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「英語」を「漢語」に置き換えるという翻訳に意味があったのか?

みなさんこんにちは、あとーすです!
この記事では、西洋の知識移入の為に盛んに行われた翻訳と、それに伴う新たな訳語誕生について、思うところを書いていこうと思っています。




結論から言うと、僕は明治期の新訳語については、あまり意味がなかったのではないかと思います。「自由」や「経済」など漢語としての訳語が作り出されたわけですが、カタカナ語のままにした方が手間はかからないし意味も正確に伝わっていいんじゃないの? ということです。


明治期の知識人たちは、漢籍の深い教養を持っていた。それは、前近代の知識人としては当たり前のことだった、という認識を僕は持っています。その上で、更に蘭学や英学に優れている人が出てきた。こういう人たちが、翻訳に携わった。

そうして、「Liberty」を「自由」と訳し、「Economy」を「経済」という風に訳したのでしょう。しかし、例えば僕らが「自由」や「経済」という字面だけを見てその意味が判断できるならばいいのですが、別にそんなことはない。とするならば、別にカタカナ語として移入してもよかったのではないでしょうか。

「経済」の語源となった「経世済民」も、もともとはどちらかと言えば「政治」に近い意味を表す言葉だったようですね。そうすると、なおさら使い方がややこしくなってくるような気もします。


しかし、「自由」や「経済」などの訳語に僕はあまり意味を認めることができないのですが、ある面では大きな役割を果たしていると思います。

それは、例えば「酸素」や「窒素」、「炭素」といった類です。これらは確かに、語尾に「素」がつくことによって、見ただけで元素だということがわかる。英語ではこうはいかないので、確かにこれは頭いいなあと思いました。

また、学問分野にしても「化学」とか「生物学」とか、「学」をつけて言い表そうとするところも良いなと思います。ただ、それならば「化学」と「科学」は、紛らわしいので何か別の訳語を当ててほしかったなあと思います。


しかし、これら以外の場面では、やはりあまり意味がなかったと思った方がいいのではないでしょうか? 漱石にしても鴎外にしても、カタカナ語やアルファベットを使っている箇所が散見されます。これは、日本の訳語が不完全であることを認めていたためではないでしょうか? もしかしたら、まだ訳語が発達していなかったためにそういう使い方をしたのかもしれませんが……。


現在の日本人は、カタカナ語を使いすぎだと言われます。なんでもかんでもカタカナのままで使い、日本語にする努力をしないと。しかし、日本語にする努力をすることがそもそも良いことなのかについては、議論になり得ると思います。そして、僕はあまり必要のないことではないかと思います。

新たに漢語を借用して日本語に翻訳するのと、そのままカタカタ語として移入するのとでは、後者の方が手間が少ないですし、意味も変わらずに保てると思うのです。
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