2014/01/24 Category : 文学 「つぶやく」という小さな単位の文学 僕は文学を専門に勉強していますので、「文学とは何か」ということをよく考えることがあります。文学の定義というのは様々です。小説や詩だけを文学と思っている方がいるかもしれませんが、例えば演劇や評論だって文学とする定義もありますし、中には「書く」という行為を通して生成されたものは全て文学だとする考え方も聞いた事があります。また、文学の意味というのも大きな問題でしょう。工学部なんかの勉強は、人々の役に立つことが明確です。インターネットの技術が発達すれば僕らはさらに高度に情報を収集することができますし、精巧なロボットが作られれば、僕らの生産性はより大きくなることでしょう。しかし、文学は研究したりしたからといって、すぐに何か役に立つというわけではないんですよね。本当は様々な意味があるのだと僕は思うんですけどね……。例えば、よく言われるのは「追体験」ということですね。僕らは小説なんかを読むことによって、その世界を体験することができます。未知の何かを「体験」することになるのです。体験というのは僕らが宝としなければならないものです。僕らは過去の体験によってガスコンロに点火する方法を知っていて、お金を払わなければ水が得られないことを知り、NHKの公共料金は払わなくてもいいのではないかということを知るのです。(もちろん、その体験の成果が正解か不正解かはわかりませんが)。小説で体験したことも、必ず僕らの人生の中で役に経つはずです。恋愛小説を読めば、恋愛に対する考え方を育てることができます。また、享楽の作用もあるでしょう。これは芸術と同じような作用ですね。僕らはただ純粋にその世界を享受して、楽しいと感じるのです。教育的な場面もあります。歴史を学ぶ際にただ史実を並べられてもつまらないですが、例えば新選組のことを小説やドラマにすれば、多くの人が楽しんでそれを見ることができ、しかも新選組がなんたるかと知ることができます。これには「ストーリー」というものが大事なのですが、このストーリーを構成するというのは、いわゆる文学の役割のような気がしています。さて、僕はですね、文学の最も重要な役割というのは、「折り合いをつけさせること」ではないかと思っています。僕らは色々なところで悩みます。身長が伸びねえなあとか、成人したのにまだ童貞だよとか、友達が少なすぎる、だとか。そういうことに折り合いをつけることができるのが文学ではないでしょうか。例えば小説の主人公が成人して童貞であれば、童貞の人も「ああ、そんなもんか」と安心することができでしょう。このままでいいかと、折り合いをつけることができるわけです。反対に、早めに初体験を済ませてしまった女性がいるとします。私早すぎたかな……と思っても、漫画で早期の性体験が肯定されていれば、その女性は「別におかしくはない」と折り合いをつけることができるでしょう。そう、漫画も文学ということができるのです。その他、僕らは様々なところから情報や考え方を受け取ります。週刊誌を読むでしょうし、街頭に貼ってある啓発ポスターを読むでしょう。これらには視覚的要素が入るので、他の近接する分野と複合した形の文学といえることができます。そのように考えると、Twitterというのは多分に文学的な要素をもっているように思うのです。まず、書くという行為がその根底にはあります。書くことによって、自分のつぶやきを見ている人に対してメッセージを送っているわけです。これらに写真やリンクが伴うことがありますが、これも週刊誌や漫画などと同じように複合型の文学ということができるでしょう。村上春樹だって、自分で描いた絵を挿入していますしね。顔文字はどうでしょうか。顔文字というのは非常に優秀な思考伝達のツールだと思います。感嘆符や疑問符と同じように使われる文学があっても良いと思います(それが携帯小説という形で世に出たことがありますね)。顔文字というのは、文脈によって意味が変わってきます。「嬉しい(^ω^)!」という文面一つにしてみても、その前後の関係で本当に嬉しいのかはたまた皮肉として言っているのかが変わってきます。そういう面で言いますと、他の表現方法と同じではないかなあとも思うのです。故に、顔文字が付随するつぶやきも「文学」と定義することができるのではないでしょうか。僕はRTされた呟きを見て、生きるためのヒントを得ることがあります。「そうか、そういう考え方があるのか」と思うときがあります。その感覚が「折り合いをつける」ということであり、僕が考えるところの「文学」の効力とぴったり一致するのです。知ろうとが考えたことだからといって、それを軽んじるべきではないと思います。有名な作家が、いつでも素晴らしい作品を書くとは限らないこととは反対のことです。それをどう受け取るのかということは、受け取り側の問題なのだから。形式的に見るならば、制限次数が140字というのも面白いところですね。これは俳句なんかの定型詩と似た要素を持っています。制限があるからこそ、人々は工夫をして、それに合致するような作品をつ繰り出すわけです。制限がなければ、人は動かないでしょう。僕らは旅行に行こうというような具体的な目標がなければお金を貯めることは難しいですし、試験がなければ勉強をしないでしょう。制限というのは、反対に動機にもなりうるわけです。適度なストレスは原動力になるのです。さらにTwitterは、いい物は長期的にRTされ続ける上にTogetterやまとめサイトなどにキュレーションされる反面、すぐに相互的なレスポンスをすることができます。反対の意見を持つならば、それに反応することで、また違った意見を得ることができるかもしれません。そうして、新たな地平が見えるということは、まさに文学の本質なのです。ブログなどではコメントがしづらい。しかし、Twitterなら気軽にリプライすることができます。そう言った意味でも、非常に優秀なのです。Twitterの文学性というものについてだらだらと書きなぐって見ました。何かご意見などありましたら、コメントをよろしくお願いいたします(もちろん、Twiterアカウントへのリプライでも構いません!→ATOHSaa関連記事 →衒学とナンセンス 坂口安吾『風博士』を読んだ →風刺という実用的かつ娯楽的なもの 星新一『午後の恐竜』を読んで →劣等感との付き合い方 ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』を読んで PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword