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心って「盗め」るの? 類義語「盗む」と「奪う」について考えてみた。

数日前に演習の授業で「ぬすむ」と「うばう」の違いについて考える機会を得まして。そこで色々考えたから、ここに書き留めておこうかなと今回はパソコンを立ち上げた次第。色々とメモしたプリントを眺めているんだけど、何を書いているのかよくわからない状態に……。まあ、頑張ってまとめてみることにする。

この記事を書くにあたって、ネット上で簡単なアンケートを取らせていただきました。ご回答くださった皆様、ありがとうございます! その結果については、途中の方で書きたいと思いますので、まあ他のところも読みながら待っててください。

ぬすめるもの、うばえるもの

さて、授業では「ぬすめるもの」「うばえるもの」「ぬすめるし、うばえるもの」の三種類に対象を分類した。両方できるものは、宝石、お金、自転車、美術品、車、などなど。ここで、ちょっと怪しいなという風になったのが「下着」。下着泥棒は下着を「ぬすむ」わけだけども、下着を「うばう」って何かちょっと変な気がする。

どうして変だと感じるのだろうか。下着を「ぬすむ」というと前述したように下着泥棒が想起されるわけだが、「うばう」だとどんな状況が思い浮かぶだろか? 穿いているパンツを無理やり脱がしているような感じがしないだろうか。そうなる状況というのはごく稀だろう(下着泥棒なんてよくあることだ、と言いたいわけではないけれど)。

ここで、「ぬすむ」と「うばう」の意味の違いが見えてくるだろう。「ぬすむ」はこっそりとやっているイメージがあるのに対して、「うばう」には強引にやっているイメージがある。これはまず基本的な違いとして認定しても良いだろう。

ただ、個人的には「こっそり奪う」とか「強引に盗む」ってそれほど不自然な表現なのかな? と思うところがあって。自分の言語直観が信用できないときは他の人に聞いてみるのが一番かなと思い、皆様にアンケートをとらせていただいた次第です。

アンケート結果

そのアンケート内容は以下の通り(属性を問うものと自由記述欄があったけど、省略します)。それぞれの質問に対して、「自然」「まあ自然」「やや不自然」「不自然」の4つの中から一つを選んで回答してもらった。


次の文章を読んで、あなたはどう感じますか? 4つの選択肢の中から最も適切なものを選んでください。
・彼はダイヤの指輪をこっそり盗んだ。

次の文章を読んで、あなたはどう感じますか? 4つの選択肢の中から最も適切なものを選んでください。
・彼はダイヤの指輪をこっそり奪った。

次の文章を読んで、あなたはどう感じますか? 4つの選択肢の中から最も適切なものを選んでください。
・彼はダイヤの指輪を強引に盗んだ。

次の文章を読んで、あなたはどう感じますか? 4つの選択肢の中から最も適切なものを選んでください。
・彼はダイヤの指輪を強引に奪った。


今回の質問は、意図がバレバレだったかなあと思います。あと、設問をもう少し増やせばよかった(後ほど書くけれど、抽象物だとまた違った感じになってくるので)。

で、結果は次のようになった。ちなみに、167人の方々にご回答いただきました。


こっそり盗む
自然81.4%
まあ自然12.6%
やや不自然4.2%
不自然1.8%

こっそり奪う
自然7.8%
まあ自然14.4%
やや不自然40.7%
不自然37.1%

強引に盗む
自然11.4%
まあ自然28.1%
やや不自然34.7%
不自然25.7%

強引に奪う
自然92.8%
まあ自然6.0%
やや不自然0.6%
不自然0.6%


結果はかなり予想に近いものになったかなあ、と。「こっそり盗む」と「強引に奪う」は自然に感じる人が多い。「こっそり奪う」と「強引に盗む」で比べると、後者の方がやや許容度が高い。

今回のアンケートの主眼は主に「こっそり奪う」と「強引に盗む」の許容度を調べてみることにあったんだけど、「まあそこそこ許容される」という感じに落ち着きそうだ。

自由記述欄を眺めてみると、それぞれの行動に対して想起した状況が違うようだ。「こっそり盗む」は「空き巣」みたいなイメージだろうけど、「強引に奪う」は強盗の現場を想像した人が多いはずだ。「こっそり奪う」とか「強引に盗む」が「自然」だと回答した人は、どういう状況を想像したのかとっても気になる。

こっそり奪う、強引に盗む

「こっそり奪う」が「自然」だと答えている方の感想を一つ引用させていただくと
盗んだは気づかれないようにというイメージで
奪ったはあまり関係ないイメージ

ということだった。勿論、「こっそり奪う」が「自然」だと答えた人が全員同じ考えを持っているわけではないだろうけど、これは面白い答えだと思う。この質問においては、「奪う」の方が上位概念だということになる。そこに「気づかれない」というファクターが加わったときに、「盗む」という言葉が使われるようになる。アンケート結果を見た限り多数派の意見とは言えないようだけれど、言われてみれば何となく分かる人も居るんじゃなかろうか。

対して、「強引に盗む」が「自然」だと答えた人は
奪うという言葉には静かさを感じない

と書いてくださっていて、ここから推察するに「盗む」の方が上位概念だと考えているようだ。「こっそり奪う」よりも「強引に盗む」の方が許容度が高かったことを考えるならば、「盗む」の方が上位概念であり、「奪う」を包括すると考えている人がやや多いのかもしれない。

「抽象物」について考える

さて、ここまで具体物について考えてきたけれど、少し抽象物についても考えてみよう。
というのも、「奪う」としか言えないものの中には抽象物が多いのだ。例を挙げると、権力、やる気、命、体力、自由など。

ダイヤの指輪は「盗め」るし「奪え」る。しかし、権力を「奪う」ことはできても「盗む」ことはできない。相手の知らないうちに自由を制限することに成功したならば、「相手の自由をこっそり奪った」なんて言い方もできるのではないだろうか。

このように、抽象物になると事情が変わってくるようである。具体物においては主に相手に「気づかれているか(こっそり)」「気づかれていないか(強引に)」に主眼が置かれていたけれど、それでは解決できない。

また、「盗む」ことしかできないものとして挙がったものに関しても抽象物が多い。曰く、データ、情報、アイディアなどなど。「データ」を奪うって何だかおかしい。

ここで、「盗む」と「奪う」が持つ共通の性質について確認しておきたい。おそらく、「他人のものを許可なくとること」という風にでもなるだろう。で、抽象物において違っていることは、「とった」ものが残るか否かということである。

データや情報、アイディアは「盗ん」だところで相手の元に残ったままだ。英語で言うならば「copy」に相当すると思う。対して、奪ったものは相手の元からは失われてしまう。

このことは、対象が「技術」である場合を想定すると分かりやすいように思う。「陶芸の技術を盗んだ」というと、弟子が師匠の手法を真似て自分のものにするような場合が想起される。対して、「陶芸の技術を奪った」というと、陶芸を生業としている人の腕を再起不能にしてしまったような場合が想定される。

「自分のもの」になるか否か

それから、抽象物を対象にした場合にはもう一つ違いが生まれる。それは、「奪」ったものは必ずしも自分のものにはならないということだ。「権力」なんかは奪っても自分のものになるけど、「自由」や「体力」「やる気」なんかは奪ったところで自分のものになるわけでは無い。先ほど例に出した「技術」の場合は、「奪う」と「盗む」でこの違いも顕著に出る。

この考察を通ると、「盗む」は「自分のものにすること」に主眼が置かれていて、「奪う」は「相手から取り去ること」に主眼が置かれていると言えるかもしれない。

「恋人」は盗めない

ここで一つ面白い例を紹介したい。「恋人」である。恋人は具体物だと思って差し支えないだろう。そう仮定するならば、友人から恋人をこっそりとった場合は「友人の恋人を盗んだ」と言わなければならない。しかし、「友人の恋人をこっそり奪った」と言った方がしっくりこないだろか(これをアンケートで回答してもらえば良かったと後悔している)。

これはどうしてだろと思ったんだけれど、どうやら人間に対しては「盗む」という言葉が使えないようなのだ。例えばペットショップから犬を「盗」んだと言うことはできるけれど、他人の家から赤ちゃんを「盗」んだということは言えないだろう。「誘拐」という言葉が一番しっくり来るかもしれない。

また、自分が可愛がっている犬ならば「盗ま」れたというのはいい難いのではないだろうか。となると、自分が愛情を注いでいる「動物」もこの範疇に入るかもしれない。ここで動物の大きさが問題になりそうな気がするが、食肉が前提の牛が「盗ま」れたというのはあまり不自然な言い回しではないように思う。

「盗む」と「奪う」の話からは少し逸れてしまったが、「盗む」の意味の確定に一歩近づいたように思う。

「目を盗む」「目を奪う」

慣用句的な使い方にも目を向けてみよう。対象を「目」としてみる。「目を盗む」と「目を奪う」では全く意味が違ってくる。

「目を盗む」というのは、「盗む」に含まれる「こっそりと」という意味を以て使われる表現ではないだろうか。「目を奪う」は相手の目を「支配下に置く」くらいの意味が含まれているように思う。類似した表現に「心を奪う」がある。相手の心を「支配下に置く」こと=心を「奪う」ことだと言うことができるだろう。

ところが、ここで困った例が出てくる。「心を盗む」である。銭形のとっつぁんが言っているのだから、これは不自然な表現だと一蹴することはできまい。CHEMISTRYにも「I steal your heart」という楽曲があるし、ちょっと立ち止まって考えてみる必要がありそうだ。

映画「ルパン三世 カリオストロの城」の終末部分で言う「奴(ルパン)はとんでもないものを盗んで行きました。……あなたの心です」という台詞はあまりにも有名だ。これはルパンが怪盗であり、「盗む」ことを生業としていることに掛けられている言葉だ。

「心」というのは抽象物である。心は「copy」して自分のものにすることはできないので、「盗む」というのはおかしな表現である気がする。「心を奪われた」というのもよく聞く表現だろうし、こちらの方が適当なんじゃないだろうか。ここで言いたいのは「心を相手の支配下に置かれた」ということを比喩して言ったものだろうから、それを考えればやっぱり所有権が移る「奪う」の方が良い。

あえて「盗む」を理由を考えるならば。ここでは「心」が具体物として捉えられているのかもしれない。ここで考えなければいけないのは、ここでは受身の形で「盗む」が使われいてる点だろう。「自分の心」というのはある程度輪郭がはっきりしているものだと考えられるので、具体物のように銭形警部は表現したのかもしれない。

よくよく考えてみれば、心を「盗ま」れたとか「奪わ」れたというのはかなり自意識過剰な表現だ。別にルパンはクラリスの「心」を「盗」んだとかば「奪」ったという自覚があるわけではないだろう。もしかしたらあるかもしれないが、少なくとも無かったかもしれないという可能性を考えることはできる。

もしも「盗んだ/奪った」方に自覚がないとするならば、「盗まれた/奪われた」方は勝手に「盗まれ/奪われ」ているのである。勝手に「支配下に置かれた」と思っているのである。「私はあなたのものよ」と思っているのである。末恐ろしい話だ。まあ、クラリスさんは勝手に「盗まれた」って言われているだけなので、末恐ろしくはないわけだけども。

なんか色々考えてみたけれども、「心」は「盗め」るということで良いと思う。ここまで読んで反論がある人は、コメント欄に書いていただけるとありがたいです。

コメントへのコメント

ここからは、自由記述欄に寄せられたコメントに僕のコメントを付けていこうと思う。勝手ながら、重複しているかなという質問に関しては割愛させていただきます。


”問5の文に関しては、盗まれた人物に対して強引に、ではなく、例えば強固なセキュリティなど困難な状況にも関わらず強行に盗みを実効した、という解釈で自然だという回答を選択しました。”

「強引に盗む」についてのコメントですね。「盗む」には「人に気づかれずに」という意味があることに気づかされました。


”こっそりと、ではないでしょうか?”

同じ箇所に疑念を持たれた方はあまりいらっしゃらなかったように思いますが、この「と」がどういう役割を持つのか気になってきました……。


”<こっそり>の場合、
盗むは密かに取る事なので、取られた相手がいない場所で指輪を取っていった。奪うは無理に取り上げると言う意味が含まれるので、相手がその場にいるイメージです。
<強引に>の場合、
盗むは相手がいない場合で強引にとなると、盗む場所に鍵などがかかっており強引に抉じ開ける。奪うは相手の認識下で物を取ったイメージになります。”

相手がそこに居る/居ない、相手に認識されている/されていない、ということが意味を区別する中心になっているようですね。


”設問の例文の意図通り、盗むは他者の目のないところで、他者に干渉されることなく行われる行為、奪うは他者の目の前、他者が干渉し得る状況で行われる行為のような印象があります。こっそり奪った、ですと第三者に見つからないように、という印象を受けますし、強引に盗んだ、ですと金庫などを無理やり開けて、というような印象を受けます。”

おお、バッチリ意図を見抜かれておりました……。


”奪うを使うと所有権が奪った側に移ったような印象になりました。”

この例文のように具体物に限って言うならば、所有権は動作の主体に移るような気がします。抽象物になると、「奪う」の方では所有権がどちらにもなくなるわけですが。


”ダイヤの指輪が指にはめてあるか、飾ってあるかの差で自然であるかの印象が変わりますよね。”

そういう風に状況を補完して読んで頂ければ、こちらの意図するところにかなっております。


”個人的見解ですが、「奪う」は見せつける、「盗む」は裏をかくイメージがあります。”

これも相手に気づかれている否か、認知されているか否かという話に関わってくるかと思います。


”「奪う」の場合は、その時奪う相手がこちらに気づいている、というイメージがあります。
一方、「盗む」はその時相手が気づいてないというイメージがあります。
それなのにも関わらず「強引に奪う」という言葉にあまり違和感がないのは「盗む手段」が強引であるととれるからだと思います。(見つかるリスクが高い中、強引に盗みに入る、等)
また「こっそり奪う」については、相手が奪われることに気づいている以上、「こっそり奪う」ことは不可能のため、違和感を感じたのではないかと推測します。”

僕はこの説明が結構しっくり来ます。この辺りが、「こっそり奪う」よりも「強引に盗む」の許容度が高いことにつながっているのではないかと推測します。


”どちらの言葉も「相手のものを取る」という意味合いですが、「盗む」は相手に気付かれないよう、「奪う」は相手が分かるところで無理矢理にという意味に私は捉えています。ここまで答えたあとで広辞苑を参照したところ、盗むには「秘かに」という意味が含まれていました。”

今回は、講義で全く辞書の類を参照しなかったため、あえて辞書は引かずに考えてみました。これを書いた後に色々な辞書に当たってみようかと思っているので、ドキドキです……。


”こっそり奪った、強引に盗んだ、はイメージと違うと思いましたが、読んでみると大した違和感もなかったので「まあ自然」としました。「盗んだ」と言った場合は単なる物盗り、盗むこと自体が目的。「奪った」と言った場合は、盗ることによって持ち主に何らかの害を加えてやろう、例えば「ぶん殴られた仕返しに盗ってやろう」みたいな感情が含まれる気がしました。特に「強引に盗んだ」「こっそり奪った」と言うと、文章としては変なのかも知れませんが、これで精々苦しめやーいやーい、みたいな意地の悪さを感じます。”

しかし、銀行強盗は銀行からお金を「奪う」けれど、別に相手に危害を加えるという目的があるようには思えません。「強引に盗んだ」は一生懸命さが感じられるので、「やーいやーい」が成立するかもしれません。「こっそり奪う」も同じことが言えますかね。


”「盗む」はスリや万引きなど人目に付かないところでの行為を指すように思います。ですので、「強引に」とはあまり共起しないように感じます。
一方「奪う」は、行為というより「人からモノが離れていく」という事象に焦点を当てた動詞だと思います。
「こっそり盗んだ」は「ものが盗られている状況を誰も観察しておらず、後から盗まれたことに気がついた」という状況を指すことも可能だと思います。
一方「こっそり奪う」の場合そのような解釈はできず、「モノが盗られている状況を誰かが観察しており、その様子がこっそりだった。」という解釈になると思います。”

日本語学に少なからず関心のある方からのコメントなのかなと感じました(これを読むまで、「共起」という言葉を忘れていました)。「奪う」が「人からモノが離れていく」事にフォーカスしているというのは的確だと思います。対象が中小物である場合の「奪う」と関連してくるところですね。「こっそり奪う」の説明における「誰か」というのは行為主体も含む、という考え方をするならば「友人の恋人をこっそり盗んだ」も説明がつきますね。

終わりに

不完全なところもあると思うけれど、今回はこの辺りでやめにしておきたいと思います。
何か思うところなどあれば、コメントによろしくお願いします。


また、他にもアンケートを取って言葉について考えたものがいくつか。お時間があれば、是非どうぞ。

「盗む」と「奪う」についてのアンケートのお願い

本日、講義で類義語「盗む」と「奪う」について扱う機会がありました。
そこで、自分の言語直観では解決できない部分があったので、皆様にアンケートを実施して、怪傑しようかと考えた次第です。

今回はブログに書くようの簡単なアンケートなので、身構えずにお答えいただければと思います(属性、自由記述欄を除いた質問は4つです)。

アンケートはこちらのリンクからよろしくお願いします。
「盗む」と「奪う」についてのアンケート



過去にもアンケートを行って色々と考えてみたものがあります。お時間があれば、こちらもどうぞ。

「土地勘」と「土地鑑」について

ニュースを見ていると、言葉について面白い発見をすることがある。数か月前、あれは通り魔事件についてのニュースだったろうか、テロップを見ていると、「犯人はこの地方に"土地鑑"のある人間で」という文字が躍っていた。

僕は「おや?」と思った。そりゃあ、僕だってトチカンという言葉くらいは知っている。しかし、それまで僕はこれに「土地勘」という感じを与えると思っていたから、変な感じがするなあと思ったわけで。

で、たまたま昨日もテレビを見ていたら、今度はテロップで「土地勘」と出てきた。おいおい、どっちが正しいんだよ、ということで少し調べてみた。

この手の問題はググったらだいたいすぐに答えが見つかるもので、今回も例外ではなかった。元々は警察用語として「土地勘」が使われていて、その誤用として生まれたのが「土地鑑」らしい。「土地鑑 土地勘」とググったらWikipediaのページが出てくるし、その他解説ページが出てくるので、読んでみると面白いかもしれない。

土地勘という言葉が誤用から来ているということはわかったので、この記事ではそれが正しいとか正しくないとか、そういうことは考えない。ここでは、その誤用がどのように使われているのかということを少し調べて、その結果を掲載しようと思う。

CiNiiで検索してみた

例えば同じ誤用でも、ら抜き言葉は目の敵にされることが多い。最近は容認論も広がってきているようだが、論文などで使うことは憚られるという人が多いようだ。でも、「土地鑑 土地勘」の誤用の話ってら抜き言葉よりも広まってないから論文にも使われてるんじゃないかなあと思って、「CiNii」で調べてみた。

それで、出てきた論文の数は23件。うーん、少ないといえば少ないのかな? 中には論文ではないものも含まれているので、実際に論文の中で「土地勘」が使われているケースは少ないのかもしれない。

一方、「土地鑑」はどうだろか。調べてみると、なんと83件!! ……と思ったら、83件全部が「土地鑑定」の一部として検索に引っかかっただけ。つまり、「土地鑑」という言葉が含まれる論文は、少なくとも「CiNii」には掲載されていないようだ。「土地勘」、なかなか根強く使われているみたいだなあ。

「土地勘 土地鑑」がどちらにしても論文には合うような硬い言葉ではない、ということかもしれないけれど。ちなみに、論文でよく使われそうな「跋扈」という言葉を打ち込んでみたら234件ヒットした。でも、ざっと見た感じだと学術雑誌はあまり多くないみたい。

Twitterで検索してみた

現代日本語の用例を探るのにTwitterで良いツールだよなあと常々考えているので、ここでもTwitterで検索してみることにした。

前段階としてGoogleを検索してみたところ、「土地勘」が約 824,000 件で、「土地鑑」が約 3,210,000 件。予想通り、前者の方が二倍くらい多い……と思ったら、後者の方がゼロ一つ多い! これにはかなり予想を裏切られた。ネット界隈では「土地鑑」の方が一般的な用語として認知されているのだろうか?

とりあえず、Twitter検索。2014/08/31 18:00~18:59までの「土地勘」を含むツイートは17件だった。それに対して、同じ時間帯での「土地鑑」を含むツイートは1件。これにはかなりの開きがある。

この文章を書いているのは8月31日の日付が変わりそうな頃なのだが、実はTwitterの検索窓に「土地鑑」と入れて取得できた最新ツイートが18:29のものだった。これを書いている間にも、「土地勘」の方のタイムラインはどんどんと流れて行くのに、「土地勘」の方はさっぱり動かなかった。

ちなみに、「土地鑑」で取得できたツイートは、2014/08/31のものは7件。これはかなり少ないと言っても良いんじゃないかなあ。

まあ、Twitterを遣っている人に若年層が多いからこういう誤用が多いのかなあという気もしてたんだけど、ツイートを見ている感じだけで判断すると、別に若年層だけが誤用しているわけではなさそう。反対に、若年層でも「土地鑑」を使っている人はいた。

僕が今回調べて面白いと思ったのは、Google検索とTwitter検索で顕著な差が出たということ。Google検索でヒットしたものを見ると、「土地鑑」と「土地勘」を比較した記事がどちらも多い印象だった。それから、「土地鑑」で検索すると辞書の類がわんさかヒットする。これがGoole検索のヒット件数が多い原因かなあと考えている。

用例jpで調べてみる


用例jpというサイトがあって、面白いので最近いろんな言葉を入れて遊んでいる。様々な媒体から入力した言葉の用例を拾ってくる検索エンジン。3000万の例文から集めているらしいんだけど、カバー範囲がよくわからないので用例の多寡を調べるのにはあんまり向いてないかもしれない。でも、一応検索した結果を載せとこうかと思う。

土地勘→169件
土地鑑→79件
だった。

下の方に行くと小説の用例が出てくるんだけど、やっぱり同じ作家は同じ表記で書く傾向があるみたい。例えば、森村誠一さんは「土地鑑」で通している。見知った名前でいくなら、乾くるみさんなんかは「土地鑑」でも「土地勘」でもひっかかった。「土地勘」サイドには筒井康孝とか安倍公房なんかの名前もあった。推理小説で「土地勘」という誤用が使われているという事がWikipediaかなんかに書いてあったような気がするけれど、東野圭吾とか宮部みゆきは「土地鑑」派みたい。この人たちは、警察小説を書くから取材が徹底してるのかもしれないなあ。

まあ、誰がどれを使ってるからと言って、何か言えることがあるわけでもないんだけどね。気になったら、検索してみると面白いかも。

どっち使っても良いと思う


以上、調べながら書き連ねてみた。別に調べて書いたから何か言いたいかっていうとそうではなくて、もう面倒くさいので好きな方使ったら良いんじゃないかなあということ。伝えたい意味は大して変わらないわけだし。「土地鑑」の方が正しいんだからそれを使うというのはそれでいいんだろうけど、「土地勘」の方が浸透していて分かりやすいというなら、それもそうかあという気がする。

ただ、「土地勘」と書いたときに「あー!それって本当は土地鑑って書くんだぜ!!知らなかっただろー!!!」と騒ぐ人は僕は嫌いです(高等な自己批判みたいになってしまった)。

若者言葉「さある」形について、アンケートのお願い

大学の期末レポートで若者言葉「さある」形の研究をしています。
名詞化する働きをする接尾辞「さ」+動詞「ある」の形をこう呼ぶこととします。近年、Twitterなどでこの形をよく見かけるので、調査してみようと思った次第です。

5~10分程度で終わると思いますので、「さある」形の使用実態に関する調査にご協力ください。
アンケート結果は研究に使用させていただきます。また、このブログでも結果については報告させていただこうと思っております。

何卒、よろしくお願いいたします。

アンケートはこちらからお願いします→http://enq-maker.com/7X3pO9Y

(2014年8月7日16:10追記:アンケートを締切りました。ご回答いただいた皆さん、誠にありがとうございます。結果の考察については後日報告させていただきます。なお、上記リンクはアンケート結果へのリンクへと切り替わりました。)

お湯は冷ましてから冷やせ!! 冷ますと冷やすの違いについて

みなさんこんにちは、あとーすです!

今日も授業で面白い話を聞いてきたので、それを自分なりに解釈して皆様にお届けしたいと思います。



今回は、類義語について。類義語について。例えば「暇」と「退屈」、「恋」と「愛」、「美しい」と「綺麗」などがそれぞれ類義語ということになるでしょう。ちなみに、Weblio大辞典によると、「類義語」という言葉の類義語は「同義語」になるのだそう。しかし、「同義語」の同義語が「類義語」ということはなくて……うーん、なんかややこしくなってきた。



さて、本記事で取り上げたいのは「冷やす」と「冷ます」という二つの言葉について。どちらも「何かの温度を下げる動詞」という点で共通しており、類義語ということが言えます。でも、全く意味が同じというわけではありません。私たちは、無意識のうちにこの二つを使い分けていますよね? その使い分け方の基準を探っていきたいと思います。


冷やすと冷ますの違いを探るために、まずはこの二つを使う言葉をリストアップしてみました。「冷やす」「冷ます」「どちらも使える」の三つに分類してみました。以下は、僕の行った分類です。思いついたままに書いてみたので、おかしなところもあるかもしれませんが、参考までに。

「冷やす」
・スイカ
・そうめん
・氷
・アイス
・リンゴ
・水
・ぬるま湯
・部屋
・空気

「冷ます」
・お湯(?)
・熱

「どちらも使える」
・身体
・パソコン
・焼きリンゴ
・牛乳
・2人の関係

ざっとこんな感じになりました。今読み返してみると、「冷ます」に分類しているものが少ないですね。個人的には、「冷ます」という単語の方が特殊な使い方をするような気がしていました。本当かどうかはわかりませんが。

さて、分類してみたはいいのですが、果たしてここに使い分けのルールなんてものがあるのでしょうか? みなさんも少し考えてみてください。「冷やす」はどのようなときに使い、「冷ます」はどのようなときに使うのか。

ちなみに、僕は以下のように考えました。

冷やす……元の温度に関係なっく、冷たいと感じるまで温度を下げる。
冷ます……元々熱いものを、熱くなくなるまで温度を下げる。


ここで、少し個別の例を見て行こうと思います。「冷やす」と「冷ます」は、どのような場面で使うのか。僕は「お湯」を「冷ます」でしか使わない言葉だとしましたが、果たして本当にそうでしょうか?

「お湯を冷ます」と「お湯を冷やす」。なるほど、確かに後者は不自然に聞こえるような気がします。しかし、例えばお湯の温度を急速に下げる必要があったとして、まだボコボコいってるようなお湯を冷蔵庫に入れるとします(とんでもない! と言われるかもしれませんが)。

この場合は、「冷蔵庫に入れて、お湯を冷やす」と言えるのではないでしょうか? 基本的に、お湯は「冷ましてから冷やす」という操作をすると思います。この辺に、「冷ます」と「冷やす」の違いが如実に出ているような気がするのですが、冷蔵庫に入れてお湯を冷やすということができるなら、なんだかややこしくなりそうな気がします。



授業で答えらしきものを聞いたので、それを書いていこうと思います。「冷やす」は終点が大事な言葉で、「冷ます」は始点が大事な言葉なのだそうです。「冷やす」は最初の温度に関わらず、冷たいと感じる点まで温度を下げます。「お湯を冷やす」と言う時には、お湯を冷たい水にまでするでしょう。氷を冷やす、というように元々冷たいものをさらに冷たくする場合もあります。



恋は冷めるけど冷えないなんだか、なるほどなあと思ってしまいました。そうすると、これは比喩的な意味の使い方にも影響を及ぼしているのでしょうか? 例えば、「百年の恋もさめる」というような言葉。「百年の恋も冷える」とは言いませんよね。

「冷ます」というのは始点が大事な言葉でした。つまり、あまり終点を想定しておらず、マイナスにはならないのです。恋という概念において、マイナスという概念はないのかもしれませんね。

ところで、「興奮」もさめるものですね。この場合も「冷める」と書くのでしょうが、恋でも興奮でも、「冷める」は「醒める」と通じているところがあるような感じがします。興奮も恋も、何かぼーっとした状況が続く。そこから「醒める」ということとダブルミーニングなのかなあと思いました。




さてさて、いかがだったでしょうか? 類義語というのは、使い方の区別が難しいものです。
また何か類義語について考えることがありましたら、ここに書かせていただきたいと思います!

「いただきます」の感謝の対象は何か

こんにちは、あとーすです。
先日、授業で「いただきます」という言葉について考える機会がありました。
僕たちは、一体どうしてご飯を食べる前に「いただきます」と言うのでしょうか?

親から教えられて、習慣になっているから。そう言えばそうなのですが、まあ、もっともらしい答えを探して、少し考えてみることにしましょう。

日本人はいつから「いただきます」するようになったのか
画像はイメージです。


ちなみに、その授業中に出た答えらしきもののいくつかは、以下の通り
・食材への感謝
・食べることができることへの感謝
・作ってくれた人への感謝
・もてなしてくれた人への感謝
・おごってくれた人への感謝

共通する感情は、「感謝」なのかなあということが見えてきました。確かに、食材にありつけた「喜び」を表すために言うのでもなければ、生命を殺してしまったという「悲しみ」から言うわけでもありませんよね。

とりあえず、この記事では「感謝」の気持ちがあるということを前提にして、話を進めていこうと思います。

「食材への感謝」という説明は、僕は説得力があるなあと感じています。
他の選択肢だと、「自分で料理を作った場合」に感謝の対象が消えてしまうからです。一人で食べるときはいただきますと言わないという人もいるかもしれませんが、僕は一人でもいただきますって言っちゃう派なんで……。

アメリカの映画なんかで、クリスチャンが食事をする前に神に祈りを捧げるシーンをよく目にします。あれは、神と命に感謝しているという解釈でいいのでしょうか? そうだとするならば、「いただきます」にあたる言葉がないとしても、共通する習慣を持っているということになる。

しかし、「いただきます」が「食材への感謝」だとするならば、おかしなことが起きてしまうのです。それは、「いただきます」とセットで使われる言葉です……。そう、「ごちそうま」

「ごちそうさま」は、漢字で書くと「ご馳走様」になります。「馳走」というのは、字面からもわかるように「走り回ること」を意味する言葉です。つまり、これは明らかに「作ってくれた人」あるいは「もてなしてくれた人」に感謝する言葉なんですよね。

「いただきます」と「ご馳走様」をセットにして考えるならば、対象はこの2つに限られてくる、ということにならないでしょうか?


奢ってくれた人に「いただきます」って言うのは、最近の風潮ではないかと考えています。多く見積もっても、100年以上歴史のある使い方ではないと思います(調べてみたいですね)。
どちらかと言えば「ごちそうさまです」と食べ始める前からお礼として述べる使い方もあるように思うのですが、いかがでしょうか。

何も考えないで、儀礼的に「いただきます」と言って食事を始め、「ごちそうさま」で終えますが、少し考えてみると面白い言葉ですね。

言葉の海を泳ぎきれ! 吉田裕子「大人の文章術」を読んだ

大人の文章術


あなたは今朝起きてから、どれほどの文字を目にしましたか?

TwitterでTLを追って、TV番組ぼテロップを目にし、雑誌を読み、新聞を読み、本を読み、標識を見て、お昼ご飯にふらっと入ったお店のメニューを見て……そして、この記事を読んでいる。

どうでしょうか。何文字ほど目にしていますか? 決して、100や200ではないと思います。
僕らは、常に文字と共に暮らしている。現代の文明は、文字でできていると言っても過言ではありません。

また、読む反面、僕らは多くの文字を書いています。Twitterで呟くこともあるでしょう。友人にバースデーカードを書く事もあれば、企画書を作ったり、レポートを書いたりすることもあるでしょう。僕はこうしてブログを書いているので、「書く」ということについては日々勉強を続けております。


その勉強の一環として読んだのが、この「大人の文章術」です。
著者の吉田裕美さんは東大の教養学部卒であり、予備校で現代文・古文を教えられています。

人の心に響く文章を書くためにはどうしたらいいのか? その問に対する答えがこの一冊に凝縮されています。
この記事も、そこで学んだことを意識しながら書いているつもりです(僕の能力が低くて、あまりいい結果が出ていませんが…)。


僕が最も目を惹かれたキーワードは、「シズル感」です。
ブログ記事でも、小説でも、エッセイでも、レポートでも。何を書くにしてもこの「シズル感」は大事だと言えます。

「シズル感」というのは元々、英語で肉の焼ける擬音語を焼ける音を表す言葉だそうです。転じて、「本能に訴えかける魅力」という意味があるのだと吉田さんは言っています。

僕の拙い例文で申し訳ないのですが、例えば、「あのライブすげえ良かった!」ではなくて、「バンドメンバーの魂が客に乗り移り、客の魂がバンドメンバーに乗り移ったような、天井の見えないグルーヴ感のあるライブだった」のような。具体的な言葉があったほうが、シズル感が増すようです。


この他にも
・難しい文章にならない為の方策は?
・すっきりとした文章にするには?
・文章にメリハリをつけるには?
などの様々な問に答えてくれています。

日本語で物を書く全ての人(もちろん、あなたもその一人です)に読んでほしい本です。
レポートも、企画書も、他の人から頭一つ抜きん出るチャンスかも……?


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「得る」は「える」なのか「うる」なのか。実態調査アンケートを踏まえて検証する。

こんにちは、あとーすです!
当ブログでは、以前このようなアンケートを取らせていただきました。
アンケートのお願い。「得る」の読み方について

このアンケートをもとにしたレポートによって、授業の単位を無事に取得することができました。回答していただいた方に、ここで重ねてお礼を申し上げます。ありがとうございました。

さて、今回はそのフィードバックということで、レポートにまとめたことを大雑把ではありますが、報告したいと思います。

長々と書きますので、結果だけ知りたいという方は最後の方の「まとめ」というところまで読み飛ばされることをオススメします。


「得」の活用について

話を始める前に、まずは「得」の活用についての予備知識を持っておかなければなりません。
「得」というのはそもそもア行下二段活用の動詞であり、「え・え・う・うる・うれ・えよ」という風に活用していました。同じように過去において下二段活用であった動詞は他に「経」や「受く」などがあります。

さて、このような下二段活用をする動詞は、そのほとんどが現代語では下一段活用に移行してしまっています。
「経」は「へ・へ・ふ・ふる・ふれ・へよ」と活用していたのですが、現代では「へ・へ・へる・へる・へれ・へよ」という風に活用します。
「受く」についても事情は同じで、「うけ・うけ・うく・うくる・うくれ・うけよ」という風に活用していたのが、現代語では「うけ・うけ・うける・うける・うけれ・うけよ」という風に活用します。

この流れでいくならば、「得」も下二段活用に移行して「え・え・える・える・えれ・えよ」となるのが自然です。
しかし、現代日本語でも「得」を「う」と読む人が少なからずいる。その理由は僕にはわからないのですが、とりあえずその実態を調査してみようということで、アンケートをとらせていただきました。



アンケートの内容

アンケートの詳しい内容については、こちらをご覧下さい。
「得る」の読み方についての実態調査アンケート

質問内容を大まかに言うと、未然・連用・終止・連体・仮定・命令のそれぞれの活用において、「支持を得る」というときのような本動詞的な用法と、「あり得る」のように可能を表す複合動詞的用法の二つについてどのよな読み方の違いがあるのかを調べました。

本来は世代間の比較もしてみたいと考えていたのですが、僕のTwitterのフォロワーの関係もあるでしょうか、10代・20代の人の回答がほとんどでした。さらに、10代・20代の間では調査結果に特に大きな違いが認められなかったので、世代間の比較は諦めることとしました。

また、性別間での違いにも注目してみたのですが、こちらも特に大きな相違はなし。よって、全体的な動向のみをここに記していこうと思います。

まずは、調査結果をグラフにしたものを貼っておきます。
質問内容は、上のリンクから確認してくださいますよう、お願いします。




ちなみに、問1~問3までの質問は、回答者の属性を調べるためのものであるので、このグラフには載っていないよ、ということをここに記しておきます。

さて、まずは問4・問5を見ていくことにしましょう。これは、未然形における使い方を調べたものです。問4では97.5%、問5では99.1%とほとんどの人が「得」を「え」と読んでいます。
問6・問7についても事情は同じようなもので、問6では99.7%、問7でも96.2%の人々が「え」と読んでいます。

これは予想通りの結果だと言えるでしょう。
というのも、未然・連用形はそもそも下一段だろうと下二段だろうと「え」と読むので、そもそも混同の余地がないのです。ここで「う」と読むのは、明らかに間違った使い方だと言うことができそうですね。


次に、問8~問11までをまとめて見ていこうと思います。
まずは問8に注目すると、終止形の「得る」は「える」と読む人が93.7%を占めているのですが、「うる」と読む人も5.4%いて、未然・連用の場合よりもわずかであるが多い。

下二段活用において終止形は「う」、連体形は「うる」です。対して、下一段活用では終止形・連体形ともに「える」と活用します。

ここで、問9を見てみましょう。「あり得る」の形だと、88.3%の人が「ありうる」と読んでいます。

終止形の方にも目を向けてみると、問10では「え」が91.5%で、「う」が6.6%。
問11では「え」が21.5%で、「う」が76.3%となっています。

少しわかりにくいので、表にまとめることにしましょう。
次の表は、問8~問11において「得」を「え」と読んだ人の割合です。
左上が問8、右上が問9、左下が問10、右下が問11にあたります。





これを見ると、問9と問11では10%の開きがあるので、確かだとは言えないが、それでも連体形と終止形の読まれ方には相関関係があるように思われます。
つまり、動作としての「得る」の場合は「える」と読むのに対して、複合動詞的に使うときには「うる」と読む傾向があるようなのです。

連体形は下二段活用では「うる」と読むので、「経(ふ)る」や「受くる」が「経(へ)る」や「受ける」に移行したことを鑑みれば、この動詞はまだ移行期間にあるということができるかもしれません。
しかし、終止形において「得る」を「うる」と読むのは、連体形と混同したことによる誤用ということができそうですね。下一段では「える」、下二段では「う」とならなければならないはずですから。
これは、現代の活用では終止形と連体形を区別する動詞が少ないので、そこから起こった誤用なのではないかと推測することができます。


次に、仮定形の考察に移っていこうと思います。
問12は「え」と回答した人が98.1%で、特に言及することもないかなと思います。ただ、問13は「え」と回答した人が52.1%、「う」と答えた人は42.3%と、差が小さいといえるでしょう。
仮定形において「得れば」を「うれば」と読むのは、下二段活用ならば正しい活用だということになります。しかし、終止形や連体形と同じように、「得」だけで使われるときには「う」と読まれることがあまりないようです。

ここまで見てみると、どうやら終止・連体・仮定形において、「あり得る」などの複合動詞的な使われ方をするときに、「得」は「う」と読まれる傾向にあるようですね。


最後に、命令形における使われ方を見ていこうと思います。
問14は「え」と読むと回答した人が98.4%とほとんどを占めており、予想通りの結果ということができます。
というのも、命令形は下一段でも下二段でも「えよ」と読むからです。

さて、問15については他の質問と違って、「どちらも不自然」の選択肢に多くの表が集まりました。
しかし、まあこれも予測していたといえば予測していたことで、「どちらも不自然」いう選択肢自体がこの質問のために用意されていたようなものなのです。

「あり得」と命令形でうまく活用できる例文がどうしても思いつかなかったのです。
どなたか、思いついたかはは僕にご連絡ください…。



まとめ

ここまででわかったことをざっくりまとめると
・「得」を「う」と読むのは、ほとんど終止・連体・仮定形のときに限る。
・しかし、仮定形は「え」と「う」のどちらも同じくらい存在する。
・終止形において、下一段では「える」、下二段では「う」と読むはずなので、「うる」と読むのは誤用だということができる(連体形との混同)

ということになりますかね。
ううむ、なんだかあまりわかったことが多くないような…。



今後の課題

問16に寄せられたコメントを頼りとして、このアンケートを振り返るとともに今後の課題を探ることにしたいと思います。あわせて、これをコメントに対する僕の答えとしますね。(全てに答えることはできませんが…)

まず、コメントで多かったなあと思ったのが「どちらも自然」という項目を設けてもらいたかった、というものでした。
問9、10、11、13などで、どちらも自然だと感じた人が複数人いたようです。
「どちらも自然」という項目をつくったのはもちろん意図があってのことで、「どちらがより自然か」ということを回答してもらいたかったためです。そこは、少し記述が不正確だったかなと思います。
「どちらも自然」という選択肢を作ってしまうと、終止形や連体形の場合はそちらにばかり票が集まってしまい、比較することができそうになかったものでして。

次に気になったのは、「起き得る」や「出来得る」という動詞の場合にどういった活用をするのか気になるというものでした。
ここは盲点でした。これは「あり得る」と同じように複合動詞的なものだと考えることができますが、僕の感覚でいえば、「出来得る」は「できえる」とは読まないですね…。
活用だけではなく、もっと別の視点から読み方を探らなければならないということがわかりました。近々、このことについても調査アンケートをしてみたいと思っています。
この辺りには他の動詞との混同があるような気がしているのですが、現段階ではちょっとどうなっているのか思いつかないので、今後の課題ですね。

それから、「うる」という読み方が古語的だと感じると、いう意見も多かった。高校の古典の授業なんかでは、「うる」と読んでいましたから、そのイメージが定着しているのでしょうか。
また、古語的だと感じることの関連していると思うのですが、「うる」の方が文語的でかしこまった言い方だと感じる人もいました。
確かに、くだけた場面では「える」を使い、かしこまった場面では「うる」を使うのかもしれませんね。また、書くときと話すときでも違うのかもしれません。この辺りの使い分けというのも、今後の課題としていきたいところです。



終わりに

まあ、調査・分析の結果はこのような感じになりました。
わかったことよりも今後の課題の方が多くなってしまったのですが、なかなか面白い調査結果が出て僕は嬉しく思っております。

ちなみに、僕は「誤用」という言い方を何度かしていますが、誤用が悪いと言っているわけではありません。それは、ら抜き言葉のときにも同じようなことを言っています。
「ら抜き言葉」は昨日的な言葉なのではないかという僕の考え

用語の使い方など、未熟な部分があることは承知しているので、何かありましたらご指摘いただけると助かります。
また、読んでみて考えたことなどあれば、是非ともお聞かせください!

大根役者の「大根」はどこから来ているのか

こんにちは、あとーすです!

最近は映画やドラマを観ることが多く、色々な役者さんの演技を見る機会があります。もちろん、うまい役者さんはうまいのですが、中には「大根だなあ」と思わず口をついて出てしまうような役者さんがいることも事実です。

ところで、僕は「大根だなあ」と何の考えもなしに呟くわけですが、この「大根」というのは一体なんなのでしょう。もちろん、「大根」というのは「大根役者」のことです。演技の下手な役者をこのように言うわけなのですが、どうして「大根」役者なのでしょうか?

「大根」を使った言葉には「大根足」というものがありますが、こちらは比較的意味が掴みやすいですよね。大根みたいに太いから大根足、ということで皆さん理解していると思います。
例えば、もし「大根足」という言葉を知らない人でも、他の誰かが「あの足、大根だよねえ」と言っているのを聞けば、「ああ足が太いんだなあ」とすぐに分かると思います。
しかし、「大根役者」という言葉を知らない人が「あの役者、大根だよね」と言っているのを聞いたとして、果たして意味が理解できるでしょうか? そう考えると、「大根役者」という言葉が不思議な言葉だということがお分かりいただけると思います。

どうして下手くそな役者のことを「大根役者」というのか。実はその語源には諸説あり、よくわかっていないそうなのです。
例えば、大根は白いですが、この「白」と「素人」の「しろ」を欠けているという説。演技の下手な役者が白粉(おしろい)をつけていたから、これと「白」をかけているという説。大根は食あたりすることがないので、あたることのない役者をこう言ったからという説。などなど、たくさんの種類の説があります。

ちなみに、英語圏で「大根役者」に相当する言葉は「ham actor」なのだそうです。ハム役者…。こちらもまた、語源があまり定まっていないということでした。


今回の調査にあたって、Wikipediaや語源由来辞典を参考にしましたが、Wikipediaとアンサイクロペディアの記事を読み比べるととても面白かったので、こちらも併せてお読みください。

 →Wikipedia/大根役者
 →アンサイクロペディア/大根役者

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よくわかる村八分

「村八分」という言葉を知っていますか?
大辞泉では、以下のように説明してあります。
江戸時代以降、村落で行われた私的制裁。村のおきてに従わない者に対し、村民全体が申し合わせて、その家と絶交すること。
つまり、集落の中で誰かを除け者にすることを「村八分」というわけです。
まあ、ここまでは知っている人も多いのではないでしょうか? 高校の日本史の授業なんかでも出てくる言葉ですからね。

しかし、どうして集落から除け者にすることを「村八分」というのかは知らない人も多いのではないでしょうか?

言葉で説明するよりも4コマ漫画にした方がわかりやすいかと思ったので、描いてみました。






火事は延焼の危険性があるために助ける。
葬式は、死体がそのままだと腐爛して伝染病の原因になるので助ける。
ふうむ、優しさで助けてあげるのかと思えば、意外と自己中心的なんですね。

しかし、村十分から二引いたから村八分……まあ、語源なんてこんなもんですよ。
ちなみに語源由来辞典によると、八分の内容は「冠・婚礼・出産・病気・建築・水害・年忌・旅行」なのだそうです。

現代では村八分という考え方時代がなくなってきているとは思います。しかし、本当に仲間はずれにされた場合には火事のときも葬式のときも助けてもらえなさそうのが怖いですね。

うっかり使ってない?「押しも押されぬ」という間違った表現

【押しも押されぬ】


「彼女は押しも押されぬ大女優だ」

なんだか聞いたことのある表現ですが、実はこれ、間違いなんです。

正確には、「彼女は押しも押されもせぬ大女優だ」





改めて言われてみれば確かにそうだ、と気づきますね。

この間違いは昔から見られていたのですが、近頃はテレビ番組ですら「押しも押されぬ」という表現を使っているケースがあります。
それほどまでに誤った言葉が浸透してしまっているのです。

ではなぜ、このような間違いが起こってしまったのか?
それには明確な理由があります。


実は、似た意味を表す言葉に、「押すに押されぬ」というものがあるからなのです。

・押しも押されもせぬ
・押すに押されぬ


確かに字面は似ていますね。
恐らく、この二つを混同してしまったことによって、先ほどのような混同表現が生まれてしまったのだと思われます。


言葉の意味ですが、広辞苑第六版によると

 押しも押されもせぬ 実力があって堂々としている。
 押すに押されぬ   争うに争われぬ。びくともしない、れっきとしたの意。

と記述されています。
他の追随を許さない、という意味では共通していますね。


ちなみにこの言葉に関しては、NHK放送文化研究所のHPでも取り上げられています。
興味のある方はぜひ一読なさってみて下さい。

NHK放送文化研究所のHP


「独壇場」は間違った書き方だった?!

彼はその舌鋒の鋭さによって、その場を独壇場としてしまった。

みたいな感じで、「独壇場」という言葉を使うと思います。
「どくだんじょう」と読みますね。意味は、ほしいままにするとか、独り舞台である、といったような意味です。

しかし、「独壇場」と書いて「どくだんじょう」と読むこれは、もともと間違ってものであるということを知っていましたか?

「独壇場」はそもそもは「独擅場」と書かれていました。
遠目に見るとなんとなくしか違いがわからないと思うので、少し大きくしてみましょう。

「壇」「擅」

前者は土へんで、後者は手へんという違いがあります。
土へんと手へんといえば、なかなか大きな違いがありますよね。
「堀」と「掘」を間違えてしまえば、あなたは非難されること必至でしょう。

前者の漢字の意味は分かると思います。「教壇」などの字で使われるように、一段上がったところや舞台を表す漢字です。

それでは、後者はどうでしょうか。
後者は「ほしいままに」と訓読みする漢字で、「独」と同じような意味を持つ漢字です。

つまり、そもそも「独擅」という熟語は「停止」や「柔軟」などと同類で、同じような意味の漢字を二つ重ねたものなのです。

一方、「独壇」の方は「壇」を「独」りじめする、とでも訓読しましょうか。
構成面から見ても、違う熟語になってしまっているわけです。

では何故、このような間違いが起こってしまったのでしょうか。
「堀」と「掘」は間違えたら非難されるのに、この間違いは容認されるに至った理由はどこにあるのでしょうか?

それは、「独壇場」という言葉が、「独擅場」という言葉の表すイメージに限りなく近かったからだと思います。

後者では、「場」をひとりじめにするというような意味です。
前者は「壇場」をひとりじめにするというような意味です。

僕らが「独壇場」というとき、それは「独り舞台」という風に換言できる場合がほとんどではないでしょうか。
ここに「独壇場」が容認されてしまった理由があるのだと考えられます。

この熟語については、辞書のほとんどは「独擅場」の方が正しいとしているようです。
しかし、もうほとんどの人が「独壇場」という風に使っているので、わざわざ正しい方を使うこともない気がします。もしかすると、奇をてらって知識をひけらかしているように見られているかも……?

しかし、このように間違いが容認されている言葉があることを理解し、正しい形を理解することは決して無駄なことではないと思います。


関連記事
 →likeとloveだけじゃない!英語で「好き」の表現いろいろ
 →「上には上がいる」は、間違った表現?
 →すぐに忘れてしまう人のために 「おざなり」と「なおざり」の違い

likeとloveだけじゃない!英語で「好き」の表現いろいろ




「好き」の英訳というとlikeまたはloveがよく挙げられますが、その他にも多くの表現が存在しますよね。

その例を簡単にまとめてみました。



be fond of      (likeよりやや強い)好き

care about      気遣う、大切に思う
cherish       大切にする・大切に育てる

have a tooth    (食べ物が)大好物である

habe a crush on    惚れ込んでいる
be crazy about    夢中である

adore        敬愛・崇拝する
dote on        溺愛する

favor         好む・贔屓にする


どうだったでしょうか。
likeとloveだけでなく、シーンに応じて色んな表現を使えると良いですね。


「上には上がいる」は、間違った表現?



「彼は相当な金持ちだと思っていたけど、上には上がいるんだな」

「上には上がいるものだ」


こんな発言、耳にしたことはありませんか?

<ある人が秀でていると思っていたけれども、それよりも秀でている人の存在が明らかになった時>
などによく使われる表現ですね。

しかし、「上には上がいる」という表現は辞書に掲載されていません。

広辞苑などに載っているのは
「上には上がある」
という句。


「いる」も「ある」も一緒じゃないか、という人もいるかもしれません。

しかし「いる」というのは動くものが存在していることを指すため、人間も含めた動物以外には適さないですね。

一方「ある」は全てのものに対し、存在していることを表現できます。
ここだけ見ると、「上には上がある」の方が汎用性があり、且つ正しい表現と言えるかもしれません。


ところが一概にそうとも言えないのです。

お気づきの方もいるかもしれませんが、かつて全てのものに対して使うことのできた「ある」という言葉は、現代において静止物の存在に限定して使用するようになっているのです。

「私には親友がある」ではなく、「私には親友がいる」と言いますよね。
人に対して使うときは「いる」の方が自然なのです。

「上には上がいる」という表現は辞書にこそ載っていないものの、人を指す時に使いたい場合は、現代語として考えると間違いとは言えないかもしれないですね。






「上には上がいる」という表現について考えてみましたが、いかがだったでしょうか。

現代語としては自然かもしれませんが、使用の際には「上には上がある」という慣用句も頭に入れておくと良いでしょうね。


すぐに忘れてしまう人のために 「おざなり」と「なおざり」の違い

「おざなり」という言葉と「なおざり」という言葉。
僕も未だに、どちらがどういう意味なのか覚えることがイマイチできません。
意味も似ていますし、字も同じ四文字がアナグラムになっているだけですし……。

他のサイトで見て使い分けは知っている!(つもり)の方もいるかと思いますので、忘れてしまってもう一度確認したいという方の為に、ここに書き記しておこうと思います。

まず、それぞれを感じで書くと
おざなり→御座なり
なおざり→等閑
となります。

漢字で書かれると字面が全然違うから分かりそうなもんですが、「等閑」を「おざなり」と読んでしまいそう……。

しかし、これをしっかりと覚えるためには、この漢字表記を生かして覚えるしかなさそうです。

「御座なり(おざなり)」というのは、その場(座)を成り行きに任せてしまうことです。
つまり、いい加減なことをしてその場を逃れようとすることです。

「等閑(なおざり)」は、何もしないことを表します。これを漢字から連想することは難しいので、「おざなり」の方を覚えてしまって、「なおざり」はそっちじゃない方という風に覚えた方がいいかもしれませんね。


例えば、「宿題をおざなりにする」と「宿題をなおざりにする」では、前者は適当にやってはいるのですが、後者は何もやっていません。
そのような違いがあるのです。

何か覚えやすい覚え方などありましたら、コメント欄にでも書いていただけるとありがたいです。もっとスパッと覚えられる方法ってないんですかねえ。

日本語の不思議…「に」と「には」

日本語において、「に」と「には」には不思議な役割があります。
その例を少し見ていきましょう。

(1)私には夢がある。
(2)君にこの問題は解けない。

(1)の主語は何でしょうか。
日本語では、主語に続くのは「は」と「が」ですから、当然「夢」のはずですよね。

(2)を同じ要領で考えると、主語は「この問題」。

しかし、何か違和感を覚えませんか?
(1)の主語は「私」で(2)は「君」ではないだろうか、と。


日本語だけをじっと見ていても混乱してしまうので、同じ内容を英語ではどう書くか考えてみましょう。

(1)私には夢がある。
→I have a dream.
(2)君にこの問題は解けない。
→It is impossible for you to solve the problem.

(1)の主語は「I=私」そして(2)の主語は「It(無生物主語)」ですね。

(1)の場合、英語の文法に誤りはありません。
主語、動詞、目的語という基本的な文章です。

では、日本語ではなぜ「私」が主語にならないのか。
それはもちろん、「ある」という存在動詞を使っているからです。

存在動詞は特定のもの・ことが存在していることを表します。
「私には~がある」では、どうしても「私」に「ある」というイメージを抱いてしまいますが、「ある」が指すのはあくまで「~が」の部分。

文法上では、「私」が主語になることは有り得ないのです。

しかし「私」を主語のように錯覚してしまうのは、「〜には」が主語に近いニュアンスを含むからなのではないでしょうか。
ここが日本語の不思議なところですね。


さて、(2)の話に移りましょう。

英語では無生物主語を使っていますね。
しかし日本語ではそういう書き方をすることはありません。

そこで「〜に」に主語のようなニュアンスを含ませて、「解く」という動詞と対応させようとしているのです。

無生物主語をとらない故、文法的にはちょっと混乱してしまうこんな文章が生まれるのです。


いかがだったでしょうか。
これはあくまで私の意見ですので、何かアドバイスがあれば気軽にコメント・リプライ等いただけると助かります。

読みやすい文章とは何かを考える 【まとめ】

「文章について考える」ということで三本の記事を書いてみました。
全体を通して考えたことも含めて、まとめてみたいと思います。


第一回 「ら抜き言葉」
 →読みやすい文章とは何かを考える「ら抜き言葉」

ら抜き言葉についてはこれまでも考えたことが幾度もあり、それがこの記事を書くきっかけとなりました。
個人的にはら抜き言葉は許容される言葉だと思っているのですが、確かに読んでいてら抜き言葉が気になる場面があることも事実。

三回全体を通して言えることですが、その言葉を誰に向けて書くか、どう思われたいか、というのは重要なことだと思います。


第二回 「差別的表現」
 →読みやすい文章とは何かを考える 「差別的表現」

差別は絶対に許されないことです。
しかし、差別的表現というのは、文章を書いたり読んだりすることを円滑にするうえで、ある種仕方のないところがあるのかもしれません。

英語のtheyをわざわざ「彼・彼女ら」という風に訳さなければならないのか? ということです。小さなことから変えることで意識は改革されるのかもしれませんが、現状としてはこのような小さな差別的表現を使うのは便利であると思います。


第三回 「ネットスラング」
 →読みやすい文章とは何かを考える 「ネットスラング」


最後に、ネットスラングについてかんがえてみました。
とりとめのない文章になってしまい、申し訳なく思っています。

ただ、本当に「寒い」という感じを取り除くことに執念を燃やす必要がるということは、ひしひしと感じております。

新しいことを生み出すためには、陳腐だと思われることを一切排除しなければなりません。



とまあ、こんな感じで三記事書いてみました。

文章をどう書くべきかということは、これからもずっと考え続けねばならないと思っています。
なので、何かご意見などありましたら、是非ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。

読みやすい文章とは何かを考える 「ネットスラング」

読みやすい文章を考える。第三回は、「ネットスラング」について考えていこうと思います。

なお、僕が思うネットスラングと皆様の考えるネットスラングには多少の開きがあるかもしれませんが、その辺は最初にご了承ください。

また、今回はブログやTwitterなど、軽めの文章について考えることが主になるかなと思います。


早速本題に入りましょう。
まず、主なネットスラングって何があるのかなあと考え、とりあえず検索して拾ってきてみました。

w(笑いを表すネットスラング)、kwsk、wktk、○○奴ww、微レ存、密林、虹、小並感、○○な件、etc...


他にも、一人称を「ワイ」だとか「漏れ」という風に書き表すのもネットスラングということができるでしょう。

これらネットスラングには、流行り廃りがあります。
今時wktkなんて使う人は滅多にみませんし、「○○な件」という言い回しも少し古くなってきたかなあという感があります。

これらの言葉を「時代遅れ」とみなす人々にとっては、これらのネットスラングは「寒い」と思われてしまう危険性があります。

自分の気に入っているフレーズは別として、僕も「今更こんな言葉使う人いるんだ……」と思う言葉がいくつかあります。

そのような言葉は、一つあるだけで文章全てをダメにしてしまう危険性があります。
適度に使えば、読みやすい文章になってネットスラングは便利なものなんですけどね。

例えば、笑いを表す「w」はかなり市民権を得ていて、(笑)よりも使い勝手がいいような気がします。
文章に簡単に変化を加えることができるので、便利ですよね。「!」や「?」と同じような感覚で使っている人も多いと思います。


「寒い」と思われない文章を書くためには苦労することが多いなあとネットスラングについて考えると本当に実感します。

Twitterでは、いわゆる「華麗なる公式」というものが流行りましたね。
あれも当時は話題性があってよかったのですが、今ではもう「寒い」感じが否めないのは僕だけでしょうか?
ネットスラング(というかネットで流行っているもの全般)を取り入れてネットで広報活動をするのはいいのですが、いささかネタが古い気もしています。

そんなんい新しいネットスラングが頻繁に生まれるわけでもないので、陳腐化するのは当たり前なんですけれどね。


と、なんだかとりとめのない文章になってしまいました。
まとめますと、ネットスラングを使うときはちょっと考えてみよう!ということです。

これで、三回にわたる「読みやすい文章について考える」は終わります。
尻すぼみになってしまった感が否めませんので、また考えがまとまりましたら、もう一度投稿してみたいと思います!

読みやすい文章とは何かを考える「差別的表現」

さて、読みやすい文章とは何かを考える第二回目ということで。
この記事では、「差別的表現」について考えていこうかと思います。

差別的な表現というのは、もちろんなるべく使われるべきではありません。
しかし、差別的表現にも色々な種類のものがあります。

例えば「めくらめっぽう」というような言葉を見かけるときがありますが、これも差別的な表現なんですよね。

「めくらめっぽう」は「盲滅法」と書きます。
何の見当もつけずに行動することを言うのですが、ポイントはこの「盲」という言葉。
これが視覚障碍者を指す差別用語とされているんですよね。

なので、盲滅法という言葉も差別用語になるっちゃあなるんですよね。
ただ、盲滅法という言葉で「めくら」を想像する人がどれだけいるのでしょうか。

そういえば高校生のときに読んだ芥川龍之介の『羅生門』では
「永久におしのごとく黙っていた」
なんて老婆の描写があったのですが、あれは問題ないんですかね。


女性差別の言葉
まあ、ここまで述べてきたようなことはさほど問題ではないかなあと思います。
僕もこのような表現はなるべく使わないようにしていますし、文章の読みやすさとは対して関わりがありません。

しかし、女性差別の言葉は便利だなあとも思うのです。
例えば、「彼ら」という言葉。
英語の「they」はこのように訳されることが多いですが、これも立派な差別用語だと昔から議論がありますね。

ただ、この言葉をもしも差別的なニュアンスなく日本語にしようとするのなら、「彼・彼女ら」という風にもなるでしょう。

僕はこの言葉は好きです。語感も良いですし。
ただ、それは小説や詩なんかでの話です。
ブログ団体紹介の最後の一文が「彼・彼女らの今後の活躍に期待したい」じゃやっぱり締まらないと思うんですよね。そこは「彼ら」だろう、と。



ひらがな表記
最近気になるのが、「障害者」を「障がい者」という風に表記する類です。
まあ、どうしてそんな風に表記するのかなんてことは、もう説明もいらないことでしょう。

僕はこの表記方法にやはり疑問を感じざるを得ません。
ら抜き言葉よりも、こっちの方がよっぽど読んでいて引っかかります。

それならむしろ障碍者と表記するのがすっきりするとも思うんですが、まあ、常用漢字外じゃ仕方ないかなあというところでしょうか。

女性差別の表現も含めて、やはり「言葉くらいで何が変わるの?」と思ってしまう気持ちが私にもあります。
慣習を破ってまで、読みにくい表現をする必要があるのかどうか。

でも、確かに言葉の力を信じている人間としては、言葉によって何かが変わるような気も一方ではしているんですよね。

小さなことから積み重ねていくことは何事でも大事なことだと思いますから、まずは言葉から、まずは意識から、としていくことは確かに重要かも……。

まあ、読みやすさを損ねるんじゃないかという点は譲りませんけどね!
ここらへんをどう使い分けていくのか(あるいは一方を全く使わないのかということも、文字を書く人間にとっては重大な課題となりそうですね。

読みやすい文章とは何かを考える「ら抜き言葉」

様々な種類の文章を書いていると、「読みやすい文章」とは果たしてなんだろうかと思うことがあります。
例えば、泉鏡花の文章を私は進んで読みたいなあと思うことはありません。何言ってるかよくわからないからです。

以下に、彼の代表作である『高野聖』の冒頭を引く。

参謀本部編纂の地図をまた繰開いて見るでもなかろう、と思ったけれども、余りの道じゃから、手を触るさえ暑くるしい、旅の法衣の袖をかかげて、表紙を附けた折本になってるのを引張り出した。
 「飛騨から信州へ越える深山の間道で、ちょうど立休らおうという一本の樹立も無い、右も左も山ばかりじゃ、手を伸ばすと達きそうな峰があると、その峰へ峰が乗り、巓が被さって、飛ぶ鳥も見えず、雲の形も見えぬ。
 道と空との間にただ一人我ばかり、およそ正午と覚しい極熱の太陽の色も白いほどに冴え返った光線を、深々と戴いた一重の檜笠に凌で、こう図面を見た。」
 旅僧はそういって、握拳を両方枕に乗せ、それで額を支えながら俯向いた。
 道連になった上人は、名古屋からこの越前敦賀の旅籠屋に来て、今しがた枕に就いた時まで、私わが知ってる限り余り仰向けになったことのない、つまり傲然として物を見ない質の人物である。


これはまだ読みやすい方である。
もちろん、当時の人々にしてみれば、これがよみやすい文体だったのかもしれない。
しかし、現代に生きる私にしてみれば、この文章を「味わい深い」と思うことはあっても「読みやすい」と思うことはない。

純文学ならばまだ読みにくくてもかまわないかもしれないが、大衆文学ともなるとそうも言っていられない。
どんな人にでも読んでもらえることが第一だからである。

それがブログなんかになったら、もっと人に読んでもらえる「読みやすい文章」を志向することが重要となってくる。

そこで、当ブログでは何回かにわけて、読みやすい文章とは何かということについて考えてみたいと思う。


第一回は、「ら抜き言葉」について。

ら抜き言葉については、以前当ブログでも自論を展開し、多くの反響をいただきました。
 →「ら抜き言葉」は機能的なのではないかという僕の考え

この記事でも述べているように、僕自身、ら抜き言葉は機能的な言葉だと思っているわけです。
しかし、現段階では正しい日本語ではないことも認めます。

では、「読みやすさ」ということを考えたときに、ら抜き言葉を使うことによる功罪について考えてみたいと思います。

まず、ら抜き言葉は口語的な言葉であるため、親しみが持てる文章になると思います。
レポートや先生へのメールなどではら抜き言葉を意識的に使わない人でも、SNSや友人へのメールなどでは、無意識にら抜き言葉を使う人もいると思います。

「今日楽しみにしてたテレビが見れなかった……」
「限定シュークリーム食べれなかったー!残念!」
などなど。

見られなかった、食べられなかったよりも、よりも親しみのある文章が書けると思うのですが、皆様はどう思われるでしょうか?

ただ、もちろん弊害もあります。
ら抜き言葉は本来の日本語てはないということに囚われ(ここではこういう言い方にします)、ら抜き言葉が出てくる度にひっかかってしまうという人も少なからずいるということです。

その気持ちは僕にもわかります。
単純なタイプミスや漢字の間違いが気になることというのは多々ありますからね。ら抜き言葉嫌いの人にしてみれば、それも「間違い」の一つなのでしょう。

というように、ら抜き言葉を使うことには一長一短があるように思います。
書く相手を考えて、使い分けるといいかもしれませんね。

その年初めての性交渉のことを「姫始め」という。由緒正しき淫語?!

この前Twitterを眺めていたら、「姫始め」がどうたらこうたらとつぶやいている人がいました。
「姫」ってなんだか可愛い言葉なのでどんなことをするのかなあと思ったので、調べてみました。

最初はね、新年初めて化粧をすることなのかなあと思いました。
化粧は女の子の特権ですよね。あれこそまさしく姫を作り出す儀式だと思うのです。

しかし、どうやら事実は違ったようです。
想像したものよりも全然かわいくなかった。

Wikipediaのページを見てみると、新年初の性交渉のことを「姫始め」というのだそう。
しかもこの言葉、そんじゃそこらの淫語とは違って、昔の書物にも載っているみたいです。

あまり有名な言葉でもないような気がするので、「姫始めわず!」なんてつぶやいても、何をしたかばれなさそうですね!
誰かやってみたら、僕に教えてください……。

「時雨」と「夕立」ってどっちも急な雨のことだけど、どう違うのか。

今日は母親と買い物に行ってきたのですが、四時くらいになって、突然雨が降ってきました。
「あ、時雨だ」と僕が言うと、「え、それは雪が混じった雨のことじゃないの?」と言われました。

いやそれは違うよと僕は言ったのですが、いいや私の方が正しいと言い続ける母親。
よく訊いてみると、どうやら母親は「しぐれ」ではなく「みぞれ」のことを言っていたようです。おお、「れ」しかあっていないぞ……。

まあ、そんなことがありまして。そのときふと思ったが、「夕立」と「時雨」はどう違うのか? ということです。
困ったときはとりあえずWikipedia大先生!ということで、その文章をそのまま引用させていただきます。

【夕立】
夕立(ゆうだち)は、夏の午後から夕方にかけてよく見られる天気。激しいにわか雨を伴う。まれに夕立ちとも

【時雨】
時雨(しぐれ、じう)とは、主に秋から冬にかけて起こる、一時的に降ったり止んだりする雨や雪である。
時雨が降る天候に変わることを時雨れる(しぐれる)ともいう。
「時雨」は漢語としては元来、「ほどよいときに降る雨」を意味し、転じて教化を比喩する。




ふーむ、なるほど。
まあ、「夕立」は字面からして、夕方ごろに降る雨なんだろうなあと思っていたのですが、これは正しいようですね。
「時雨」の方は、時間が関係ないみたい。さっきは夕方に降ってきたけれど、時雨の場合は夕方に降ってくるとは限らないのでしょうかね。

そして、もう一つ大木な違いは「季節」ですね。
「夕立」は夏に降る雨を指し、「時雨」は冬に降る雨を指します。
あれ、じゃあ春や秋に突然雨が降ってきたらどういうんだろう……と思ったら、「通り雨」とか「にわか雨」とかいう言葉がありましたね。

ううむ、日本語ってなかなか難しい。区別のつかない言葉はほかにもいっぱいありますよね。「ソーセージ」と「ウインナー」の違いはよくわからないし、僕には「バター」と「マーガリン」の違いだってよくわかりません。
あれ、なんかどっちも日本語じゃない気が……。

皆さんも、何か区別のつかない単語があったら、調べてみると新しい言葉の世界が開けるかもしれません。

「ら抜き言葉」は機能的な言葉なのではないかという僕の考え



みなさん、こんにちは。
今回は、少し日本語についての考察をしてみようと思います。

まずはみなさん「ら抜き言葉」というものをご存知でしょうか。まあ、知っている方が多いと思います。
可能表現である「~られる」から「ら」が抜けて「~れる」とする言葉遣いのことです。
具体的に言うと、「見られる」を「見れる」としてしまったり、「食べられる」を「食べれる」としてしまうということです。

まず確認しておきたいのは、「ら抜き言葉」が文法的に破格である、ということです。
つまり、正しくない日本語として認識されているのです。
でも、「ら抜き言葉」って市民権を得ているような気がしますよね。僕も、普通に使いますしね。ただ、レポートや報告書などの正式な文書に使うことはあまり好ましくないでしょう。


どうして「ら抜き言葉」って生まれたのかなあと考えたんですが、もしかしてそこには略語の思想があるんじゃないかなと僕は思っています。
例えば「ファミリーレストラン」は「ファミレス」になるし、「コンビニエンスストア」は「コンビニ」になります。「携帯電話」を「携帯」とわけのわからない形に略してしまう民族ですからね、僕たちは。言葉の省エネ化というのがどんどん進む国民性があるのかもしれません。

でも、省エネ化だけじゃないんですよね。例えば僕たちが「ファミレス」という言葉を使うときその背景には「ファミリーレストラン」という元の言葉があるのですが、「ら抜き言葉」を使うときというのは、その背景に「らが入った正確な言葉」というのは意識されていないことがあるんですよね。

これって、日本語がややこしいことが問題なんですよ。
英語で可能を表す表現といえば、”can”や”~be able to”を使いますよね。可能を表しているということは一目瞭然なわけです。

でも、日本語ってややこしいんですよね。
可能の助動詞には「る」と「らる」がありますよね。

例えば、「私は電話をかける」という一文の可能の文にするには、助動詞を使って「私は電話をかけられる」とします。

「私は電話を描く」の可能形となると、「私は電話を描ける」になる。

この「私は電話をかける」と「私は電話を描ける」は発音は一緒なのに意味は違うのです。それだけではなくて、一方は可能の文なのに、もう片方は可能の文になっていませんね。

日本語の仕組みを考えればこの違いというのはすぐにわかるのですが、瞬時に理解できるかと聞かれると、少し考えざるを得ません。

なんで「描く」は「描ける」と言えるのに、「見る」は「見れる」ではダメなのか。あなたは、その理由を即答することができるでしょうか。

「ら抜き言葉」は、このようなめんどくささから私たちをフリーにしてくれるのではないでしょうか。


また、同じ音の助動詞に複数の意味があることにも問題がありますね。

例えば、「私は電話をかけることができる」を助動詞を用いた可能表現で表そうとすれば、「私は電話をかけられる
となります。

この「かけられる」の部分だけを見た場合、①可能②受身③尊敬の三つになる。"can"のように意味を一つに決めることができません。

「私は電話をかけられる」全体で見れば、主語が「私なので③の意味であるというのはありえませんが、②の意味はまあ意味が通るでしょう。

しかし、これが「私が電話をかけれる」とら抜き言葉を使えば、②の可能性は消えてしまい、意味は①に確定するのです。

このような利便性から、私たちは「ら抜き言葉」を使っているのではないでしょうか。

冒頭でも述べたように、確かに「ら抜き言葉」は日本語として破格です。でも、規制のルールからはみ出してこそ、新しい日本語は生まれると思うのです。

「ら抜き言葉」がさらなる市民権を得る時代が、もしかしたらやってくるのかもしれません。それまでは、正しい言葉遣いをした方は得策ですけれどもね。


あなたは「ら抜き言葉」に対してどのような考えをお持ちですか?
皆さんの意見をコメント欄やTwitterなどでお待ちしています!