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入水した太宰へのメッセージ 坂口安吾『不良少年とキリスト』を読んだ

不良少年とキリスト


太宰治といえば、『人間失格』や『走れメロス』などを書いた作家として有名です。
僕のイチオシは『葉桜と魔笛』です。僕は太宰というのはナルシスティックである種気持ち悪い(そこがいいと思ってます)面が強いのですが、この『葉桜と魔笛』に関しては、もちろんそういう太宰っぽさを残しながらもそれを否定するという構図があるように思います。まあ。抽象的な話をしてもしょうがないのですが、これから読む人もいるかもしれないので、ぼかしておこうかなと思います……。

さて、本題に入りましょう。ある人の勧めで、坂口安吾の『不良少年とキリスト』を読みました。最初は安吾の歯痛の話から始まるのですが、概ねはその直前に入水した太宰へのメッセージとなっています。
いや、メッセージへというと変ですかね。「追悼」と言った方がしっくりくるかもしれません。とりあえず、そこには安吾の太宰への思いが込められています。

しかし、安吾は本当に様々な文体を使い分けますね。僕は読むたびに驚かされます。書くもののタイプが違うということもあるのでしょうが、僕が今までに読んだ(少なくて恥ずかしいのですが)『堕落論』『白痴』『風博士』そしてこの『不良少年とキリスト』は全く文体が違っている。
僕はこの文体、好きですね。親しみやすいし読みやすい。戦後に書かれたものなので、口語はかなり馴染みやすいものですね。その言葉遣いによって、安吾の気持ちというのは伝わりやすいものになっていると思います。

安吾は『不良少年』の中で太宰を「フツカヨイ」的であると指摘するわけですが、果たしてこの「フツカヨイ」とはなんなのでしょうか。
安吾はこう言います。
太宰は、M・C、マイ・コメジアン、を自称しながら、どうしても、コメジアンになりきることが、できなかった。
晩年のものでは、――どうも、いけない。彼は「晩年」という小説を書いてるもんで、こんぐらかって、いけないよ。その死に近きころの作品に於ては(舌がまわらんネ)「斜陽」が最もすぐれている。然し十年前の「魚服記」(これぞ晩年の中にあり)は、すばらしいじゃないか。これぞ、M・Cの作品です。「斜陽」も、ほゞ、M・Cだけれども、どうしてもM・Cになりきれなかったんだね。
「父」だの「桜桃」だの、苦しいよ。あれを人に見せちゃア、いけないんだ。あれはフツカヨイの中にだけあり、フツカヨイの中で処理してしまわなければいけない性質のものだ。
フツカヨイの、もしくは、フツカヨイ的の、自責や追悔の苦しさ、切なさを、文学の問題にしてもいけないし、人生の問題にしてもいけない。
死に近きころの太宰は、フツカヨイ的でありすぎた。毎日がいくらフツカヨイであるにしても、文学がフツカヨイじゃ、いけない。舞台にあがったM・Cにフツカヨイは許されないのだよ。覚醒剤をのみすぎ、心臓がバクハツしても、舞台の上のフツカヨイはくいとめなければいけない。


とりあえず、「父」や「桜桃」がフツカヨイ的作品だということがわかります。桜桃がフツカヨイ的ならば、僕は『人間失格』だってフツカヨイ的だと思います。というのも、僕は「フツカヨイ=気持ち悪さ」と捉えるからです。
世間体的にはいえないようなことを、フツカヨイ的状態だから言える、ということではないのでしょうか。しかし、そうするとフツカヨイって適切なんですかねえ。ヨッパライではなく、フツカヨイ。この辺は、もう少し論考をつきつめる必要がありそうです。まあ、それはまたの機会に。

とにかく、いい作品でした。太宰の人物像というものがよくわかる。是非、読んでみてはいかがでしょうか?
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