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LiteraTech風見鶏

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【ゆる募】の内容。ざっくりバージョン

一人くらい反応してくれたら良いなあと思ってた上記のツイートに、数人からリプライが来たので、今ぼんやりと考えていることをここに書いておきます。本当にぼんやりですので、あしからず。

今はすっかり更新できていませんが、僕はLITECOというサイトを運営しています(このブログのサイドバーと記事下でめっちゃ宣伝してます)。

「文学を学ぶ学生の意識を向上させよう!」と思って、レポートやエッセイなんかを出してもらってたのですが、あまり活発にならないままここまで来てしまいました。

僕なりに考えた理由としては
①レポートを提出してもらってたのですが、ちょっとハードルが高かった(確かにちょっと恥ずかしい)。
②皆さん、だいたい一回きりしか出してくれなかった。
③寄稿者を大学生に限定していた。
④論じる対象を「文学」に限定していた。

という感じになります。

そこで、この反省点を踏まえまして、ちょっとリニューアルしてみようかと思っています。
①レポートではなく、コラム形式の記事を主体にしていく(もちろん、レポートや論文形式のものも受け付ける)。加えて、ニュース記事なんかも考えてます。
②継続的に書いてくれる方を募集する。
③寄稿者の属性を問わない。
④「言語・文学」に対象を変更する。場合によっては、その他の文化事象を論じても構わない。

と、いう感じにしたいと思います。
ちなみに、「文学」の範疇にはアニメとか演劇も含まれています。「言語」も加わったので、大学の文学科でやりそうなことは大体何でも書けると思って頂ければ大丈夫です。

コンセプトとして一つ考えているのは、「硬いものを柔く、柔いものを硬く」です。純文学をポップに語ったり、アニメをクソ真面目に批評したりしていただきたいです(語弊があったらごめんなさい)。もちろん、硬いものを硬く、柔いものを柔く書く人も探しています。

そんなわけで記事を書いていただける方を募集しているのですが、残念ながらお仕事ではないので、報酬は出ません。ただ、もともと収益出して雑誌化したいなあと考えてLITECOを始めたので、収益化する気はあります。そのときは、執筆者に対しての分配はあると考えていただいて結構です(その段階までいくかは分かりません)。

単純に面白そうだと思っていただけた方や、ライターって興味があるけど周りに書けるところがないなあという方は、ご参加いただければと思います。探せば、報酬が出るところは他にあると思います(たぶん)。

報酬が出ないので、代わりと言ってはなんですが、記事には執筆者を明記し、プロフィールなども表示させたいと思っています。自サイトなんかの宣伝をしてくださって結構です。また、所属団体なんかのPRを、記事として書いていただくことも可能にしたいと思っております。

しばらくはサイトに記事をアップしていく形でやりたいのですが、その形態は未定です。とりあえず無料で使えるブログから初めて、行けそうだと思ったらサーバー借りても良いんじゃないかなと思ってます。


最後に、求める人物像を書いておきます。
①継続的に書いていただける方。文字数は特に問わないので、週一ペースでアップしてくれるとサイトが活発になると思います。
②自分から企画の立案ができる方。サイトの運営について、「こういうのやろう!」と自主的に発言できる方が望ましいです。ライターだけではなく、一緒に運営してくれる人を探しています。
③毎日コミュニケーションが取れる方。理想は、「LINEでグループを作ってコミュニケーションをとる」です。

ただ、②については書くのだけやりたい方もいると思うので、ライターだけやりたいか、ライター・編集をやりたいかは最初に言っていただけると助かります。


まだ僕もどうするかほとんど考えていないので、今なら企画立案からばっちり参加できます。
一人ひとりが何か企画というかテーマを持って書ければ良いなあと思っていますが、まあその辺も応相談で。

僕も自分で言ってて頭おかしいんじゃないかと思うんですけど、「無報酬にもかかわらずしっかり書いてくれる人」を探しています。ただ、それもサークル活動や同人活動と同じなんだと捉えて頂ければ幸いです。


何か質問などありましたら、Twitterかメールにお願いします。140字に収まるようであれば、Twitterの方が反応良いです。あと、LINEは訊いてくれたら教えます。

Mail:atohslit1113@gmail.com


よろしくお願いいたします。
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リレー小説企画参加者募集。責任感のある人求ム。

リレー小説をやりたいなあと思い、募集をかけてみました。

予想以上に反響がきたので、早速やってみることに……。
以下、参加方法とその後の流れです。

なお、勝手ながら第一回の参加者募集は2014/12/31で締め切らせていただきます。
新年明けてから開始です。盛り上がれば、第二回も企画します!



①Googleアカウントを用意する。

Googleが提供するクラウドサービスGoogleDriveを使う為、Googleアカウントを取得してください。後にも説明しますが、チャットサービスのハングアウトも使用します。

ファイル共有やチャットなどでは、Googleアカウントに登録した名前が表示されます。本名を出したく無い方は、ハンドルネームでアカウントを取得するなど適宜対応をよろしくお願いいたします。

②あとーすにメールを送る。

僕のメールアドレスに、Gmailのアドレスでメッセージを送信してください。リレー小説用のファイルとハングアウトに招待します。

その際、Twitterアカウントをお持ちの方は、IDを記載してください。連絡などに使用する場合があります。
できれば僕のアカウント(@ATOHSaaa)もフォローしていただきたいです。企画参加者でフォローしていただいた方は、全員フォロバします。

アドレスはこちら。
atohslit1113@gmail.com

③リレー小説ファイルとハングアウトに招待。

メールを頂いた方には順次、リレー小説用のファイルとハングアウトへ招待いたします。

GoogleDriveでのファイル共有が久しぶりなのと、ハングアウトを使うのが初めてなので、多少まごつくところがあるかもしれません。ご了承ください。

GoogleDriveはブラウザ上で動きますし、スマホアプリがあります。ハングアウトもChromeアプリとスマホアプリがあります。どちらもスマホアプリのインストールをおすすめします。分からないことがあれば、メール(atohslit1113@gmail.com)かTwitter(@ATOHSaaa)まで。

④細かいことを決める。

一回500字以上で回す、ということしか決めていないので、細かいことを参加者全員で決めたいと思います。

ここで、チャットサービスのハングアウトを使います。重ねて申し上げますが、僕はこのサービスを初めて使うので、色々とトラブルが起こるかもしれません。知っている事がある方がいらっしゃいましたら、積極的に協力していただけると嬉しいです。

決めることは、どのくらいのペースで回すか(24時間以内と書いていましたが、その辺も調整していいと思います)、設定はどの程度決めておくのか(全く決めないの、アリだと思います)、順番はどうするのか、発表するか否か、発表するとしたらどこに発表するのか、などなど。

ここだけは主催者としてどうしても譲れないところなのですが、一次創作(オリジナル)でやりたいと考えています。

それから、いわゆる「最低限の小説作法」というやつだけは知っていて欲しいと思います。何だそれはという方は、そっと「小説 作法」でググッてみてください。

僕の方から、最低限決めなければならないと考えていることをリストにまとめておきます。

サクサクと決めてしまいたいので、会話の状況を見ながら、僕が決定していきたいと思っています。スムーズな進行にご協力ください。

⑤執筆の方法。

どういう風に執筆を進めるのか書いておきます。あくまで提案ですので、何かご意見がありましたらお願いします。


・自分の番が来たら、文章を書く前に誰がいつ書いたか分かるようにマーキングする。たとえば「あとーす」が「1月1日」に書いた場合は<あとーす0101>という風に書いてから自分の文章を書き始めます。以下のような感じになるかな?

<あとーす0101>
 その時、彼は眠っていた。…



<山田太郎0102>
 電車が通り過ぎると、そこにはさっきと変わらない夜が広がっていた。…




・書き終わったら、ハングアウトで「書きました!」と宣言をする。この宣言から24時間以内に書く、というルールにしようかと思っていたのですが、午前3時頃とかに宣言されると困るなあと思い、色々悩んでいます。

おしまい。決めることリスト。

上記のような流れでやります。僕の方で提案する、決めることリストを書いておきますね。

・文字数は本当に500字以上で良いか?

・時間制限は24時間で良いか? また、どこから起算するか。

・時間制限を守れなかった人に対してはどういう対処を取るか?(その回は飛ばして次の人、以降執筆禁止、など)

・執筆者の途中参加を認めるか否か

・執筆順はどうやって決めるか(くじ引きにしたいです)

・いかにしてリレー小説を終わらせるか(○○周したら、○○字を超えたら、など)

・この企画についてTwitterでつぶやくときに、ハッシュタグが必要ではないか(提案、#500RelayNovel)

・設定はどの程度決めておくか。

・完成した後、どこかに発表するか? その際、どこへ発表するか?(どこかのサイトに掲載が良いと思います)



以上。このくらいかな。
なお、作品の著作権は、著作者全員で保有することになりますので、無断で他のサイトなどへ転載することはお控えください。

分からないことや意見があれば、ガシガシTwitterやメールへ!
よろしくお願いいたします。

TVタックル「ロリコン&暴力 アニメに規制は必要か?」を見て

昨日、そろそろ寝ようかなあなんて思っていたら、TVタックルをやっているのが目についた。そういえば深夜の時間帯に移動したんだよなあと思いながらそれほど興味も無いのでチャンネルを変えようと思ったら、「ロリコン&暴力 アニメに規制は必要か?」について討論するという。

僕はアニメにも漫画にもあまり造詣が深くないのでいわゆるオタクかどうかは分からないが、少なくともオタク文化がそれほど悪いものだと思っていない。というか、その文化の中から面白い作品に出会った経験があるので、すげえ良いもんじゃんくらいに思っている。

で、一時間全部見たわけだけど、すごく面白かった。あの番組は見ていて笑えるので、テレビでの討論としてはレベルが高いと思う。あれを公式の場でやられたらおいおいと頭を抱えるところだけどね。来週のテーマは知らないけれど、また見ようかなあ。

ネットでも色々と波紋を呼んでいたようで。Twitterでウォッチしている限りでは、TVタックルを見て色々と意見を述べている人がいたし、RTも活発だった。Yahooリアルタイム検索もその後で確認したんだけど、上位はほとんどTVタックル関連のツイートで占められていた(結構ネタ投稿が多かったので安心した)。


さて、TVタックルを見て思うことを少し。
オタクは誰に怒るべきなのか? TVタックルという番組自体に怒っている人が多いけど、一応規制派と反対派に分かれて討論していたわけで、番組自体に怒るのはお門違いなのかなあって。まあ、視聴率が上がって悪いことはないんだろうけど。

ただ、TVタックルが悪いというのも分かるところがあって。討論以外のVTRの部分はオタクへの負のイメージが溢れだしている感じだった。冒頭のアニメ紹介で全部見たことのあるアニメは「まどマギ」だけだったけど、あれは暴力シーンが多いから人気だということになっていた。あれは美少女キャラものでありながら何か哲学的な要素が入っているから流行ったと思うんだけど、違うのかな。

確かにほむらが自分の頭を撃ち抜くシーンでどきりとしたので、あれが無くなったらつまらなくはなるんだろうけど、必須要素であったとは思わない。


そういえば、「ロリコン&暴力 アニメに規制は必要か?」というタイトルだったはずなんだけど、暴力についての発言がほとんどなかった。ロリコン(美少女)趣味に対することばっかりだったので、そこはがっかりだった。

まあ、それは置いておくとして。それじゃあロリコンに関することで話を進めてみよう。
見ていると、漫画における「エロ」を規制したいのか「ロリ要素」を規制したいのかよく分からなかった。

江川達也さんの発言を聞いていると、ロリコン的なものを質の良い漫画によって排除したいという感じだった。僕はロリコン的なものがなくなったら面白くなくなると思う。面白くなくなると思う人たちが、児ポ法に反対する人なのだろう。なんだかイケナイことをしているような気になるけれど、それが快楽装置として機能している以上、それは有用なものだから。

対して、それを規制しようとする人はロリコン的なものに嫌悪感を抱いている人々だろう。これは趣味嗜好の問題なので、説得することは難しいんじゃないだろうか。好きな人達は、感情論じゃなくて論理的に美少女漫画・アニメが犯罪の助長にならないということを語らなければならない。これは、とても難しいと思う。


規制派の出口保行さんが言っていたことはとてもシンプルで分かりやすい。美少女アニメをくり返し見ることによって、それが動機づけにつながるというのは筋の通った意見だろう。

それに対するネットの反論に「私はそういうものを見ても犯罪に走ろうと思ったことがない」というものが結構多いように思うのだが、これは違う。大多数は犯罪に走らないかもしれないが、やはりその中には犯罪をする人がいる、という論理なのだ。これだって妥当性があるかどうかは怪しいけれど、反証することは難しいし、少なくとも「私は~」の論理では反証したことにはならない。

それで、まあ美少女アニメが幼児に対する抑止材料になるということを数値的に証明することができたなら、もしかしたら児ポ法による規制を止めることができるかもしれない。感情論ではなくて、論理を組み立てることが大事なのだ。


このことについては、自分の中でもう少し意見を固めたいなあと思う。
ここまでの文章を読み返してみて、ううんと自分で首を捻る部分がある。

僕の基本的なスタンスとして、エログロは悪いものではないという認識がある。確かにそれを見て犯罪に走る人がいるかもしれないけれど、大多数はそれに刺激を受けて快楽を得て、また何かを創り出そうとするだろうから。

「ヘイ!!にゃん♡」「ワンピース心中」のMV監督 古賀学氏の魅力

まずは、二つのMVをご覧いただきたい。






僕は最近、さよポ二がちょっと気になり始めている。元々「いろはにほへと」が何となく良いなあと思っている程度だったのだけど、最近では他の曲もYouTubeに上がっているものを漁っている。そして、その中で最も衝撃を受けたMVが「ヘイ!!にゃん♡」だった。「ナタリー」とか「新世界交響楽」のMVみたいなセンスも好きなのだけど、インパクトはこのMVが一番だった。

だって、何よりとっても変態臭い(褒め言葉)。小学生の時に着衣水泳をしているときには何も思わなかったけれど、服を着て水に入るということは、何だかいけないことをしているようで、とっても変態臭い。しかし、確かにそこが可愛い。

で、変態臭いなあという旨をツイートしたところ、MV監督の古賀学さんにRTしていただいて、晴れて誰がこの超変態チックな発想をしたのかが判明したわけ。いやあ、素晴らしい!

そして、なんとんと、アーバンギャルドの「ワンピース心中」のMV監督でもあることがあることが発覚し、更に素晴らしい! というか、何でワンピース心中のMVを何度も見ているのに気付かなかったのだろうか…。

「ワンピース心中」はは題名からも分かる通り「心中」がテーマになっている。太宰治に関連する「玉川上水」とか「グッド・バイ」とか「斜陽」とかいうキーワードが出てきてとっても好きな曲なのです。

心中=入水 というのは、日本人のイメージの中にあるのでは無いだろうか。僕は今「自殺と文学」というテーマで色々考えているんだけど、このイメージは面白い。そして、「ワンピース心中」ではそのイメージ通りに、よこたんが水中で様々な自殺を試みているわけで。そのMVを実現できたのは、古賀学さんのおかげということなのですね。

古賀さんは現在取り組んでいる水中ニーソのPVも見たんだけれど、これもまた何とも変態臭い。もっともっと、この方面で活動を頑張ってほしいなあと思う。

カテゴライズする日本人

日本人はカテゴライズするのがとても好きである。それが日本人だけなのかどうかはしらないが、少なくとも日本人はカテゴライズするのが好きだと言っても差し支えないだろう。これは僕の経験則から言えることである。

ネット上で「マイルドヤンキー」という言葉を聞くようになって久しい。もっとも、あまり流行しないうちにこのまま消えてしまいそうな言葉だが……。
草食・肉食系というカテゴライズは割と流行ったように思う。歴女とか、森ガールとかもそうかな? 一瞬で消えたマシュマロ系女子なんて言葉もある。

まあ、こういう象徴的な名詞だけではなくて、僕らはいつでも人をカテゴライズしようとする。「あの人、結婚できなさそう」「あの人はそういう性格だから」などという風に個人を特定の枠にはめ込もうとする。

これは演劇や映画をしているとすごく重要なことで、ある人というものに役者をはめこまないといけないのだから、ある程度テンプレート化された人物像にはめこまなければならない。役者はその人物になりきろうとするため、その人物像を把握できていなければならない。もちろん、役者毎のスタンスの違いはあると思うが、僕が持つ少ない経験で見る限りは、そのキャラをカテゴライズしようとする傾向にある。

しかし、実際の人間はそうまとまった性格があるわけではないのだ。ということを漱石も『坑夫』の中で言っている。カテゴライズすることに果たしてどれだけの意味があるのか。人は日々の中で変わっていくものだから。

カテゴライズしようとする人は、少なからず人を見下す傾向にあるように思う。カテゴライズするということは理解するということである。ある一言で、その人のことを把握してしまう。本当はそんな一言で把握できるはずのものではないのに。その理解は、相手に対して失礼であるということを自覚せねばならない。自分がある一言で把握されたら、悔しくはないだろうか?

と言って、私もこんな風にカテゴライズすることはあるので気を付けなければならないとは思っている。対象として捉えるときはまだしも、普通の人間関係の中ではこういう感情から解き放たれたいものである。

性と死

人間にとって大きな関心事は、性と死に集約されるものだと僕は思っている。これは決して誤字ではない。もちろん、生への興味はあるのだろうが、それは死の反対概念として興味を持っているということで、死に包括される概念ではないかと思う。

性については、僕らは色々なレベルで物を考える。小学生の頃から下ネタを言っては喜び、アニメや漫画の中にも恋を扱うシーンは多く存在する。ミュージックシーンにも恋愛の歌が並び、純文学だって男女の問題について書かれていることが多い。

さて、ここに「男女」と書いた。もちろんこれは語弊があり、セクシャルマイノリティの人々はこれ以外の関係を気にすることになるだろう。しかし、セクシャルマイノリティでない人も、男ー男、女ー女の関係を意識する。男性に対する接し方と女性に対する接し方が違うという人は、程度の差はあれ多く存在しているのではないだろうか。

死の持つエネルギーも凄い。どうしてだか、人が死ぬと人間は泣き出しそうになってしまう。それは、いつか死ぬ自分を想像してのことなのだろうか? それとも、もうその人と会話できないという寂しさの為なのか。

ニーチェは神が死んだと言い、ロランバルトは作者が死んだという。原文から「死」という単語が使われていたのかどうかは知らないが、訳する過程でこの言葉を使われたにしても、「死」というフレーズのパワーによってこの言葉を使っているのだろう。

だから何が言いたいかというと、物語創作をする場合には常にこの要素を意識しなければならないのではないか、ということだ。短絡的発想ではあるが、この性と死についての問題を取り扱っていれば、物語は大体において面白くなる。
また、そういう短絡的発想から逃れようと思えば、この性と死の匂いを一切消し去ってしまうことも重要かもしれない。


と、こんなことを書くのは僕がもともと性について興味があり、死ぬ怖さがうまく克服できないところに端を発している気がするんですけどね。
しかし、僕はこれが重要事だと考えているので、僕は、これをテーマにして創作を続けていきたいなと思っている所存です。

イヨネスコの戯曲「禿の女歌手」を読んだ

演劇部の部室に別役実氏の戯曲がたくさんあるため、不条理演劇というものに少なからず興味を抱いていた。彼の著作である「さらだ殺人事件」を一度演じた関係もあり、それでいくともう少し興味を持ってもよかったはずなのだが、どうもその手の戯曲の積極的な読者になりえなかったし、進んで上演しようと言う気にはなれなかった。それは、不条理演劇というものの可能性を僕が見つけることができなかったからである。

先日、雨傘屋で天野天街氏が演出をつけた「禿の女歌手」を観劇した。天才だと思った。そして今また戯曲を読み返して、天街氏は天才だという気持ちをより一層強くした。

僕はきっと、この戯曲だけを読んでもつまらないと思っただろう。もちろん、認めるべきところはある。論理や因果についての懐疑という点で、不条理演劇の言わんとするところ(そういうものを排しているのかもしれないが)がなんとなく分かったような気がするからだ。

しかし、この戯曲が面白いかと訊かれれば、そうではない。それは、戯曲の宿命であるのかもしれない。演出がなければ、役者がいなければ面白いもの足りえないのかもしれない。特に、不条理演劇の場合はそうであろう。実篤の戯曲は、むしろ上演しない方が良いと思うけれど。そうえいば、戯曲だけを読んだことがあまりない。勉強せねばならない。

特に演出の力は偉大であると僕は感じた。同時に、演出の権限というものは一体どこまであるのだろうかと感じた。戯曲と読み比べてみると、話の大筋は一致しているが言葉自体はかなり書き換えられていることがわかる。僕が読んだ訳者とは違う訳というレベルではなく、もっと大幅に書き換えられている。作者の尊重というものは、果たしてどこまでなされるべきか。

まあ、面白いものを届けるという観点からいけば、面白くないものを尊重したってどうしようもないわけだけど。また、今回は言葉尻をとって心地よいリズムを奏でるという目的があった以上、書き換えるのは大成功に終わったといって良いでだろう。いや、本当に天才だと思った

僕も演出経験が一度だけあるのですが、あれは難しい。今回のを見て、もっと精進せねばと思った次第です。もっと、積極的に面白くしていかなければならない。脚本と演出は別であって然るべきなのですね。別にやる人が違う必要はないけれど、ある程度違う脳みそでやらないといけない。


演劇って難しいなと再確認。それはまあ、創作全般に言えることなんだけどもね。

LITECO掲載「物語の中身とは」を読んで

LITECOに掲載された「物語の中身とは」を読んで、考えるところ。
「物語の中身とは」については、こちらかどうぞ。
LITECO/物語の中身とは



中身のある/ない というような考え方は、そのまま物語が面白いかどうかにつながってくるように思う。もちろん、中身があるから面白い、というわけではないだろうが、基本的には、中身のあるものを面白いというのではないだろうかと思う。素人が書いてプロットが練りこまれていない小説よりも、宮部みゆきの上質な推理小説の方が、読んでいて面白いのは自明のことであろう。

もちろん、一見すると中身がないような小説もある。僕はカフカの『城』を読んだのだけれど、あれに中身があるとは思えない。もちろん、あくまでも僕は。その深層の方に中身があり、それを読み取れれば面白いのかもしれないけれど、それを読み取れない僕にとってはあまり面白いものではなかった。

しかし、そういえば音楽の歌詞って意味がないものが多いよなあと思っていて、そうすると、僕はなんであれを面白がって聴いているんだろうと不思議になります。もちろん、曲自体が良いからというのもありますが、訳が分からないけれど言語センスが良いから好きみたいなところはありますよね。

それから、不条理演劇って中身があるとは言えないはずなんですけど、面白い演出家さんだと非常に面白い。先日、雨傘屋さんのイヨネスコ「禿の女歌手」を観劇してきたのですが、とても面白かったです。

そうすると、中身がないからといって面白くないというわけではない。というか、芸術はそうあってはならないという風に思うんです。

それから、中身がない小説の例示がなされていないので(しづらいと思います)、何とも言えないところがあるんですよね。そこに中身があるのに、自分がそれを発見できず、結果的に中身がないという結論に至ったのかもしれない。あまりこういう論は好きではないのですが、文学から何かを読み取るためには、やはりある程度の経験とかスキルがいるような気がしています。エンタメ小説は、そういうことを排するのが使命なのですが、純文学系はそれを隠すことがある種美学であるよな気もして。

まあ、結局のところ、その小説に中身があるかないか、面白いか面白くないかというのは、他人によるといった方がよさそうです。これを言っちゃうとおしまいな気もするんですが……。

でも、皆違ってみんないいということこそ、文学や文化の真の姿であると思うんですよね。もちろん、影響力の大きいものだけが残っていくわけですが。


だいたいこんなところですかね。この論考は、なんだかもっと掘り下げることができる気がしています。
何か意見などありましたら、コメント欄にお寄せいただけると幸いです。

LITECO掲載「病と闘う小説はいかが」について

先日、LITECOというサイトを立ち上げた。
初日からUUが90人を達成するなど、スタートとしては上出来ではないだろうか自分で思っている。ちなみに、Twitterアカウントのフォロワー数が100人を超えたらツイキャスで「LITECO配信」と銘打って、掲載記事に対する批評なんかをやってみたいと考えている。


さて、本題に入っていく。今回はそのLITECO掲載記事第一号となった、かしのしゅうかさんの「病と戦う小説はいかが」を読んで思ったことを、つらつらと書いていこうと思う。


かしのさんは言う。「わたしにとって闘病小説ほど明るい文学は、純文学においては非常に珍しいとさえ感じているのだから。」
僕はこの言葉に衝撃を受けた。そして、読みすすめていけばこの言葉が別に奇をてらって言っているわけではないということがわかり、更に驚いた。僕自身、何であんなに読んでいて辛くなるような話を読むんだと感じていたのだが、この論考を読むと、見方が変わってきそうだ。

闘病小説とは、見えない敵との闘いの記録であると言えるかもしれない。病気というのは、正体がつかみにくいものだ。正体が完全に分かっているならば、それを治療(克服)することが可能であろう。これは、人生に似ているところがある。人生も正体というか正解が掴みづらいものである。正体など無いと断言しても良い。

また、かしのさんが使う「生への執着」というものも興味深い。僕は、人間の最大の関心事は「死」と「性」の二つにあると考えている。どのような小説も、基本的にはこの二つのものを取り扱わずにはいられない。人間は必ず死ぬし、必ず性に関して興味があるのだ(付け加えるならば、性に無関心である人でも、世の中の大勢の人が性に関して興味があるため、無関心を表明するために関心せざるを得ない)。

ありがたみが分かる、という言葉を使うと少し陳腐になってしまうだろうか。闘病生活をしている人はこんなに生に執着していても、生きることができない。だから、僕たちは生きなければならない。そんな教訓を読み取るのであろうか。何か違うような気がするが、近からず遠からずであろうと勝手に思っている。

僕は『一リットルの涙』なんかが辛くなって途中で見れなくなる性質なので、最後まで通して読むことは難しいかもしれない。しかし、読むのが辛くなるということを感じることも、また「生」に対して考えることになるのだろう。


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常体と敬体を使い分けるのってメンドクサイ

こんにちは、あとーすです!
最近すっかりブログがサボり気味になっていて、文章ってどうやって書いたらいいかわからない状況……。
まあ、もともと得意な方ではないのですが、それでも、言葉が出てこないのは辛いものがあります。


さてさて、今日は常体と敬体の話。
ちなみに解説しておくと、「常体」が「~だ・である」調で、「敬体」が「~です・ます」調になります。
僕は昔からこの使いわけが苦手で、ブログを書いていてもよく混同してしまいます。食べたものとかのレポートだと敬体になることが多いのですが、本の感想なんかは大抵が常体になっています。
しかも、一つの記事の中でこの二つが入り混じっている場合もあるので、本当、自分の文章能力の低さに驚かされます。

というか、記憶力が悪いのかもしれないとも思います。あるいは、注意力散漫なのか。自分がそれまでどっちの調子で書いていたのか分からなくなるんですよね。うーん、頭が弱すぎる。

別にブログを書く分には良いんですけどね。
このブログ、継続して読んでくださっている方々は微笑ましく見守ってくれていると思いますし、たまたま検索に引っかかって訪問してくださった方は、1記事読んだら帰ってしまうでしょうから。

ただ、レポートとかを提出する場合はいかんです。僕みたいに気を付けていない人は、そういう場合だけは本当に気を付けた方が良いです。
Wordに常体と敬体の混同を指摘してくれる機能とか付けてくれてたら楽なんですけどね。

僕の場合も、このブログは常体か敬体かどちらかに絞って書くようにすれば良いのですが、やはり食べ物なんかの感動は敬体でやんわりと伝えたいし、しかし、本の考察なんかは常体である程度的確に伝えたいし。でも、同じブログ内に混在しているのはあまり良くないよなあ。なんて、そんなことを考えています。

まあ、このブログはある種自分の実験場と考えているので、あまり気にしてはいないんですけどね。
ただ、そろそろこの辺でしっかりして、本気で色々な人と文章で対話したいという気持ちもあり……まあ、わがままなのですが。


とりあえず、しばらく常体で書いてみようかと思います(と言ってるそばから、この記事は敬体ですが)。
継続して読んでくださっている方がいましたら、これからも応援よろしくお願いいたします。




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鋭利じゃない刃物、とは何か

殺人事件では鋭利な刃物がよく使われる。刺殺のニュースが流れる度にセットで、僕らは「鋭利な刃物」という言葉を聞く。何気なく聞き流す言葉だけれど、僕の周りでは、この「鋭利な刃物」に関する論争が幾度となく行われてきた。

最初の論争は小学生のときではなかっただろうか。勉強もできて工作が得意で後にギターもこなすようになるめちゃくちゃ憧れの存在である僕の友達がいるのですが、その友人が突然聞いてきました。「鋭利じゃない刃物って、あるんかな?」と。

それまで、僕はそんなこと考えたこともありませんでした。「鋭利な刃物」という言葉を聞いて、ナイフの類を思い浮かべるのみでしたから、その対義的存在である「鋭利じゃない刃物」なんてものの存在に思いを馳せてみたことなんてなかったのです。

彼が言うには、そもそも「鋭利な刃物」というのがよく分からないということでした。鋭利な刃物と言われて、ナイフ以外のものは何があるのか。そもそも、刃物の定義は何か。鋭利であるから刃物なのではないか。鋭利でない刃物で人を刺せるのか。刺せないならば、鋭利な刃物なんていう必要はないじゃないか。等々。

その後、僕はニュースで「鋭利な刃物」というフレーズを聴く度、いつもこのことが気になってしまいます。近くに人がいれば、必ず「鋭利じゃない刃物ってあるのかな?」と聞いてしまいます。半ば病気じみてきました。

こんな風に長期間考えているのですが、なかなか納得できる解答に出会っていません。ノコギリは鋭利じゃない刃物になるのではないかということでしたが、ニュースでわざわざ「鋭利な刃物」という意味の説明ができません。ノコギリじゃ刺殺できないでしょう?


僕のこの長年の謎に解答を示してくれる方、いらっしゃいましたら是非よろしくお願いいたします。
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体罰を見せる、という暴力ー被害者は誰かー

みなさんこんにちは、あとーすです!
教職科目で体罰の問題を扱っていて、それについて少し興味があったので、少し書いてみようかと思います。

僕は、基本的には体罰に反対する立場をとっています。状況によれば許される、ということもあり得ないと考えています。まあ、どこからが体罰かということも曖昧な問題ではあると思いますが、その辺はまだわかっていないことが多いですね……。

さて、そんな体罰問題なのですが、今日聞いた話では「体罰を見せることも暴力になる」ということでした。最初は意味がわからなかったのですが、自分の経験に当てはめるとなるほどなあと思うところがあります。

僕が小学生の頃、担任がとても恐い先生でした。と言っても、滅多に怒鳴ることはしない先生なんですが、怒るとめちゃくちゃ恐い。

で、僕はどちらかといえば優等生タイプだったので、怒られるということはありませんでした。しかし、クラスの子の中には怒られる人もいるわけでして。そういうとき、その先生は大抵みんなの前で怒るのです。

怒られているのは僕ではないのですが、その先生の怒り方が恐いこともあって、僕はそれを漠然と「いやだなあ」と感じていた覚えがあります。関係のない人に精神的苦痛を与えることも、感が要によっては体罰になるのかなあと思います。

まあ、この行為が体罰に当たるかどうかは疑問ですけどね。どの程度の起こり方か、という問題もありますし、結論づけるのは難しいことです。ただ、少し考えてから行動したいところですね。


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「英語」を「漢語」に置き換えるという翻訳に意味があったのか?

みなさんこんにちは、あとーすです!
この記事では、西洋の知識移入の為に盛んに行われた翻訳と、それに伴う新たな訳語誕生について、思うところを書いていこうと思っています。




結論から言うと、僕は明治期の新訳語については、あまり意味がなかったのではないかと思います。「自由」や「経済」など漢語としての訳語が作り出されたわけですが、カタカナ語のままにした方が手間はかからないし意味も正確に伝わっていいんじゃないの? ということです。


明治期の知識人たちは、漢籍の深い教養を持っていた。それは、前近代の知識人としては当たり前のことだった、という認識を僕は持っています。その上で、更に蘭学や英学に優れている人が出てきた。こういう人たちが、翻訳に携わった。

そうして、「Liberty」を「自由」と訳し、「Economy」を「経済」という風に訳したのでしょう。しかし、例えば僕らが「自由」や「経済」という字面だけを見てその意味が判断できるならばいいのですが、別にそんなことはない。とするならば、別にカタカナ語として移入してもよかったのではないでしょうか。

「経済」の語源となった「経世済民」も、もともとはどちらかと言えば「政治」に近い意味を表す言葉だったようですね。そうすると、なおさら使い方がややこしくなってくるような気もします。


しかし、「自由」や「経済」などの訳語に僕はあまり意味を認めることができないのですが、ある面では大きな役割を果たしていると思います。

それは、例えば「酸素」や「窒素」、「炭素」といった類です。これらは確かに、語尾に「素」がつくことによって、見ただけで元素だということがわかる。英語ではこうはいかないので、確かにこれは頭いいなあと思いました。

また、学問分野にしても「化学」とか「生物学」とか、「学」をつけて言い表そうとするところも良いなと思います。ただ、それならば「化学」と「科学」は、紛らわしいので何か別の訳語を当ててほしかったなあと思います。


しかし、これら以外の場面では、やはりあまり意味がなかったと思った方がいいのではないでしょうか? 漱石にしても鴎外にしても、カタカナ語やアルファベットを使っている箇所が散見されます。これは、日本の訳語が不完全であることを認めていたためではないでしょうか? もしかしたら、まだ訳語が発達していなかったためにそういう使い方をしたのかもしれませんが……。


現在の日本人は、カタカナ語を使いすぎだと言われます。なんでもかんでもカタカナのままで使い、日本語にする努力をしないと。しかし、日本語にする努力をすることがそもそも良いことなのかについては、議論になり得ると思います。そして、僕はあまり必要のないことではないかと思います。

新たに漢語を借用して日本語に翻訳するのと、そのままカタカタ語として移入するのとでは、後者の方が手間が少ないですし、意味も変わらずに保てると思うのです。

「オランダ語 大学」でググってみた

皆さんは、オランダという国について、どれ程のことを知っていますか?
風車やチューリップが有名ということは知っているかもしれません。では、オランダ語のことは? オランダ語の単語を一つでも言える人が、一体どのくらいいるのでしょうか。

旅の指さし会話帳 (29)  オランダ  ここ以外のどこかへ!


大学には第二外国語というものがあります。初修外国語、という言い方もしますね。
日本の高校で学んだ多くの人が英語を第一外国語として、大学では更に新たな言語を学ぶことでしょう。
僕が通っている大学では、フランス語、ドイツ語、中国語、韓国語の4つのうちどれかを取らなければ卒業することができません。

また、このように必修の外国語以外にも、希望すればイタリア語やロシア語、スペイン語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語などの外国語を履修することができます。
僕の大学ではこれだけしかありませんが、外国語大にいけば、専門としてもっと多くの言語を学ぶことができるでしょう。


ところで、そういえばオランダ語をやっている大学生って聞かないなあと思い、「オランダ語 大学」でググってみました。
そうして検索した一ページ目に出てきた大学は、長崎大学と東京外大、それから九大の大学院のみ……。このうち、長崎大学多文化社会学科オランダ特別コースのWebサイトには以下のように書かれていました。

「オランダのことを人文社会学の様々な角度から学ぶ日本に唯一のコースで、1年間オランダに留学します。」

オランダに一年間留学するのもすごいなあと思うのですが、もっと重要なのは「日本に唯一のコース」というところ。そう、東京外大が講座が開かれるのみで、九大の方も大学院の案内。大学でオランダ語を学ぼうと思うと、その門戸はほとんど開かれていないのです。

さすがに東京外大にオランダ語専攻が無いわけないんじゃないかと思って検索してみたのですが、やっぱり見つからず……。


しかも、下の方に行って関連キーワードを見てみると、二つ目までは「大阪大学オランダ語」「早稲田大学オランダ語」なのですが、三つ目からは「外国語大学フランス語」「大学 ドイツ語フランス語」「フランス語大学」「専修大学フランス語」と言ったように、「フランス語」を含んだキーワードばかりが出てきます。
「オランダ」と「フランス語」……確かに口に出してみると、似ているような気もします。


日本とつながりのあるオランダ語

日本とオランダの関係は、今さら解説することも無いでしょう。
鎖国政策をとっていた江戸幕府政権下の日本において、日本の知識人たちは西洋の知識をオランダからの情報に頼らざるを得ませんでした。

さらに、鎖国が解かれて以降も、オランダ(というか、オランダ語)との付き合いは重要な意味を持ってきます。明治時代の文明開化のために必要なのは、何をおいても西洋の知識でした。漱石はこれを、「皮相上滑りの開化」とか「外発的開化」とか言うわけですが、鎖国を続けてきた日本にとって、やはり西洋の知識を受容して成長していくことは急務であったわけです。

そこで、洋書を翻訳する必要が出てきました。そのときに生きたのが、オランダ語の知恵なのです。僕は語学にあまり明るくないので分からないのですが、同じ西洋圏の言語だからか、オランダ語習得者にとっては、ゼロから学ぶよりも容易に英語を習得できたというのです。このように、日本の近代の発展に大きな影響を与えているのですが、日本ではあまり教えられることもなく、なんだか申し訳ないなあという気がするのです。

ちなみに、オランダ語の母語話者数は2300万人ほどなのだそう。まあ、日本の人口の5分の1にしか通じないと考えると、確かに実践的ではないのかもしれませんね。

文学にできることは、とりあえず諦めないこと?

文学にできることは何だろうか。文学を学ぶものにとって、いつでもモヤモヤとしていて答えの出ない議論だと思います。僕も、いつもこのことについて考えています。
というわけで、この記事では大雑把に「文学」について考えることを通して、できれば文学の役割を発見できればいいなあと思っています。

 その前に、ちょっと理系方面の話を。
 近年、生物学の領域が注目を浴びていますね。ヒトゲノムの解読に成功し、iPS細胞、STAP細胞など、新聞紙面を賑わす日も少なくありません。
 でも、そもそも生物学の領域ってもともとはそんなに目立つ分野ではなかったんですよね。他の理系分野は、ロボットをつくったり、病気の治療に役立ったり、実学の側面が強かった。でも、生物学の領域は特に人類の生活に寄与するような研究を残せなかった(少なくとも、世間では役に立っているという印象を与えなかった)。

 何が言いたいのかというと、文学も諦めなければ、いつの日か生物学のように陽の目を見る日が来るかもしれないということです。ある側面が注目されるということがなくも無い。文学が好きな僕としては、その側面を少しでも探ることによって、世間に文学が注目されるようなきっかけを作りたいと思うのです。


 文学の役割としてよく言われるのは、「人々を善くする」ということではないでしょうか。中国の有名な作家魯迅は、医者を志して日本へ来たと言います。ある日、中国の処刑場で同志が処刑されるのをただ見ているだけの中国人を見て、作家になることを決めたそうです。「医者は一人ずつしか救うことができないけれど、文学ならば、多くの人を一度に救うことができる」これが魯迅の思想でした。

 現代は、他のメディアが発展してしまったために活字を読む人が少なくなってしまった。文学の価値は下がったというより、「希釈されてしまった」という言い方が正しいかもしれません。時代が違えば文学によって救われていた人たちが、他のメディアに張り付いてしまっている。時代が違えば、魯迅は漫画家を志望していたかもしれません。

 もちろん、これは別に不幸なことでは無いと思います。というか、僕らはそういうものを文学の領域に取り込まなければならないと思うんですよね。ラノベだったり、漫画だったり、ネットに溢れている情報だったり。人間を感化する「言葉」あるいは「物語」これを全て包括して論じる必要があると思います。

 もちろん、これまでのように近代文学や古典文学について論じることは必要です。しかし、そこから離れた研究も必要であるでしょう。カジュアルな研究をすると周りから批判がある場合も多いですが、それを恐れてはいけない。現代に寄与するために、現代を研究しなくてどうなるのか(もちろん、「温故知新」も大切ですが)。

 どういう方法を使ってもいいのですが、問題は、「いかにして人間を救えるのか」ということ。文学作品や漫画に出逢って、救われた人の話って巷に溢れています。変な話、いかにして人を救うかの方法を考えるのが、研究としての文学かなあと思います。例えば、僕は太宰の研究をしたとします。太宰の思想に救われたことのある人はたくさんいる。しかし、反対に太宰の思想に害された人もいるかもしれない。そういう人を救うためには、太宰の思想を解釈しなおさなければならない。一方で、それまでの思想に救われていた人のために、他の解釈も残さなければならない。そうやって、解釈を積み上げていくことが文学研究ではないでしょうか。

 もちろん、自分の研究が必ずしも誰かのためになるとは限りません。これは数学に似ている。数学は、ある公式を作ったり、難問を解いたりしても、現代の技術に応用できることは少ない。実際に使われるようになるには、100年を要するものもあると聞きます。中には、全く役にたたないものもあるのではないでしょうか。

 学問研究って、そういうものだと思うんです。あるいは、「文化」がそうだと言っても良い。共産主義の研究やその実行としての運動が現代社会のどこに役立っているかって、役立っているようには見えない。しかし、人々の心に「共産主義」という選択肢が一応あることによって、少なくとも日本では「民主主義」という選択肢を採っている。つまり、無駄の積み重ねも全く無駄ということは有り得ないのです。

 ただ、こういうすぐに役に立つことのないものって研究する当人がそれを好きじゃないとできないし、市場経済にさらしてしまえば一発で淘汰されてしまうでしょう。まだ見ぬ未来のために、学問研究は守られなければならない。これは、文学だって例外ではありません。

 つまり何が言いたいかって、「文学」もある選択肢だと思うんです。文学部に来ても
就職にはきっと不利でしょうけど、もしかしたら文学が必要とされる社会が来るかもしれない。どういう社会って、僕には予想ができませんが……。でも、考えてみてください。100年前の人が、スマートフォンやパソコン、薄型テレビ、その他諸々のものがある社会を想像することができたでしょうか? 今後100年単位で、そういう変化が起こるかもしれない。文学が最重要課題になるかもしれない。

まあ、個人的にはとりあえず文学研究が何か仕事に役立てばいいなあと思うわけです。アカデミックな方面に進む人はほんのひと握りなわけで、大学の「就職予備校」的側面を否定することは最早できない。文学が生き残っていくためには、まず、その辺りをどうにかしなければならないのではないでしょうか?


長くなりましたが、これで終わりにしたいと思います。
あなたの考える「文学」の役割、あるいは意義とは何ですか? 是非お考えをお聞かせください。

j-cast【「Wi-Fi繋げばエロサイトみれるやん」 中高生はフィルタリング潜り抜けてアクセス】を読んで

ソースはこちら。
 →j-cast「Wi-Fi繋げばエロサイトみれるやん」 中高生はフィルタリング潜り抜けてアクセス


フィルタリング……成人して、そんな言葉とも縁遠い生活を送っていました。
僕は高校生のときに初めて携帯電話を買ってもらい、始めからフィルタリングはかかっていませんでした。フィルタリングをしてしまうと、当時流行っていたSNSが使えなかったから、両親に頼んでそうしてもらいました。

おかげで、随分と色々なサイトを僕は徘徊しました。なんか危なそうなサイトもいくつか見ました。あの頃って、色々な方向に対してエネルギーが有り余っているんですよね。それが思春期というものかなあとか思っています。

フィルタリングって、僕はてっきり端末の方で何かを設定するものだとばかり思っていたので、このような抜け道があるとは知りませんでした。
他にも対策方法はあるのかもしれませんが、確かに、今の時代は親世代よりも子世代の方が圧倒的にメディアに対して知識を持っている。「デジタル・ネイティブ」なんて言葉を目にするようになってからしばらく経ちますが、まさに彼らは情報端末の扱いに関しては、小さな頃から習得してきている「ネイティブ」なわけです。

ネイティブであるから、ある程度怪しいところとそうでないところの区別くらいつくんじゃないかなあとも思うんですけどね。というか、実地をしないと何が怪しいのかもわからないと思うんですよねえ。

ネット教育も、日本って全く充実していないと思うんですよね。と言っても、僕が中学とか高校で情報教育を受けたのは数年前のことになるわけですが、そこでメディアリテラシーについてなんてほとんど教えられなかった。

保健の授業で教えられる性教育って、実際の性となんか離れている感じがすると僕は思っています。それと同じ感じで、教育現場で教えられている情報の授業は、実際からとても離れているように思うんですよね。

これは、僕が大学で情報の教育を受けていても思うことで、もう少し積極的に突っ込んで授業していかないの? と疑問に思う部分が多々あります。

性教育についても、情報機器についても、多少の危険は伴っても実地が必要だと思います(もちろん、最大限失敗をしないようにフォローをするべきですが、実地の場を奪ってはいけない)。
最近は、危ないからと言って子どもを外で遊ばせない大人も多い。これも似たような問題であるように思います。多少怪我をしようとも、外で遊んで得られることは多いと思うんですけどね……。

急用でコンビニ電卓を買ってみたら、かなりの使いやすさだった

今日は仕事で電卓を使うのに、家に忘れてきた!
やばい、この時間じゃコンビニしか開いてないし…。

そんなことがあり、急遽近くのデイリーで電卓を購入しました。

それがこちら。



AURORA HC300TXです。
オーロラ。なんとなく高級そうな名前ですね。

こちらは700円ちょっとで購入しました。
100均でも買えるということを考えると、うーん、ちょっと高いという感じはします。

しかし、さすが値段分はあります。
細かいところでなかなか気が利いているのです。

まず、文字盤が大きくて打ちやすい。
しかも早打ち対応なので打ち損ないも少ないです。

さらに修正キーがあるのが嬉しいですね。
一つの数字だけを取り消したい時、100均の電卓では修正キーがないことが多いので困ることが多いです。
せっかくここまで計算したのに…!なんてこともなくなりますよね。

12桁まで計算できて、ソーラーパネルも付いているので電池切れの心配もありません。
確かに高いものは良いものですね…。

電卓カバーにはメモを挟める部分もあります。

そして何より、アンサーバー(いわゆる「=」)が大きいのが良い!
これが大きいだけで計算がはかどります。

よく見たらプラスの部分も少し大きくなっているし、オーロラさすがです。

サイズも手の平に収まるくらいで、携帯も楽々。そして信じられないくらい軽い!これには本当に驚きました。

コンビニに売ってある電卓も侮れませんね……。

茂木健一郎(@kenichiromogi)さんの連続ツイート第1179回「ビットコインは、リトマス試験紙」を読んで

茂木健一郎さんの連続ツイート、「ビットコインは、リトマス試験紙」を読みました。まとめられていますので、元のツイートに関してはこちらをご覧下さい。
 →茂木健一郎(@kenichiromogi)さんの連続ツイート第1179回「ビットコインは、リトマス試験紙」


ビットコイン、話題になっていますね。
僕もビットコインの存在を知ったのは結構最近のことで、知ったからといってその後の動向に注目することはありませんでした。

だって、なんだか常人には手を出せないような雰囲気がありましたからね。政府や裏付けを持たない仮想通貨。それだけで十分恐ろしい。いつ価値がなくなってしまうかわかりませんからね。
また、茂木さんも触れていますが、このビットコインは「採掘」というところに特徴があるんですよね。この辺をマスコミは報道していないように思うのですが、どうしてなんんでしょうか。ここを伝えなかったら、ビットコインの性格が見えてこないような気がするんですけどね。ただの仮想通貨だったら、WebMoneyを初めとして他にもたくさんあるじゃないですか。

と言って、採掘をするような仮想通貨はその後も続々出ているという話。その方面はあまり詳しくないので、ちょっと書くのは見送りたいと思います……。

それでまあ、ビットコインが果たして良いものなのか悪いものなのか。僕はあんまり好きじゃないですね。今後どうなるかは分かりませんが、やはり今はマネーゲームに使われているような印象があります。だから、僕は手を出すことができない。
結局、採掘というシステムがある以上、お金儲けの域を出ないような……というのは保守的な考え方なのでしょうか。未来を見据えれば、ビットコインのようなシステムは必要なのか。僕には決めかねるところです。

みなさんは、ビットコインに対してどのような考えをお持ちでしょうか。

太宰治のナルシズムは文学だからこそ許されたのではないか

例えば、太宰が現代に生きていたとして、「マジで恥ずかしことばっかりだった。若い頃からモテまくって、ピエロを演じてきた。腹が減るっていう感覚がわかんなかった。こういう俺って異常……」みたいなこと言ってたら気持ち悪いじゃないですか。いや、実際、太宰の思想っては気持ち悪いと思うんですよね。

もちろん、そこが評価されているところだとは思っていて、僕は太宰好きなんですよ。他人の気持ち悪いところ見るのって、楽しいといえば楽しいんですよね。人は誰しもほかの人と違う性癖があったり、異常な行動をとってしまった経験があるわけで。他人が同じような行為をしていることで、共感・安心を得るという流れはある。

でも、そういう気持ち悪い思想の垂れ流しって、太宰の場合は「文学」だから許されたわけです。そこにはちゃんと完成度があった。文学として一応完成されていた。そうじゃなくて、思想のダダ漏れだったら、やっぱり「気持ち悪い」という感情を抑えることはできない。

だから、Twitterで自分の特異な行動を晒すことというのは、ある種「気持ち悪いこと」だと僕は思うんですよね。「私は器用貧乏だから……」なんて言ってしまう人に、好感を覚えるかといえば甚だ疑問なのです。そりゃあ、自己分析が完璧で、その人が器用貧乏だとしてもですよ。生理的に「気持ち悪い」というのは払拭されない感情だと思います。

ただ、この「気持ち悪い」というのは僕の主観なのかなという気もしているんですよね。Twitterレベルでそういう行動をするのが、一種「文学的」な行為と言えるかもしれない。Twitterは文学なんじゃないかというのは「つぶやく」という小さな単位の文学という記事にしてみたのですが、確かにこの考えを僕は支持したい。僕は気持ち悪くてそれは文学じゃないと言いたいけれど、もしかしたらそれは文学かもしれない、みたいな。そういうことはあると思うんです。
生理的に無理ということでいえば、ちょっと僕はアングラ演劇は理解できないところが多いですからね(演劇を文学に含めるかどうかは、これを読んでいる皆さんの考えにお任せします)。しかし、あれはあの時代において、そして今でも立派に消費されていると言える。そして、Twitterでなんだか奇抜なことを言う人も、人気を集めて消費されている。それは、文学と認めてもいいのかなあという気がするんです。


最初と書いていたことと結論が逆転してしまった気もしますが…。
ただ、僕は基本的に文学は「エンタメ」なんじゃないかと思っている節があります。芸術である必要はなくて、社会的である必要もない。エンタメであればいいじゃないですか。「面白い」について科学する学問があってもいいと思うんですけどね……。まあ、文学ってやっぱり広範な概念なんですかね、と言った感じでお茶を濁しておきます。


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「人間は物語に恋をする」再考  乙武 洋匡氏の記事「佐村河内氏(名義)の作品を酷評する人々の心理とは」を読んで

先日、僕はアーティスト自体を好きになる人と、ある曲だけを好きになる人の違いは何か? 「人間は物語に恋をする」という記事を書きました。
このことについて、新たな知見を得られてような気がするのが、この乙武さんの佐村河内氏(名義)の作品を酷評する人々の心理とはという記事です。まずは、こちらを読んでみてください。

さて、僕は「物語」という言葉を使ったわけですが、乙武さんはもう少し洗練された言葉を使っていて、これを「コンテクスト」と表しています。そして、コンテクストがこれからのビジネスの中で重要だというのは、非常に的を射ている表現だと僕は思います。
アーティストにしてみれば、やはり毎回完璧な曲というのをつくるのは難しくて、「この人たちが作ったから好き!」と思ってくれる人を増やす必要があると思うんですよね。

だから、障害者でも健常者でも、それをどうにかして利用するのは倫理的に問題もありますしリスクもありますが、そういうコンテクストを利用するのは”アリ”なのかなあという気はしています。
もちろん、今回の佐村河内氏の問題についてはやはり「おかしい」という風に僕は思います。でも、この手のものって一種ばれなければいい話ではあるのかなあという気がします。これがバレなければ、佐村河内氏はある種人々の中でファンタジーとして良い物語を提供できていたわけです。それを壊してしまった、あるいは壊れてしまったことに問題があるのであって。まあ、こうなってしまった以上、しかるべき責任はとらなければならないという風に思います。倫理的問題・リスクがあることは承知の上での行動だったのでしょうから。

まあ、どうしても僕らはコンテクストから抜け出せないわけです。僕らが人に恋をするにしても、その人のコンテンツだけで好きになるのではなくて、その人と過ごした時間というのが多大な価値を占めているでしょう。そんなもんなのだと思います、人間なんて。だから葛藤も色々と起きるわけですが、「コンテクストは重要な位置を占めている」という言説で、少し折り合いをつけてみるというのはいかがでしょうか?


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茂木健一郎氏の連続ツイート「ランダムなゆらぎの中の、オリンピック」を読んで。

こんにちは、あとーすです!
ソチオリンピック、盛り上がっていますね。僕はそもそもスポーツにほとんど興味がないので、オリンピックについては朝のニュースで観たことを話題として消費するしかないのですが、今回は茂木さんが興味深いツイートをしていたので、それに対する見解みたいなものを書いていきたいと思っています。

茂木さんの連続ツイート「ランダムなゆらぎの中の、オリンピック」はTogetterにまとめられているので、まずはこちらからご覧下さい
 →茂木健一郎(@kenichiromogi)さんの連続ツイート第1172回「ランダムなゆらぎの中の、オリンピック」

前述したように、僕はオリンピックというものにほとんど興味を持っていません。だからこそ、この連続ツイートに共感するところが多いのかもしれません。
どこに共感したのかといえば、茂木さんの言葉を借りて言うならば、「人間の認知バイアス」と「オリンピックの過大視」の問題です。

僕は今朝、日本テレビのニュース番組を見ていました。
そこで、ハーフパイプ日本代表の十代の若者二人が銀メダルと銅メダルに輝いたことを知ったわけです。それって凄いことだなあとやっぱり思うわけです。
でも、なんだか不思議なところもあるわけで。その番組では、銀メダルを獲得した平野歩夢選手の経歴について紹介していました。どうやら、ワールドカップで優勝した経験があるようです。なんだか不思議だなあと思うのは、オリンピックでの優勝をきっかけに、ワールドカップでの成績を公開する、ということなんですね。ああ、やっぱりオリンピックというのは特別なものだという認識ができあがっているんだなあと思いました。

もちろん、オリンピックを過大視しているのは僕ら見る側だけではなく、参加する側も同じなのだと思います。そして、それが悪いことだという気は毛頭ありません。知名度的な問題からしても、そこを目指すのは当然なわけです。

話が少し変わりますが、先日、どこのテレビ局かは忘れましたが、競輪についての番組を観ました。その番組によれば、ほかのスポーツから競輪に転向する選手は多いということだそうで。それはやっぱり、食っていけないということがあるからなんですよね。

オリンピックを過大視するのは、この「食っていける」という視点もあるのではないかと思うんですよね。「知名度」というのは大きな武器です。個人にとっても、そのスポーツにとっても。そのスポーツを隆興させたいと思うのであれば、やはりオリンピックでの活躍というのは大事な要素になるのではないかなあと思うのです。


以上、簡単で拙いですが僕が茂木さんの連続ツイート「ランダムなゆらぎの中での、オリンピック」を読んでの感想でした。


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アーティスト自体を好きになる人と、ある曲だけを好きになる人の違いは何か? 「人間は物語に恋をする」

先日、友人と話していると、彼が次のような趣旨のことを言っていました。
「自分は特定のアーティストを好きになるわけではなく、曲を好きになるのだ」

この意見に、僕は少なからず同意するところがあります。
具体的な例は出しませんが、僕にもある曲だけが好きだけれど、そのアーティストの他の曲は好きになれないということは多々あります。
しかし、それでも僕はBUMP OF CHICKENやアーバンギャルなどのバンドが楽曲を出せば、それがどんな曲であろうとも僕はそれを必死で聴くことになるだろうと思うのです。

もちろん、BUMP OF CHICKENやアーバンギャルドが僕好みの良い楽曲を作っていることは確かです。しかし、その楽曲を果たして他の人たちがつくっていたのかと訊かれれば、疑問符がついてしまうような曲も多くはないですが、存在しています。でも、僕はそれでも曲を聴く。そして、そこに意味づけをしていく。このバンドが、この曲を出した意味。そうすることによって、僕はその曲に価値を与えているような気がするのです。

「物語に恋をしている」。そう言いたいと僕は思っています。そして、その物語とは、ここで言うならばそのアーティストなりバンドなりのことを指します。
価値づけという好意は、愛によって生まれるのではないでしょうか? 
例えば、付き合いたてのカップルは本当に純粋に相手のことが好きだから、いいところしか見えないから付き合うという契約が成立しています。しかし、これが時間が経ってくると、相手の悪いところも目についてきて、どうしてこの人と一緒にいるのだろう? と思うこともあると思います。ここでも大事なのは物語で、やはり過去のことを考えると別れ難くなるし、未来もその人とと一緒にいることを考えて「悪くないな」と思うことができれば、関係は続くのです。

つまり、あるアーティストを好きだということは、曲が好きだということと決してイコールではない。「今回はこんな曲をつくってしまったけれど、まだまだ応援しているよ!」なんて気持ちになると思う人がいる。そして、そんな曲を作ってしまったアーティストに対して同情をする。ネットで叩かれているのを見て、激昂する。それはやはり、アーティストというひとつの連続した物語に恋しているからこそ可能なことだと思うんですよね。

物語は過去であり、未来であり、また現在でもあります。人は持続性のあるものに惹かれるのですかね……。

「おもしろい」とは「理解」と「共感」の作用である

僕は所属している団体の都合上というか、自分の趣味の都合上というか、「おもしろい」ということがどういうことかを常に考えています。

例えば僕は熊本にいて様々なお芝居を観劇するのですが、その中でやはり相対的におもしろいものとおもしろくないものとの区別をつけていきます。

その区別をする際に、それではどうしてこれはおもしろかったのか、どうしてこれはおもしろくなかったのか、それを考えています。

それで、最近は「おもしろい」というのは「理解」と「共感」の作用ではないかなあと思うのです。

このうち、「理解」に関しては少し難しい問題かなあと個人的には思っています。少なくとも、僕は完全に理解しているわけではありません。

まず前提として、理解できないものはおもしろくないんだと思います。僕らが古文を読んで、なんだかよくわからないなあと思うのは、それは古文単語が分からずにそれが理解できないからでしょう。だから、古文は理解古文単語ができないうちは苦しいものなのです。

しかし、古文は古文単語がある程度わかってくると途端におもしろくなってくるんですよね。それは、これまで理解できなかったものが理解できることに伴うおもしろみだと思うんですよね。まあ、これは当たり前の話なんですが……。

さて、しかし理解が容易であるものというのも、これまたおもしろくないものなんですよね。
ドラマを見ていて面白いのは、その主人公が突飛な行動に出たり、心情が正確に読めなかったりするからなんですよね。

また、さっきの古文の例でいくならば、古文は少し苦労して読むからこそおもしろいのではないかと思っています。だって、古文って訳文を読んでいるだけだと以外と単純な話で面白くないという場合があるんですよね。

それに、僕らが延々と小学一年生の算数の授業を受けていても退屈するだけでしょう。そう、人間は理解しやすいこともおもしろくないと判断するのです。この辺は、勉強と似ています。脳科学者の茂木健一郎さんが昔言っていたのですが、飽きずに勉強を続ける為には、難しすぎず易しすぎない問題を解くことが重要なのだそうです。

つまり、最高におもしろいと思えるものは、自分が理解できるかできないかギリギリのところだということになるわけです。うーん、自分で言っててよくわかんなくなってきました。


さて、次は「共感」の作用について。
これは割と簡単なことかなあと思います。僕らは「共感」できるもののフォロワーになりたいと思うんですよね。あ、この人は自分と同じ感覚だ、というものには飛びついてしまうわけです。

例えば僕は、尾崎豊の何がいいのかというのがよく理解できません。しかし、当時はフォロワーが多かった。それは、同じように考えていた人が当時は多かったということを示しているのではないでしょうか?

また、僕は太宰治が好きなのですが、同時に、太宰治の考え方は気持ち悪いという人がいます。気持ち悪くなんかない!と声高に反論したいところなのですが、なるほど客観的に考えてみれば、確かに気持ち悪い面もあるかなあと思ってしまうのです。

しかし、それでもやはり好きなのは、僕が太宰作品の登場人物に感情移入してしまい、そしてその思想に「共感」しているからなんだと思います。その結果、それがおもしろいと思うし、好きであると思う。


とりとめもない話になってしまいましたが、これで僕の「おもしろいこと」に関する考察は以上です。
また思いついたら、書いてみようかなあと思います。