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名作を読む 芥川龍之介「羅生門」

多くの人が、この作品の初読は高校の現代文の授業ではないでしょうか。
もちろん、私も高校で初めてこの作品を読みました。

例えば泉鏡花や漱石の『草枕』などが出てきて、それを高校生が読み通すということはとても難しいことでしょう。

しかし、芥川の文章は読めます。辞書を引かずとも、ほとんどはっきりとその輪郭をつかむことができるでしょう。

また、辞書を引くことで、さらに古き良き日本語というものを知ることもできまs。
この点が、「羅生門」が高校教科書に採用される要因となっているのではないでしょうか。

もちろん、この作品は内容面でも優れていると思います。
高校生といえば、自分の善悪の判断が正しいのか悩む時期ではないでしょうか。
この作品は、善悪の判断には基準などない、決めるのは自分自身だということを教えてくれているような気がします。

まずは、話の筋を追ってみましょう。

雨が降っている日のことです。羅生門の下に一人の下人が立っています。
この下人、不況の余波をくらって先日奉公先に暇を出されたばかり。食べるのにも困る生活をしていたのです。
下人は、盗人になるか、盗人になるくらいならいっそ餓死しようか逡巡します。

なんとか寝る場所を確保しようと、下人は羅生門の上にあがっていきます。そこは、死体遺棄場となってしまっているのですが、背に腹は代えられません。

上へ上がると、その臭気に思わず鼻をつまむ下人。
しかし、その臭気もすぐに飛んで行ってしまうような衝撃が下人を襲いました。
老婆が死人の髪を抜いているのが目に入ったのです。

彼の心に、悪を憎む気持ちが芽生えました。先ほど自分が盗人になろうかと悩んでいたことなど、忘れてしまっています。

下人は老婆に飛びかかり、ここで何をしているのかと聞きます。
老婆は、カツラを作るために髪の毛を抜いていたのだと言い、今髪の毛を抜いている女は悪女だと強調したうえで、こう弁明します。

「わしは、この女のした事が悪いとは思うてゐぬ。せねば、餓死をするのぢやて、仕方がなくした事であろ。されば、今又、わしのしてゐた事も悪い事とは思はぬよ。これとてもやはりせねば、餓死をするぢやて、仕方がなくする事ぢゃわいの。ぢやて、その仕方がない事を、よく知つてゐたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」

その言葉を聞いて、下人はこう言います。
「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もさうしなければ、餓死をする体なのだ。」

そして、下人は老婆の着物を剥ぎ取り、走り去っていきます。
最後の一文は有名ですね。
「下人の行方は、誰も知らない。」


さて、この話で最も注目すべきは、上でも述べたように善悪観や倫理観といったものだろう。

あなたは、この老婆の行動や言い分が正しいと思いますか?
また、この下人の行動や言い分が正しいと思いますか?

私は、正直これじゃいけないよなあと思います。
というか、こういう考え方の人が世の中に溢れていたら、今頃大変なことになっているんじゃないかなあって。

例えば。今朝あなたが自転車をドミノ倒ししてしまったとします。
急いでいなければ、起こしますよね?
例えばもし急いでいてそのままにしたとして、罪悪感を持ったままその場を去ると思いまs。
そして、次のひ時間の余裕があるときに他の誰かがドミノ倒しをしていたら、あなたは喜んで自転車起こしを始めるのではないでしょうか。罪悪感から逃れるために。

罪悪感。不確定なものながら、この感情の持つエネルギーというものは大きいです。
下人も最初は罪悪感を持っていて、ゆえに盗人になる決心がつかずにいたのです。

ただ、下人は不幸でした。その罪悪感を失ってしまった老婆と出会ってしまったからです。
……いや、不幸かどうかはわかりませんね。だって、下人はここで老婆と出会っていなければ餓死を選んでいたことでしょうからね。

ドミノ倒しでは死なないけれど、ここでは「死」というものが絡んでくるのです。

「死」は物語に深みを出す魔法なのではないかと常々思っています。おそらく、「恋」も魔法の一つでしょう。

どれだけ高尚なことを述べたところで、人間の悩みというのは、すべて「死」と「恋」に集約されてしまう気がするのです。

さて、この大きな「死」に直面すると、私たちは大事なものが見えてきますね。
命を賭してでも守らなければならないことは何か。
僕には子供がいないので、命を賭けて子供を守ろうとする人々の気持ちがわかりません。
ただ、自分の好きな人のために死ぬ気持ちというのは、なんだかちょっとだけわかる気がするのです(もちろん、死に直面してみないとわからないなあとは思います)。


さて、内容はこれくらいにしまして。
手法でちょっと気になったところを取り上げていきたいと思います。

まず、下人が羅生門の楼の上に出る場面。
「それから、何分かの後である。羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫のやうに身をちゞめて、息を殺しながら、上の容子を窺つてゐた。」

ここで、おや? と思いました。この「男」というのが誰を指すのかわからいのです。
もちろん、少し読み進めていけばこれが誰なのかすぐにわかります。先ほどまで登場していた下人です。
しかし、先ほどまで「下人」と呼ばれていた彼が、突然「男」と呼ばれたのはなぜなのでしょう。違和感がありますね。

これは三人称小説(神の視点)だから成せる業でしょうが、「羅生門」は非常に視点の移動が多い小説です。
最初は下人の姿や心に焦点を合わせていたのだが、時には老婆に焦点が移ったりして、最後にはなんとずっと追いかけていた下人の姿とも心ともおさらばするのです。「下人の行方は誰も知らない」
私たちは、知らずしらずのうちにこの構成に魅せられているのですね。

また、冒頭近くで出てくる鴉も印象的です。この動物は、どうしてこんなに強い印象を我々に与えるのでしょうか。

鴉と言えば、長州藩士の高杉晋作が作った都都逸「三千世界の鴉を殺し 主と添い寝がしてみたい」が真っ先に私の脳裏には浮かびます。

また、太宰の書いた「竹青」も鴉の話でしたね。

「鴉の文学」というのはまだ研究されていない分野なのではないでしょうか。
今後調べてみるとともに、先行研究がなければ、研究してみても面白そうですね。
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