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「おもしろい」とは「理解」と「共感」の作用である

僕は所属している団体の都合上というか、自分の趣味の都合上というか、「おもしろい」ということがどういうことかを常に考えています。

例えば僕は熊本にいて様々なお芝居を観劇するのですが、その中でやはり相対的におもしろいものとおもしろくないものとの区別をつけていきます。

その区別をする際に、それではどうしてこれはおもしろかったのか、どうしてこれはおもしろくなかったのか、それを考えています。

それで、最近は「おもしろい」というのは「理解」と「共感」の作用ではないかなあと思うのです。

このうち、「理解」に関しては少し難しい問題かなあと個人的には思っています。少なくとも、僕は完全に理解しているわけではありません。

まず前提として、理解できないものはおもしろくないんだと思います。僕らが古文を読んで、なんだかよくわからないなあと思うのは、それは古文単語が分からずにそれが理解できないからでしょう。だから、古文は理解古文単語ができないうちは苦しいものなのです。

しかし、古文は古文単語がある程度わかってくると途端におもしろくなってくるんですよね。それは、これまで理解できなかったものが理解できることに伴うおもしろみだと思うんですよね。まあ、これは当たり前の話なんですが……。

さて、しかし理解が容易であるものというのも、これまたおもしろくないものなんですよね。
ドラマを見ていて面白いのは、その主人公が突飛な行動に出たり、心情が正確に読めなかったりするからなんですよね。

また、さっきの古文の例でいくならば、古文は少し苦労して読むからこそおもしろいのではないかと思っています。だって、古文って訳文を読んでいるだけだと以外と単純な話で面白くないという場合があるんですよね。

それに、僕らが延々と小学一年生の算数の授業を受けていても退屈するだけでしょう。そう、人間は理解しやすいこともおもしろくないと判断するのです。この辺は、勉強と似ています。脳科学者の茂木健一郎さんが昔言っていたのですが、飽きずに勉強を続ける為には、難しすぎず易しすぎない問題を解くことが重要なのだそうです。

つまり、最高におもしろいと思えるものは、自分が理解できるかできないかギリギリのところだということになるわけです。うーん、自分で言っててよくわかんなくなってきました。


さて、次は「共感」の作用について。
これは割と簡単なことかなあと思います。僕らは「共感」できるもののフォロワーになりたいと思うんですよね。あ、この人は自分と同じ感覚だ、というものには飛びついてしまうわけです。

例えば僕は、尾崎豊の何がいいのかというのがよく理解できません。しかし、当時はフォロワーが多かった。それは、同じように考えていた人が当時は多かったということを示しているのではないでしょうか?

また、僕は太宰治が好きなのですが、同時に、太宰治の考え方は気持ち悪いという人がいます。気持ち悪くなんかない!と声高に反論したいところなのですが、なるほど客観的に考えてみれば、確かに気持ち悪い面もあるかなあと思ってしまうのです。

しかし、それでもやはり好きなのは、僕が太宰作品の登場人物に感情移入してしまい、そしてその思想に「共感」しているからなんだと思います。その結果、それがおもしろいと思うし、好きであると思う。


とりとめもない話になってしまいましたが、これで僕の「おもしろいこと」に関する考察は以上です。
また思いついたら、書いてみようかなあと思います。
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