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太宰治のナルシズムは文学だからこそ許されたのではないか

例えば、太宰が現代に生きていたとして、「マジで恥ずかしことばっかりだった。若い頃からモテまくって、ピエロを演じてきた。腹が減るっていう感覚がわかんなかった。こういう俺って異常……」みたいなこと言ってたら気持ち悪いじゃないですか。いや、実際、太宰の思想っては気持ち悪いと思うんですよね。

もちろん、そこが評価されているところだとは思っていて、僕は太宰好きなんですよ。他人の気持ち悪いところ見るのって、楽しいといえば楽しいんですよね。人は誰しもほかの人と違う性癖があったり、異常な行動をとってしまった経験があるわけで。他人が同じような行為をしていることで、共感・安心を得るという流れはある。

でも、そういう気持ち悪い思想の垂れ流しって、太宰の場合は「文学」だから許されたわけです。そこにはちゃんと完成度があった。文学として一応完成されていた。そうじゃなくて、思想のダダ漏れだったら、やっぱり「気持ち悪い」という感情を抑えることはできない。

だから、Twitterで自分の特異な行動を晒すことというのは、ある種「気持ち悪いこと」だと僕は思うんですよね。「私は器用貧乏だから……」なんて言ってしまう人に、好感を覚えるかといえば甚だ疑問なのです。そりゃあ、自己分析が完璧で、その人が器用貧乏だとしてもですよ。生理的に「気持ち悪い」というのは払拭されない感情だと思います。

ただ、この「気持ち悪い」というのは僕の主観なのかなという気もしているんですよね。Twitterレベルでそういう行動をするのが、一種「文学的」な行為と言えるかもしれない。Twitterは文学なんじゃないかというのは「つぶやく」という小さな単位の文学という記事にしてみたのですが、確かにこの考えを僕は支持したい。僕は気持ち悪くてそれは文学じゃないと言いたいけれど、もしかしたらそれは文学かもしれない、みたいな。そういうことはあると思うんです。
生理的に無理ということでいえば、ちょっと僕はアングラ演劇は理解できないところが多いですからね(演劇を文学に含めるかどうかは、これを読んでいる皆さんの考えにお任せします)。しかし、あれはあの時代において、そして今でも立派に消費されていると言える。そして、Twitterでなんだか奇抜なことを言う人も、人気を集めて消費されている。それは、文学と認めてもいいのかなあという気がするんです。


最初と書いていたことと結論が逆転してしまった気もしますが…。
ただ、僕は基本的に文学は「エンタメ」なんじゃないかと思っている節があります。芸術である必要はなくて、社会的である必要もない。エンタメであればいいじゃないですか。「面白い」について科学する学問があってもいいと思うんですけどね……。まあ、文学ってやっぱり広範な概念なんですかね、と言った感じでお茶を濁しておきます。


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