2014/04/06 Category : 雑学 「見下すこと」は「逃げること」である。 みなさんこんにちは、あとーすです!「見下すこと」は「逃げること」である。最近、僕はこんな風に思っています。思春期、僕は劣等感を人一倍持ちやすかったように思います。その過程で僕は「見下すこと」を覚えてしまったのですが、本当にそれで良いの? と疑問に思います。あなたは、どのような人を見下しますか? もちろん、自分よりもある能力が低い人を見下すでしょう。でも、本当にそうでしょうか? 「能力が低い」という判断を下すための基準は、とても恣意的なものではないでしょうか。例えば、ある政党を支持している人がいるとします。その人は、自分と支持している政党が違う。そういうことだけで、「見下す」基準になり得るのではないでしょうか? 「ああ、こいつはわかってねえなあ」みたいな。その人と話してみて、相手の方が政治の知識があると知っても「いや、こいつは真理に気づいていない」という風に、見下すことで逃げてしまうことがないでしょうか?別に、政治の話に限らなくても良いです。自分がMacを使っていて、Windowsユーザーを馬鹿にするとか。Chromeを使っていて、IE使用者を馬鹿にするとか。もしかしたら、WindowsやIEを使っている尤もな理由があるのかもしれない。ただ、それを知ってしまうと、自分の優位性が崩れてしまう。だから、そこから逃げているのではないでしょうか?この見下して逃げるという行為は、劣等感とうまくつき合っていく上では重要なことだと思います。自分の気に入らないことに一々構ってもいられませんからね。ただ、重要な局面では、やはり逃げてはいけないと思います。そこで逃げてしまっては、何も学ぶところがない。学びたいと思ったときには、自分が見下しそうになる相手でも、学び取るところがないかと探さなければならない。……なんてことを思うのですが、僕が実現できているかと訊かれると胸の痛い話ですね。他人を見下す若者たち (講談社現代新書)posted with amazlet at 14.04.06速水 敏彦 講談社 売り上げランキング: 151,643Amazon.co.jpで詳細を見る PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword