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夏目漱石『こころ』を再読して思うこと

皆さんこんにちは、あとーすです!
漱石の『こころ』を読む演習を履修しているので、久しぶりに再読してみました。

不思議と昔のような感慨を感じなくなってしまいました。以下、『こころ』を読んで感じたことを即興的に書いていこうと思います。


『彼岸過迄』、『こころ』、『行人』の漱石後期三部作のうち、『こころ』と『行人』のふた作品を僕は読んだことがあります。この二つの作品には、やはり共通点を感じます。
ひとつは、物語の主軸に恋愛の問題が据えられているということ。『こころ』のKが自殺した要因は恋愛によるものだけではなかったかもしれませんが、それが最も大きな要因であったことは自明のことでしょう。

『行人』もまた、主人公と嫂との関係に主軸が置かれている。結局、人間はこのテーマから逃げられないのかなあと思ってしまいます。

さらに、この二作品は形式の上でも似ているところがありますね。「手紙」という装置を使っているところです。この装置によって、自然な流れで人称を変えることに成功しています。よくよく考えたら、同一の小説で視点が変わるものというのは、純文学の系統ではあまり存在しないように思います。(もし他にもあれば、教えていただけると幸いです)

二葉亭四迷の代名詞ともいえる『浮雲』も、同じような問題を取り扱っているように思います。文体の上でも大きな違いがありますが、やはりこの人称を変更できるということが、『こころ』と『行人』に奥行きを与えているように思います。近代小説は基本的に自我との闘いを描写するものかと思っていましたが、この二作品はしっかりと主人公以外の他者を描写している。



『こころ』の話をするつもりが、『行人』の話も混じってきてしまい増した。少し『こころ』の内容にも触れておきたいと思います。

僕は基本的に、なんだか先生にあまり共感することができない。まあ、お金関係で親戚から騙されたこともなければ、恋愛沙汰で親友を自殺に追いやった経験もないからなのでしょうが。
しかも、この二つがどうも現代では既に陳腐なお話になってしまっていると思うのです。過去の作品に向かって現代の感覚で「陳腐だ!」というのもおかしな話なのですが、まあ、そう思ってしまうのは仕方がない。

ただまあ、そういうところが分かりやすいから高校国語の定番教材になっているのかもしれませんね。誰が読んでも、一応ある程度の反応は期待できる。
それでいくと、僕は梶井基次郎の『檸檬』が定番となっているのは少し謎なんですけどね。あれを読んで、どう反応すればよいのやら……。



ざっとこんな感じになるでしょうか。
久しぶりに記事の更新をしているので、少し感覚を忘れつつあります。もっと書いて、精進せねば。
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