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坂口安吾『桜の森の満開の下』を読んだ。退屈の意味とは?

こんにちは、あとーすです。

今回は、とても不思議な小説『桜の森の満開の下』を読みました。
安吾は天才と言うよりも、「鬼才」と言った方がぴたりと来る作家だなあという感を強め、また違う作品を読むのが楽しみです。

桜の森の満開の下 (講談社文芸文庫)



これまで読んできた安吾の小説はと言えば、『青鬼の褌を洗う女』、『風博士』、『白痴』などです。これらの三作品はそれぞれに全く違っているし、『桜の森の満開の下』も全く違った作品となっている。これって、当たり前のことのようで難しと思うんです。

例えば、太宰の作品ってある程度分類することができると思っていて、『人間失格』と『桜桃』は同じライン上にあると思うんです。『ヴィヨンの妻』なんかも、主人公は女であるのですが、同じ匂いを感じることができる。

しかし、少なくとも僕の乏しい読書経験の上では、安吾の小説はそれぞれが違う匂いを放っている。『桜の森の満開の下』は非常に説話的な下がりとなっている。先日読んだ、ハーンの短編集『階段』を思い出しました。しかし、芥川の説話的物語とも違っているし、太宰の作品とも違う。どこか、艷やかさを持っているのが安吾のこの作品の特徴だと言えるのではないでしょうか?

残酷であるのに、幻想的。このような小説は、今までに読んだことがありません。しかし、この作品に果たしてどういう意味づけをするのかと問われると、私はほとんど何も言うことはできません。「実在」ということがテーマになっているという話をチラリと聞きましたが、いまいちピンと来ません。

確かに、女が桜の花びらになって消滅してしまうことには「実在」というテーマが絡んでくるのでしょうが、他のところにどのような意味があるのかと問われると、少し困ってしまう。「無限」に対する懐疑も、「実在」と関わってくるのでしょうか?

この辺の難しいことを考えるのは、またの機会に譲ることにしたいと思います。他の安吾作品も読んでからに。

ところで、今回僕が気になったのは、この作品の中で男が言う「退屈」という単語について。男は、人と喋っていると「退屈」であると言います。この「退屈」という言葉にどういう意味がこめられているのか。もちろん、普通の意味での「退屈」でないことは明らかです。

ここにも、「無限」が関わってくるように思います。彼は繰り返す殺生に飽きていて、都にもあきている。都は賑やかゆえに飽きている、というのはなんだか文学的でよくわかりませんが、少なくとも「無限」との関わりはありそうですね。


というのが、初めて読んでみて思ったことでした。
再読してみて、また違った角度から味わってみたい作品ですね。

桜の森の満開の下 (講談社文芸文庫)
坂口 安吾
講談社
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