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文学にできることは、とりあえず諦めないこと?

文学にできることは何だろうか。文学を学ぶものにとって、いつでもモヤモヤとしていて答えの出ない議論だと思います。僕も、いつもこのことについて考えています。
というわけで、この記事では大雑把に「文学」について考えることを通して、できれば文学の役割を発見できればいいなあと思っています。

 その前に、ちょっと理系方面の話を。
 近年、生物学の領域が注目を浴びていますね。ヒトゲノムの解読に成功し、iPS細胞、STAP細胞など、新聞紙面を賑わす日も少なくありません。
 でも、そもそも生物学の領域ってもともとはそんなに目立つ分野ではなかったんですよね。他の理系分野は、ロボットをつくったり、病気の治療に役立ったり、実学の側面が強かった。でも、生物学の領域は特に人類の生活に寄与するような研究を残せなかった(少なくとも、世間では役に立っているという印象を与えなかった)。

 何が言いたいのかというと、文学も諦めなければ、いつの日か生物学のように陽の目を見る日が来るかもしれないということです。ある側面が注目されるということがなくも無い。文学が好きな僕としては、その側面を少しでも探ることによって、世間に文学が注目されるようなきっかけを作りたいと思うのです。


 文学の役割としてよく言われるのは、「人々を善くする」ということではないでしょうか。中国の有名な作家魯迅は、医者を志して日本へ来たと言います。ある日、中国の処刑場で同志が処刑されるのをただ見ているだけの中国人を見て、作家になることを決めたそうです。「医者は一人ずつしか救うことができないけれど、文学ならば、多くの人を一度に救うことができる」これが魯迅の思想でした。

 現代は、他のメディアが発展してしまったために活字を読む人が少なくなってしまった。文学の価値は下がったというより、「希釈されてしまった」という言い方が正しいかもしれません。時代が違えば文学によって救われていた人たちが、他のメディアに張り付いてしまっている。時代が違えば、魯迅は漫画家を志望していたかもしれません。

 もちろん、これは別に不幸なことでは無いと思います。というか、僕らはそういうものを文学の領域に取り込まなければならないと思うんですよね。ラノベだったり、漫画だったり、ネットに溢れている情報だったり。人間を感化する「言葉」あるいは「物語」これを全て包括して論じる必要があると思います。

 もちろん、これまでのように近代文学や古典文学について論じることは必要です。しかし、そこから離れた研究も必要であるでしょう。カジュアルな研究をすると周りから批判がある場合も多いですが、それを恐れてはいけない。現代に寄与するために、現代を研究しなくてどうなるのか(もちろん、「温故知新」も大切ですが)。

 どういう方法を使ってもいいのですが、問題は、「いかにして人間を救えるのか」ということ。文学作品や漫画に出逢って、救われた人の話って巷に溢れています。変な話、いかにして人を救うかの方法を考えるのが、研究としての文学かなあと思います。例えば、僕は太宰の研究をしたとします。太宰の思想に救われたことのある人はたくさんいる。しかし、反対に太宰の思想に害された人もいるかもしれない。そういう人を救うためには、太宰の思想を解釈しなおさなければならない。一方で、それまでの思想に救われていた人のために、他の解釈も残さなければならない。そうやって、解釈を積み上げていくことが文学研究ではないでしょうか。

 もちろん、自分の研究が必ずしも誰かのためになるとは限りません。これは数学に似ている。数学は、ある公式を作ったり、難問を解いたりしても、現代の技術に応用できることは少ない。実際に使われるようになるには、100年を要するものもあると聞きます。中には、全く役にたたないものもあるのではないでしょうか。

 学問研究って、そういうものだと思うんです。あるいは、「文化」がそうだと言っても良い。共産主義の研究やその実行としての運動が現代社会のどこに役立っているかって、役立っているようには見えない。しかし、人々の心に「共産主義」という選択肢が一応あることによって、少なくとも日本では「民主主義」という選択肢を採っている。つまり、無駄の積み重ねも全く無駄ということは有り得ないのです。

 ただ、こういうすぐに役に立つことのないものって研究する当人がそれを好きじゃないとできないし、市場経済にさらしてしまえば一発で淘汰されてしまうでしょう。まだ見ぬ未来のために、学問研究は守られなければならない。これは、文学だって例外ではありません。

 つまり何が言いたいかって、「文学」もある選択肢だと思うんです。文学部に来ても
就職にはきっと不利でしょうけど、もしかしたら文学が必要とされる社会が来るかもしれない。どういう社会って、僕には予想ができませんが……。でも、考えてみてください。100年前の人が、スマートフォンやパソコン、薄型テレビ、その他諸々のものがある社会を想像することができたでしょうか? 今後100年単位で、そういう変化が起こるかもしれない。文学が最重要課題になるかもしれない。

まあ、個人的にはとりあえず文学研究が何か仕事に役立てばいいなあと思うわけです。アカデミックな方面に進む人はほんのひと握りなわけで、大学の「就職予備校」的側面を否定することは最早できない。文学が生き残っていくためには、まず、その辺りをどうにかしなければならないのではないでしょうか?


長くなりましたが、これで終わりにしたいと思います。
あなたの考える「文学」の役割、あるいは意義とは何ですか? 是非お考えをお聞かせください。
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