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「人間は物語に恋をする」再考  乙武 洋匡氏の記事「佐村河内氏(名義)の作品を酷評する人々の心理とは」を読んで

先日、僕はアーティスト自体を好きになる人と、ある曲だけを好きになる人の違いは何か? 「人間は物語に恋をする」という記事を書きました。
このことについて、新たな知見を得られてような気がするのが、この乙武さんの佐村河内氏(名義)の作品を酷評する人々の心理とはという記事です。まずは、こちらを読んでみてください。

さて、僕は「物語」という言葉を使ったわけですが、乙武さんはもう少し洗練された言葉を使っていて、これを「コンテクスト」と表しています。そして、コンテクストがこれからのビジネスの中で重要だというのは、非常に的を射ている表現だと僕は思います。
アーティストにしてみれば、やはり毎回完璧な曲というのをつくるのは難しくて、「この人たちが作ったから好き!」と思ってくれる人を増やす必要があると思うんですよね。

だから、障害者でも健常者でも、それをどうにかして利用するのは倫理的に問題もありますしリスクもありますが、そういうコンテクストを利用するのは”アリ”なのかなあという気はしています。
もちろん、今回の佐村河内氏の問題についてはやはり「おかしい」という風に僕は思います。でも、この手のものって一種ばれなければいい話ではあるのかなあという気がします。これがバレなければ、佐村河内氏はある種人々の中でファンタジーとして良い物語を提供できていたわけです。それを壊してしまった、あるいは壊れてしまったことに問題があるのであって。まあ、こうなってしまった以上、しかるべき責任はとらなければならないという風に思います。倫理的問題・リスクがあることは承知の上での行動だったのでしょうから。

まあ、どうしても僕らはコンテクストから抜け出せないわけです。僕らが人に恋をするにしても、その人のコンテンツだけで好きになるのではなくて、その人と過ごした時間というのが多大な価値を占めているでしょう。そんなもんなのだと思います、人間なんて。だから葛藤も色々と起きるわけですが、「コンテクストは重要な位置を占めている」という言説で、少し折り合いをつけてみるというのはいかがでしょうか?


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