うと思う。しかし、多くの人は何らかの理由で「人を殺してはいけない」という答えにたどり着くのではないだろうか。人文学的にも社会科学的にも様々な答えが想定しうる。 しかし、戦争というのはその答えをひっくり返す。人を殺さなければ自分は生き残れないし、国家が生き残ることができない。そこでは、人殺しが正義となってしまう。大人は「これは戦争だから」と割り切ってしまうことができるだろう。しかし、青少年はこの価値観の衝突に大きく苦しみ、それを大人になっても引きずってしまう。 青春の喪失、というと僕のイメージするものと少しずれてしまうのだが、それ以外に適当な言葉が思いつかない。青春って別にキラキラしているものではなくて、発達段階として非常に重要なものなのだ。それが破壊されてしまうということは、とってもマズイことだ。しかし、戦争には多くの若い人材が必要になる。必然的に彼らの青春は破壊されてしまう。反戦小説は数あれど、この青春の小説を描いた作品というのはあまり無いんじゃないだろうか(僕は戦争文学をあまり読んでいないので、同じような主題の作品があれば教えてください)。 最後にちょろっとだけ書くけど、この小説では母親というものの存在が大きいなあと思った。主人公が家に帰ってきてから、他の家族もいるはずなのにほとんど母親とのことしか描かれない。父親は実はもう死んでしまっているのかと思ったが、読み進めればピンピンしていることがわかる。他にも姉妹がいるのだが、あまり姿を見せない。家族としては、母親が前面に押し出されている。 どういう要素が組み合わさって、こうなっているのかなあというのが僕の気になるところ。作者のレマルクとしても何か意図があったんだろう。しかし、例えば戦争文学は母親を出すものだとか、青春時代には母親との距離感が問題になるとか、ドイツにおける母親と家族とか、多角的に見ても面白いんじゃないかなあ、と。 PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword