忍者ブログ
あとーすログに引っ越しました!

LiteraTech風見鶏

Home > ブログ > > [PR] Home > ブログ > 言葉 > 読みやすい文章とは何かを考える「ら抜き言葉」

読みやすい文章とは何かを考える「ら抜き言葉」

様々な種類の文章を書いていると、「読みやすい文章」とは果たしてなんだろうかと思うことがあります。
例えば、泉鏡花の文章を私は進んで読みたいなあと思うことはありません。何言ってるかよくわからないからです。

以下に、彼の代表作である『高野聖』の冒頭を引く。

参謀本部編纂の地図をまた繰開いて見るでもなかろう、と思ったけれども、余りの道じゃから、手を触るさえ暑くるしい、旅の法衣の袖をかかげて、表紙を附けた折本になってるのを引張り出した。
 「飛騨から信州へ越える深山の間道で、ちょうど立休らおうという一本の樹立も無い、右も左も山ばかりじゃ、手を伸ばすと達きそうな峰があると、その峰へ峰が乗り、巓が被さって、飛ぶ鳥も見えず、雲の形も見えぬ。
 道と空との間にただ一人我ばかり、およそ正午と覚しい極熱の太陽の色も白いほどに冴え返った光線を、深々と戴いた一重の檜笠に凌で、こう図面を見た。」
 旅僧はそういって、握拳を両方枕に乗せ、それで額を支えながら俯向いた。
 道連になった上人は、名古屋からこの越前敦賀の旅籠屋に来て、今しがた枕に就いた時まで、私わが知ってる限り余り仰向けになったことのない、つまり傲然として物を見ない質の人物である。


これはまだ読みやすい方である。
もちろん、当時の人々にしてみれば、これがよみやすい文体だったのかもしれない。
しかし、現代に生きる私にしてみれば、この文章を「味わい深い」と思うことはあっても「読みやすい」と思うことはない。

純文学ならばまだ読みにくくてもかまわないかもしれないが、大衆文学ともなるとそうも言っていられない。
どんな人にでも読んでもらえることが第一だからである。

それがブログなんかになったら、もっと人に読んでもらえる「読みやすい文章」を志向することが重要となってくる。

そこで、当ブログでは何回かにわけて、読みやすい文章とは何かということについて考えてみたいと思う。


第一回は、「ら抜き言葉」について。

ら抜き言葉については、以前当ブログでも自論を展開し、多くの反響をいただきました。
 →「ら抜き言葉」は機能的なのではないかという僕の考え

この記事でも述べているように、僕自身、ら抜き言葉は機能的な言葉だと思っているわけです。
しかし、現段階では正しい日本語ではないことも認めます。

では、「読みやすさ」ということを考えたときに、ら抜き言葉を使うことによる功罪について考えてみたいと思います。

まず、ら抜き言葉は口語的な言葉であるため、親しみが持てる文章になると思います。
レポートや先生へのメールなどではら抜き言葉を意識的に使わない人でも、SNSや友人へのメールなどでは、無意識にら抜き言葉を使う人もいると思います。

「今日楽しみにしてたテレビが見れなかった……」
「限定シュークリーム食べれなかったー!残念!」
などなど。

見られなかった、食べられなかったよりも、よりも親しみのある文章が書けると思うのですが、皆様はどう思われるでしょうか?

ただ、もちろん弊害もあります。
ら抜き言葉は本来の日本語てはないということに囚われ(ここではこういう言い方にします)、ら抜き言葉が出てくる度にひっかかってしまうという人も少なからずいるということです。

その気持ちは僕にもわかります。
単純なタイプミスや漢字の間違いが気になることというのは多々ありますからね。ら抜き言葉嫌いの人にしてみれば、それも「間違い」の一つなのでしょう。

というように、ら抜き言葉を使うことには一長一短があるように思います。
書く相手を考えて、使い分けるといいかもしれませんね。
PR

Comment0 Comment

Comment Form

  • お名前name
  • タイトルtitle
  • メールアドレスmail address
  • URLurl
  • コメントcomment
  • パスワードpassword