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その人を決定づけるものは何か カフカの『変身』を読んだ

みなさんこんにちは、あとーすです!
実はぼく、文学を志ながらも恥ずかしいことにカフカの『変身』を読んだことがありませんでした。そこで、今回は青空文庫でカフカを見つけ出して、読んでみたというわけです。青空文庫はあまり外国人作家が充実していないのですが(翻訳者の著作権の関係でしょう)、カフカは豊富にあったので、他の作品も読んでみようかなと思っています。


さて、『変身』について。
この作品の冒頭はあまりにも有名です。僕も、『変身』が毒虫になってしまった青年の話だということは噂で知っていました。ただ、それだけではその奇異さが話題として消費されるばかりで、その文学の奥深さというものはさっぱりわかりません。

それで僕は読んでみたのですが、なるほどしかし、この作品はその設定の奇異さで読者を作品から離れさせないことに成功しているような感があります。それゆえに、この作品がカフカの代表作と言われるのでしょう。
しかし、それ以上にこの作品には意味がある、ということも感じられます。

僕がこの作品を読んで思ったことは、「その人を決定づけるものは何か」ということです。
僕たちは、ある人を判別するときに何を規準とするのでしょうか。例えば、相手の顔を見て判別したり、声を聞いて判別したり、匂いを嗅いで判別したり。つまり、私たちは五感で以て、相手が誰であるかを判別します。五感で感じ取れる記号を、自分の記憶の中にある記号と照合し、それが一致した場合に、その人がその人であると特定することができるわけです。

それでは、その人自身が、自分を自分だと認める材料はなんでしょうか? もちろん、五感で感じ取ることも大事ではありますが、その人自身のみが唯一判断材料とできるのは、自我あるいは自己の経験の記憶でありましょう。世界五分前説なんかと関連してくるかもしれませんが、結局、自己が自己であると決定する要因は、自己の経験の記憶しかない。

そして、この『変身』では、その「五感」と「自己の経験の記憶」に違いが出てくる。五感で感じるものは、自分ではない毒虫である。一方、自己の経験の記憶によれば、自分は自分であるということが確かである。グレーデル青年にとっては、この大きな矛盾こそが、悩みの種となるわけです。


ところで、グレーデル青年自身は自己の経験の記憶によって、己が己だと信じることができますが、家族にとっては毒虫をグレーデルと信じる材料が乏しいように思います。だって、それがグレーデルだと信じる材料は、ただ、毒虫がグレーデルの部屋にいたということでしかないのですから。

この点は、物語にも大きな影響を与えているような気がします。結末まで読めばわかりますが、家族は、結局毒虫がグレーデルであることを否定してしまう。他人にとって、やはりその人をその人と決定づける要因は、外見ないし五感で感じ取れるものに限るということなのでしょうか。


とまあ、初発の感想はざっとこんな感じです。
この作品に関しては、きっと様々な論評があると思いますので、それを読んでみたいなあと思います。
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