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自然主義文学とは?~欧米と日本における違い~

「自然主義文学」という言葉、一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。
日本では島崎藤村の『破戒』田山花袋の『蒲団』といった作品が代表として挙げられますね。

しかしこの文学形態に関しては、欧米(特にフランスとその近隣国)と日本とで大きく定義が異なります。

今回はこの経緯について説明したいと思います。


そもそも「自然主義」とは、フランスの作家エミール・ゾラが提唱したものです。
彼は自然科学の視点から人の一生を紐解き、それを小説という形にしようと試みました。
言わば文学と自然科学のコラボですね。

具体的にはどういうことかと言うと。

彼は『ルーゴン・マッカール叢書』という一連の作品群を書いたことで知られています。
中でも代表作は『居酒屋』と『ナナ』。

『ルーゴン・マッカール叢書』は、当時のフランスのあらゆる階級の人間の一生を、主に血統と環境要因から説明しようとしたもの。
例えば、「あの人はここの血筋に生まれたから不幸になったのだ」とか、あるいは「この地に生まれたからにはこうならざるを得なかった」とか、人生の中で起きる様々な事象に、ゾラは明確な理由を与えようとしたのです。

当時からすればかなり実験的な作品です。
しかし、生活環境はともかく、血統で人生が決まるというのはなんだか嫌な感じがしますね…。

これらの作品を書く際、ゾラは真実の人間の姿を描くため、文学的「美化」というものを徹底的に排除します。
それどころか彼は悲惨な労働階級の現状を、忠実に、そして露骨に表現しました。
(例えば『居酒屋』では、優美な観光地であるはずのパリの街がこれでもかと言う程貶されています……。)

芸術=美しいものと思っていた人々はビックリしますよね。
彼の作品については、当時のフランス国民の間で賛否両論でした。
一部からは激しい非難を浴び、社会問題にまで発展します。


そしてそんなゾラの作品は、後に日本の文学界にも大きな影響を与えます。
しかし一つ残念なことが。
それは、ゾラの「自然主義」を取り違えてしまったことです。

ゾラは確かに人間の「あるがまま、真実の姿」を描こうとしたのですが、それはあくまで「自然科学の視点から人の一生を説明するため」です。

それが日本では、単に人間の本質をあからさまに描こうという試みだと捉えられてしまったのです。
そのため、日本版自然主義では人間の愚かで恥ずかしい内面を暴く、ということに徹しています。田山花袋の『蒲団』はまさにその代表例ですね。

これはこれで一つのブームになったのですが、当然すぐに衰退します。


もしも日本でもゾラと同じ手法が流行していたら、どのような作品が生まれていたのでしょうか?
想像もつかないですね。
しかし意味の取り違えによって数々の名作が生まれたということを考えると、一概に「読み違え」が悪いこととも言えない気がします。


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