忍者ブログ
あとーすログに引っ越しました!

LiteraTech風見鶏

Home > ブログ > 文学

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

未完の遺作 太宰治『グッド・バイ』を読んだ

グッド・バイ (新潮文庫)


こんにちは、あとーすです!
グッド・バイ。この言葉には何か強い意思がこめられているように思います。グッバイではなく、グッド・バイ、というのは時代的な言い方というものもありましょうが、一つひとつの音を丁寧に発音しているところに何やら強い響きを感じるのです。

しかし、遺作が「グッド・バイ」とは凄いじゃないですか。
ということは、安吾が「不良少年とキリスト」の中で言っていることでもあるんですけれどね。彼の生き方は、本当に最後はコメディアンに近かったといえるのではないでしょうか。

さてこの作品、「未完」と言われていますが、実際にはほとんど物語が進んでいないと言っても良い。青空文庫で読んでいたのですが、その感覚としては、短編くらいの長さしかないような印象を受けました。

そもそもこの物語、十人程度いる愛人に別れを告げにいくという物語なのですが、太宰は二人目の女に会いにいく直前で命を絶ってしまっているのです。もう、本当に序盤なのですよ。
ただ、太宰としては十人全員に別れを告げる前に何かしら行動を起こさせようという魂胆があったのではないかという気もしますけれどもね。

比べるのも変な話ですが、漱石の未完の遺稿『明暗』は甚だ長い。僕は『行人』を読んですら長いなあと思ったのに、明暗は終わっていないくせに長い。長いゆえに、実はまだ読んだことがないんですけどね…いや、お恥ずかしい。

しかし、太宰の描く男性がこれほどまでに女性に敗北した作品って他にないのではないでしょうか? といって、僕の浅い読書経験で判断するのは早計かもしれませんが…。少なくとも、『人間失格』では、女性にかなわないとは言いながらも、敗北することはなかった。他の作品でも、女性の凄いところにスポットライトが浴びせられても、「負ける」ということはなかったように思います。

まあ、この辺は太宰の著作を全て読破してからまた論じてみたいところですね。

グッド・バイ (新潮文庫)
太宰 治
新潮社
売り上げランキング: 57,603
PR

入水した太宰へのメッセージ 坂口安吾『不良少年とキリスト』を読んだ

不良少年とキリスト


太宰治といえば、『人間失格』や『走れメロス』などを書いた作家として有名です。
僕のイチオシは『葉桜と魔笛』です。僕は太宰というのはナルシスティックである種気持ち悪い(そこがいいと思ってます)面が強いのですが、この『葉桜と魔笛』に関しては、もちろんそういう太宰っぽさを残しながらもそれを否定するという構図があるように思います。まあ。抽象的な話をしてもしょうがないのですが、これから読む人もいるかもしれないので、ぼかしておこうかなと思います……。

さて、本題に入りましょう。ある人の勧めで、坂口安吾の『不良少年とキリスト』を読みました。最初は安吾の歯痛の話から始まるのですが、概ねはその直前に入水した太宰へのメッセージとなっています。
いや、メッセージへというと変ですかね。「追悼」と言った方がしっくりくるかもしれません。とりあえず、そこには安吾の太宰への思いが込められています。

しかし、安吾は本当に様々な文体を使い分けますね。僕は読むたびに驚かされます。書くもののタイプが違うということもあるのでしょうが、僕が今までに読んだ(少なくて恥ずかしいのですが)『堕落論』『白痴』『風博士』そしてこの『不良少年とキリスト』は全く文体が違っている。
僕はこの文体、好きですね。親しみやすいし読みやすい。戦後に書かれたものなので、口語はかなり馴染みやすいものですね。その言葉遣いによって、安吾の気持ちというのは伝わりやすいものになっていると思います。

安吾は『不良少年』の中で太宰を「フツカヨイ」的であると指摘するわけですが、果たしてこの「フツカヨイ」とはなんなのでしょうか。
安吾はこう言います。
太宰は、M・C、マイ・コメジアン、を自称しながら、どうしても、コメジアンになりきることが、できなかった。
晩年のものでは、――どうも、いけない。彼は「晩年」という小説を書いてるもんで、こんぐらかって、いけないよ。その死に近きころの作品に於ては(舌がまわらんネ)「斜陽」が最もすぐれている。然し十年前の「魚服記」(これぞ晩年の中にあり)は、すばらしいじゃないか。これぞ、M・Cの作品です。「斜陽」も、ほゞ、M・Cだけれども、どうしてもM・Cになりきれなかったんだね。
「父」だの「桜桃」だの、苦しいよ。あれを人に見せちゃア、いけないんだ。あれはフツカヨイの中にだけあり、フツカヨイの中で処理してしまわなければいけない性質のものだ。
フツカヨイの、もしくは、フツカヨイ的の、自責や追悔の苦しさ、切なさを、文学の問題にしてもいけないし、人生の問題にしてもいけない。
死に近きころの太宰は、フツカヨイ的でありすぎた。毎日がいくらフツカヨイであるにしても、文学がフツカヨイじゃ、いけない。舞台にあがったM・Cにフツカヨイは許されないのだよ。覚醒剤をのみすぎ、心臓がバクハツしても、舞台の上のフツカヨイはくいとめなければいけない。


とりあえず、「父」や「桜桃」がフツカヨイ的作品だということがわかります。桜桃がフツカヨイ的ならば、僕は『人間失格』だってフツカヨイ的だと思います。というのも、僕は「フツカヨイ=気持ち悪さ」と捉えるからです。
世間体的にはいえないようなことを、フツカヨイ的状態だから言える、ということではないのでしょうか。しかし、そうするとフツカヨイって適切なんですかねえ。ヨッパライではなく、フツカヨイ。この辺は、もう少し論考をつきつめる必要がありそうです。まあ、それはまたの機会に。

とにかく、いい作品でした。太宰の人物像というものがよくわかる。是非、読んでみてはいかがでしょうか?

「つぶやく」という小さな単位の文学

僕は文学を専門に勉強していますので、「文学とは何か」ということをよく考えることがあります。

文学の定義というのは様々です。小説や詩だけを文学と思っている方がいるかもしれませんが、例えば演劇や評論だって文学とする定義もありますし、中には「書く」という行為を通して生成されたものは全て文学だとする考え方も聞いた事があります。

また、文学の意味というのも大きな問題でしょう。工学部なんかの勉強は、人々の役に立つことが明確です。インターネットの技術が発達すれば僕らはさらに高度に情報を収集することができますし、精巧なロボットが作られれば、僕らの生産性はより大きくなることでしょう。

しかし、文学は研究したりしたからといって、すぐに何か役に立つというわけではないんですよね。
本当は様々な意味があるのだと僕は思うんですけどね……。

例えば、よく言われるのは「追体験」ということですね。
僕らは小説なんかを読むことによって、その世界を体験することができます。未知の何かを「体験」することになるのです。

体験というのは僕らが宝としなければならないものです。僕らは過去の体験によってガスコンロに点火する方法を知っていて、お金を払わなければ水が得られないことを知り、NHKの公共料金は払わなくてもいいのではないかということを知るのです。(もちろん、その体験の成果が正解か不正解かはわかりませんが)。

小説で体験したことも、必ず僕らの人生の中で役に経つはずです。恋愛小説を読めば、恋愛に対する考え方を育てることができます。

また、享楽の作用もあるでしょう。これは芸術と同じような作用ですね。僕らはただ純粋にその世界を享受して、楽しいと感じるのです。

教育的な場面もあります。歴史を学ぶ際にただ史実を並べられてもつまらないですが、例えば新選組のことを小説やドラマにすれば、多くの人が楽しんでそれを見ることができ、しかも新選組がなんたるかと知ることができます。

これには「ストーリー」というものが大事なのですが、このストーリーを構成するというのは、いわゆる文学の役割のような気がしています。

さて、僕はですね、文学の最も重要な役割というのは、「折り合いをつけさせること」ではないかと思っています。

僕らは色々なところで悩みます。身長が伸びねえなあとか、成人したのにまだ童貞だよとか、友達が少なすぎる、だとか。

そういうことに折り合いをつけることができるのが文学ではないでしょうか。
例えば小説の主人公が成人して童貞であれば、童貞の人も「ああ、そんなもんか」
と安心することができでしょう。このままでいいかと、折り合いをつけることができるわけです。

反対に、早めに初体験を済ませてしまった女性がいるとします。
私早すぎたかな……と思っても、漫画で早期の性体験が肯定されていれば、その女性は「別におかしくはない」と折り合いをつけることができるでしょう。そう、漫画も文学ということができるのです。

その他、僕らは様々なところから情報や考え方を受け取ります。週刊誌を読むでしょうし、街頭に貼ってある啓発ポスターを読むでしょう。これらには視覚的要素が入るので、他の近接する分野と複合した形の文学といえることができます。


そのように考えると、Twitterというのは多分に文学的な要素をもっているように思うのです。

まず、書くという行為がその根底にはあります。書くことによって、自分のつぶやきを見ている人に対してメッセージを送っているわけです。これらに写真やリンクが伴うことがありますが、これも週刊誌や漫画などと同じように複合型の文学ということができるでしょう。村上春樹だって、自分で描いた絵を挿入していますしね。

顔文字はどうでしょうか。顔文字というのは非常に優秀な思考伝達のツールだと思います。感嘆符や疑問符と同じように使われる文学があっても良いと思います(それが携帯小説という形で世に出たことがありますね)。

顔文字というのは、文脈によって意味が変わってきます。
「嬉しい(^ω^)!」
という文面一つにしてみても、その前後の関係で本当に嬉しいのかはたまた皮肉として言っているのかが変わってきます。そういう面で言いますと、他の表現方法と同じではないかなあとも思うのです。故に、顔文字が付随するつぶやきも「文学」と定義することができるのではないでしょうか。

僕はRTされた呟きを見て、生きるためのヒントを得ることがあります。「そうか、そういう考え方があるのか」と思うときがあります。その感覚が「折り合いをつける」ということであり、僕が考えるところの「文学」の効力とぴったり一致するのです。

知ろうとが考えたことだからといって、それを軽んじるべきではないと思います。有名な作家が、いつでも素晴らしい作品を書くとは限らないこととは反対のことです。それをどう受け取るのかということは、受け取り側の問題なのだから。

形式的に見るならば、制限次数が140字というのも面白いところですね。これは俳句なんかの定型詩と似た要素を持っています。制限があるからこそ、人々は工夫をして、それに合致するような作品をつ繰り出すわけです。

制限がなければ、人は動かないでしょう。僕らは旅行に行こうというような具体的な目標がなければお金を貯めることは難しいですし、試験がなければ勉強をしないでしょう。制限というのは、反対に動機にもなりうるわけです。適度なストレスは原動力になるのです。

さらにTwitterは、いい物は長期的にRTされ続ける上にTogetterやまとめサイトなどにキュレーションされる反面、すぐに相互的なレスポンスをすることができます。

反対の意見を持つならば、それに反応することで、また違った意見を得ることができるかもしれません。そうして、新たな地平が見えるということは、まさに文学の本質なのです。ブログなどではコメントがしづらい。しかし、Twitterなら気軽にリプライすることができます。そう言った意味でも、非常に優秀なのです。


Twitterの文学性というものについてだらだらと書きなぐって見ました。
何かご意見などありましたら、コメントをよろしくお願いいたします(もちろん、Twiterアカウントへのリプライでも構いません!→ATOHSaa



関連記事
 →衒学とナンセンス 坂口安吾『風博士』を読んだ
 →風刺という実用的かつ娯楽的なもの 星新一『午後の恐竜』を読んで
 →劣等感との付き合い方 ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』を読んで

2008年下半期芥川賞受賞作品 津村記久子『ポトスライムの舟』を読んだ

芥川賞と聞いて僕が真っ先に思い出すのがこの作品である。
何故かはわからない。他の芥川賞受賞作品なんてほとんど知らないのに、どうしてかこの作品のタイトルだけが気になっていた。

恐らく、国語の問題集か何かでこの作品を取り扱った問題が出たことも原因の一つではある。
しかし、僕はその問題を見る前から、『ポトスライムの舟』を読みたいと強く感じていたのだ。

そして、その夢がようやく叶った。
いや、実は一年ほど前から手元にはあったのですが、すっかり忘れてしまっていました。
読んでみた感想というのを、つらつらと書いていこうかと思います。

とにかく、全部読み終わってみての感想というのは「とても普通の作品だな」というものでした。現代純文学の王道をいくと言いましょうか。それなりに大変なことは起こるんだけれど、ドラマチックなことは起こらない。ただ日常を描写している、という感じ。

これならば、『蹴りたい背中』の方がまだアブノーマルであったような気がします。『ポトスライムの舟』は日常の小さな悩みの堆積というのを凝縮して詰めたような感じ。

ただ、この作品では「衝動」というものが一つのテーマになっているように思います。
刺青を入れてみようとか、世界一周してみたいとか、色々な衝動。それに向かって、努力するということ。それに努力するための価値があるのかと言うこと。

価値観については僕も色々なことを考えてきました。その価値観の形成をするにおいて、この作品はとても優秀な材料となりうるのではないでしょうか。



関連記事
 →衒学とナンセンス 坂口安吾『風博士』を読んだ
 →風刺という実用的かつ娯楽的なもの 星新一『午後の恐竜』を読んで
 →劣等感との付き合い方 ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』を読んで

衒学とナンセンス 坂口安吾『風博士』を読んだ

坂口安吾を読んだのは、『堕落論』『続・堕落論』『青鬼の褌を洗う女』に続いて四作目であると記憶しています。

毎回違う姿を見せてくれる作家ですね。
もちろん、毎回違うという点は近代作家には共通するものがあるように思います。太宰はいつもとうって変わって「竹青」や「清貧譚」のような小説を書きますし、漱石だって、『坊ちゃん』「虞美人草』『三四郎』を通して読めば、本当にこれは同じ作家が書いたものかと疑うことでしょう。

しかし、『堕落論』を書ける安吾がこのような作品に走った理由、というのがよくわからない。
この表現は恐らく適当でないと思うのだが、その衒学的な文章からは森見登美彦を思い出した。つまり、森見的試みというのは、この頃からあったのである。

下らないことを拡張高く見せかけながら論じるというのは、衒学家の手法であるように思います。
衒学に意味がある、と言いましょうか。その雰囲気に酔うのです。

私の読みが足りないだけかもしれませんが、この『風博士』の内容にどれほどの意味がありましょうか?

これが森見登美彦であるとするならば、あんなものに意味なんてほとんど無いと思っています。
しかし、僕は森見さんの文章が好きです。それは、あの雰囲気に酔っているからです。

文学を言葉の芸術として突き詰めていくならば、このような作品はこの先もどんどん生み出されていくことでしょう。

未来の安吾・森見に僕は期待したいところであります。

風刺という実用的かつ娯楽的なもの 星新一『午後の恐竜』を読んで

星新一を読む、というのは何年ぶりのことでしょう。
恐らく、中学時代に読んだのが最後だと思います。偉人の伝記に飽き飽きしていた僕が初めて触れた小説作家が彼だということができます。

しかし、久々に読んでもこの作家は実に面白いですね。何作品か、読んでいるうちに思い出す作品がありました。それはオチが途中でわかってしまうのですが、それでも面白く読み通せるのは彼の力量があまりにも大きいからです。

さて、星新一ファンはそのSF的世界感とブラックユーモアにひきつけられてこの作品を読んでいるのだと覆います(少なくとも、僕はそうです)。
その面だけを見れば、星新一はエンタメ作家ということになります。しかし、彼の魅力はそれだけではないのです。彼の作品には、総てにとは言いませんが、意味がある。
それは、彼が社会に対する鋭い洞察力を持っているから可能なことでしょう。彼の魅力は、まさに社会を「風刺」するところにあると考えられるわけです。

風刺、という文化がどこで生まれたかなんてことを僕は知りません(ごめんなさい、調べるのが面倒になってきまして)。けれども、日本において明治の小説には風刺画が載っていましたし、外国でもそれなりに「風刺」という行為は市民権を得ていたということができます。

「風刺」という行為はどうして人口に膾炙するに至ったのでしょうか。
恐らく、だれかを見下したい、という人間の欲求が根底にあるのだと思います。どのような高尚な次元の話でも、わかりやすい次元に墜落させられる、それが風刺というものの魔力だと思うわけです。

星新一はこの風刺の名手です。
例えばこの短編集の表題作である「午後の恐竜」でも、核爆弾を作り出した人間の風刺になっていると言えます。
もっといえば、「エデン改造計画」なんてまさに風刺です。人間の創り出した文明の中では、何かまわりくどいことをしなければ享楽を得ることができない。それを冷静に、客観的に描写することができたのは、星新一をおいてほかにいないでしょう。

「契約時代」も僕は大好きなお話です。よかれと思っていることが、実は悪い方向に進んでいたりすることはよくあることです。また、人は財力と権力には目がないのだということも気づかされます。みんな欲のない人間だったら、経済学者なんていらんのです(といって、僕が無政府主義者や共産主義者なんてことはないんですけどね)。

風刺はエンターテインメントであると同時に、僕らに大事なことを教えてくれています。
星新一の文章はわかりやすく、小学生の高学年ならば、その意味を解釈することができるでしょう。
僕の知的営みは、星新一によって開始されたといっても過言ではないかもしれません。今後も、日本の子供たちに星新一を読み継いでほしいなあと思います。

劣等感との付き合い方 ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』を読んで

久しぶりに小説を一気読みしたような気がします。アルジャーノンに花束を。
日本でも、ユースケ・サンタマリア主演でドラマ化されたことがある作品です。ううむ、ドラマの方も見てみたい……。

作品の出来も上々です。
僕はもともと翻訳ものがあまり好きではなくて、これまで読んでこなかったんですが、外国文学もなかなかいいものが揃っていますね。これを機に、色々と読んでみたいと思います。
この作品は、特に構成がよかったように思います。描写は、やや唐突な場面が多かったように思いますし、少し綿密さに欠ける部分はあるかなあという気もしました。

最後の方はあまり気にくわないんですよね。
というのも、僕はあまり綺麗な人間が出てくる小説というものが好きではないから。
なんか、途中はいい感じで汚れていたのに、最後は急に良い人間になっちゃうんですよね。変に感傷的になってしまうというか、なんかそんな感じです。


まあ、全体の感想はそんなところなんですが。
僕はこの作品を読んでいる途中で、「劣等感」について様々なことを考えました。
主人公のチャーリイは脳の手術を受けて白痴から天才になるわけなんですが、その段階で、ヒロインがチャーリイに劣等感を抱く場面があります。
自分が一生懸命勉強してきたことを、天才のチャーリイは「何を子供みたいなことを……」というような態度を取ってしまうのです。
また、教授たちに対する失望の場面というのもありました。ある分野の権威であっても、意外と多くのことは知らないということに失望してしまうのです。

劣等感については僕の中学校の頃からのテーマでした。
僕自身も小説を書くのですが、初めて書いた作品はまさに劣等感ということを描いておりました。うーん、懐かしい。今読んだら、発狂してパソコンの画面に蜘蛛の巣つくりそうですけれどもね!

例えば勉強ができなかったり、ギターが弾けなかったり、なんか、常にコンプレックスを抱えて生きていた気がします。
それは今も続いていて、自分より物を知っている人にであうと悔しいですし、面白い小説や脚本を素人が描いていると、嫉妬したりしてしまうんですよね。

今回のチャーリイの描写を見て、僕はそんな悔しいとか嫉妬のいうような気持ちを思い起こしていました。
でも、こういう場面で劣等感を感じるということは当然のことであり、生きていく上で重要なことではないかと思うんですよね。
他人にとって小さなことが自分にとって大きなこと、ということは多々あるわけで、特にこの劣等感の問題はその最たるものだと思うんです。

頭がよくなったとしても、他人のことが思いやれなければやっぱり駄目なんじゃないかなあと思います。
相手に不要な劣等感を植え付けないことを僕は徹底してやるようにしています(これがなかなか難しいんですけどね)
やっぱり、人間ですから自慢したいだとか何かをひけらかしたいという欲はあると思うんです。
でも、飲み会の席で自慢話をする人って嫌われるじゃないですか。あれって、少し劣等感と関係があると思うんですね。劣等感を植え付けられる話というのを、人は嫌うんだと思うんですよね。
だから、なるべくそういう話を控えるというのが大人の対応だと私は思っています。


さて、この劣等感から解放されるためにはどうしたら良いのか。
それほど好きじゃないやつだったら無視すればいい話なのですが、問題は自分の好きな人によって劣等感を感じる場合です。
この場合は、離れようにも離れられないんですよね。
これって結構深い問題で、映画や漫画の葛藤のシーンにも取り上げられている気がします。ソラニンなんかは、なんかそういうのが渦巻いてたなあ。

好きな人に劣等感を感じてしまった場合は、素直にそれを伝えてしまうのも手かなあと思います。
何かが起きる前に伝えれば、相手が分かってくれることもあるかと思いますし。
あとは、自分も相手に劣等感を植え付けないように気をつけることですね。無意識化で仕返しの機能が働いてしまうこともあるので。己の欲せざるところなんとやらです。


まあ、劣等感という感情とは恐らく一生付き合っていくことになるとは思うんですけどね。

あなたは、劣等感とどのように付き合っていますか? よければコメント欄でお聞かせください!

境界線を作ることと超えること いしいしんじ『東京夜話』を読んで

このお話を文学に入れていいのかと少し悩んだけれど、まあ、小説を読んで考えたことなのだから文学に入れておこうということで、文学カテゴリに突っ込んでいます。

いしいしんじさんの『東京夜話』という短編集を読みました。
んー、なんか色んな人を感じますね。けれど、その誰とも違う、というのはやっぱり、個性なんだと思います。

なんだか最近短編しか読んでいないのは、意図してそうしているのではなく、中身を見ないで買った本がたまたま短編集でであるだけなのです。しかし、短編集は非常に面白い実験ができるものだなあと思います。だって、この『東京夜話』も一つひとつ雰囲気や手法が違っています。

この短編集はいしいしんじさんのデビュー作を改題したもので、ふむ、デビュー作でこれだけのものを書ける作家というのはすごいなあと思いました。
僕が初めていしいさんの本に触れたのは『ぶらんこ乗り』がはじめてなのですが(とても面白い本です)、デビューの頃から、何か一つの信念を貫き通しているように思います。

それが、今回考えたいことにもつながります。
文庫本の後書き(というか、解説か。あの、一番最後に他人の論評が載ってるやつです)のタイトルが「境界を消す人」だった。そうなのだ、いしいしんじはまさに境界を消しているのだなあ、と思った。

例えば突然宇宙人が出てきたりだとか、ダッチワイフやカラスや魚になってみたりだとか、奇妙奇天烈な登場人物が出てきたりだとか。

先ほど、様々な作家と同じような匂いを感じる、と書いた。
ウィットに富み、自分の嫌いなものを徹底的かつユーモアたっぷりに皮肉るという点には村上春樹と同じ匂いを感じる。
奇妙奇天烈で突飛なストーリーや登場人物なんかは、森見登美彦と同じようなところがあるなあと思いました。
あ、あと他にも何かあったんですよ。本当ですよ。ちょっと忘れてしまいましたけど……(思い出したら追記しますね!)

ただ、それでも独特の世界を感じることができるのは、やはり境界を消していくからなんだと思います(僕は境界を「超えて」いくと表現したいと思います)。

僕はカテゴライズ、という作業が好きです。あの人はDQNで、あの人はサブカル好き、あの人は堅い人だからあまり滅多なことは言えないけれど、この人ならば何を言っても大丈夫、みたいな。
そういう側面って、この作品にないわけじゃないと思うんですよね。それが春樹的(と僕が勝手に感じている)ものということができます。
ただ、それ以上に、それを含めて、いしいしんじは全てのものを超えていけると思うのです。

けなしつつ、認める、というのは、なんだか昔から僕が理想としてきた、親友のような間柄であります。
「クラブ化する日本」で、彼は日本(銀座)を徹底的に皮肉りながらも、徹底的に愛しているのだと思います。愛していて、熟知していないと、あのような作品は書けないなあと思うのです。


……予想以上に話があっちこっちに飛んでしまいました。
つまり何が言いたいかというと、境界線を作ることと超えることは表裏一体というか、同じ行為なのではないかという風に思えるのです。
例えば僕には嫌いな部類の人間というのがいて、それらの特徴をカテゴライズしているわけです。
でも、その人たちをさらにカテゴライズしていけば、結局、一人の人間に一つのカテゴリができるし、そんなに嫌いでない人とより嫌いな人の差が明確になります。
しかも、嫌いな人の中にも、自分が好きだと思えるカテゴリ要素を持っているかもしれません(そうだ、一人の人間に一つのカテゴリを与えるなんて勿体無い。このブログにも、いくつもカテゴリがあるじゃないか)

で、結局、カテゴライズする先には、もともとの、一個人が水際立った状態ができあがると思うんです。そして、全てをよく知っているから、僕らはそれを愛することができる。知ることは愛することの第一歩です。

ミクロとマクロがつながっているなんて話を聞きますが、あれは結構本当だなあと思います。少なくとも、境界線を作ることと超えることに関しては、ミクロとマクロはつながっている。僕はそう信じています(というか、この作品を読んで信じるようになりました)。


常態、敬体入り混じった文になり、かなり読みにくい文になってしまった感はありましたが、このままが一番自分の気持ちをストレートに表現できていると感じますので、このまま投稿します。

是非、みなさまとご意見もお聞かせください!


自然主義文学とは?~欧米と日本における違い~

「自然主義文学」という言葉、一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。
日本では島崎藤村の『破戒』田山花袋の『蒲団』といった作品が代表として挙げられますね。

しかしこの文学形態に関しては、欧米(特にフランスとその近隣国)と日本とで大きく定義が異なります。

今回はこの経緯について説明したいと思います。


そもそも「自然主義」とは、フランスの作家エミール・ゾラが提唱したものです。
彼は自然科学の視点から人の一生を紐解き、それを小説という形にしようと試みました。
言わば文学と自然科学のコラボですね。

具体的にはどういうことかと言うと。

彼は『ルーゴン・マッカール叢書』という一連の作品群を書いたことで知られています。
中でも代表作は『居酒屋』と『ナナ』。

『ルーゴン・マッカール叢書』は、当時のフランスのあらゆる階級の人間の一生を、主に血統と環境要因から説明しようとしたもの。
例えば、「あの人はここの血筋に生まれたから不幸になったのだ」とか、あるいは「この地に生まれたからにはこうならざるを得なかった」とか、人生の中で起きる様々な事象に、ゾラは明確な理由を与えようとしたのです。

当時からすればかなり実験的な作品です。
しかし、生活環境はともかく、血統で人生が決まるというのはなんだか嫌な感じがしますね…。

これらの作品を書く際、ゾラは真実の人間の姿を描くため、文学的「美化」というものを徹底的に排除します。
それどころか彼は悲惨な労働階級の現状を、忠実に、そして露骨に表現しました。
(例えば『居酒屋』では、優美な観光地であるはずのパリの街がこれでもかと言う程貶されています……。)

芸術=美しいものと思っていた人々はビックリしますよね。
彼の作品については、当時のフランス国民の間で賛否両論でした。
一部からは激しい非難を浴び、社会問題にまで発展します。


そしてそんなゾラの作品は、後に日本の文学界にも大きな影響を与えます。
しかし一つ残念なことが。
それは、ゾラの「自然主義」を取り違えてしまったことです。

ゾラは確かに人間の「あるがまま、真実の姿」を描こうとしたのですが、それはあくまで「自然科学の視点から人の一生を説明するため」です。

それが日本では、単に人間の本質をあからさまに描こうという試みだと捉えられてしまったのです。
そのため、日本版自然主義では人間の愚かで恥ずかしい内面を暴く、ということに徹しています。田山花袋の『蒲団』はまさにその代表例ですね。

これはこれで一つのブームになったのですが、当然すぐに衰退します。


もしも日本でもゾラと同じ手法が流行していたら、どのような作品が生まれていたのでしょうか?
想像もつかないですね。
しかし意味の取り違えによって数々の名作が生まれたということを考えると、一概に「読み違え」が悪いこととも言えない気がします。