2013/12/29 Category : 文学 劣等感との付き合い方 ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』を読んで 久しぶりに小説を一気読みしたような気がします。アルジャーノンに花束を。日本でも、ユースケ・サンタマリア主演でドラマ化されたことがある作品です。ううむ、ドラマの方も見てみたい……。作品の出来も上々です。僕はもともと翻訳ものがあまり好きではなくて、これまで読んでこなかったんですが、外国文学もなかなかいいものが揃っていますね。これを機に、色々と読んでみたいと思います。この作品は、特に構成がよかったように思います。描写は、やや唐突な場面が多かったように思いますし、少し綿密さに欠ける部分はあるかなあという気もしました。最後の方はあまり気にくわないんですよね。というのも、僕はあまり綺麗な人間が出てくる小説というものが好きではないから。なんか、途中はいい感じで汚れていたのに、最後は急に良い人間になっちゃうんですよね。変に感傷的になってしまうというか、なんかそんな感じです。まあ、全体の感想はそんなところなんですが。僕はこの作品を読んでいる途中で、「劣等感」について様々なことを考えました。主人公のチャーリイは脳の手術を受けて白痴から天才になるわけなんですが、その段階で、ヒロインがチャーリイに劣等感を抱く場面があります。自分が一生懸命勉強してきたことを、天才のチャーリイは「何を子供みたいなことを……」というような態度を取ってしまうのです。また、教授たちに対する失望の場面というのもありました。ある分野の権威であっても、意外と多くのことは知らないということに失望してしまうのです。劣等感については僕の中学校の頃からのテーマでした。僕自身も小説を書くのですが、初めて書いた作品はまさに劣等感ということを描いておりました。うーん、懐かしい。今読んだら、発狂してパソコンの画面に蜘蛛の巣つくりそうですけれどもね!例えば勉強ができなかったり、ギターが弾けなかったり、なんか、常にコンプレックスを抱えて生きていた気がします。それは今も続いていて、自分より物を知っている人にであうと悔しいですし、面白い小説や脚本を素人が描いていると、嫉妬したりしてしまうんですよね。今回のチャーリイの描写を見て、僕はそんな悔しいとか嫉妬のいうような気持ちを思い起こしていました。でも、こういう場面で劣等感を感じるということは当然のことであり、生きていく上で重要なことではないかと思うんですよね。他人にとって小さなことが自分にとって大きなこと、ということは多々あるわけで、特にこの劣等感の問題はその最たるものだと思うんです。頭がよくなったとしても、他人のことが思いやれなければやっぱり駄目なんじゃないかなあと思います。相手に不要な劣等感を植え付けないことを僕は徹底してやるようにしています(これがなかなか難しいんですけどね)やっぱり、人間ですから自慢したいだとか何かをひけらかしたいという欲はあると思うんです。でも、飲み会の席で自慢話をする人って嫌われるじゃないですか。あれって、少し劣等感と関係があると思うんですね。劣等感を植え付けられる話というのを、人は嫌うんだと思うんですよね。だから、なるべくそういう話を控えるというのが大人の対応だと私は思っています。さて、この劣等感から解放されるためにはどうしたら良いのか。それほど好きじゃないやつだったら無視すればいい話なのですが、問題は自分の好きな人によって劣等感を感じる場合です。この場合は、離れようにも離れられないんですよね。これって結構深い問題で、映画や漫画の葛藤のシーンにも取り上げられている気がします。ソラニンなんかは、なんかそういうのが渦巻いてたなあ。好きな人に劣等感を感じてしまった場合は、素直にそれを伝えてしまうのも手かなあと思います。何かが起きる前に伝えれば、相手が分かってくれることもあるかと思いますし。あとは、自分も相手に劣等感を植え付けないように気をつけることですね。無意識化で仕返しの機能が働いてしまうこともあるので。己の欲せざるところなんとやらです。まあ、劣等感という感情とは恐らく一生付き合っていくことになるとは思うんですけどね。あなたは、劣等感とどのように付き合っていますか? よければコメント欄でお聞かせください! PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword