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自発的に動くということ 伊丹万作『演技指導論草案』を読んで

先日、伊丹万作の『演技指導論草案』を読みました。
伊丹万作は戦前の日本を代表する脚本家・映画監督・俳優であり、ノーベル賞作家大江健三郎の義父にあたる人物です。

恥ずかしながら、彼の脚本や映画というものを僕は全く知らないのですが、「演技とは何か、創作とは何か」を考える上でこれを青空文庫で読んだので、読んでみた感想というか、気づいたことを書いていこうかと思います。



リーダーは一番働け
まず、全体を通して僕が感銘を受けた言葉がこちら。
演出者が大きな椅子にふんぞりかえっているスナップ写真ほど不思議なものはない。病気でもない演出者がいつ椅子を用いるひまがあるのか、私には容易に理解ができない。

これは、映画や演劇だけにいえることではないと思います。
演出家というのは、舞台や映画の全体を決める重要な役割を担っています。これを一般的な社会に置き換えるならば、リーダーと呼べるものになるでしょう。

演出家の意向次第で、様々なことが変更されます。照明のあたり方や音響、小道具や俳優の演技も変わってしまうのです。
演出家は頭脳的な役割を担っているということもできるでしょう。

そんなリーダーであり、頭脳的な役割を担った人が、あまり自分では働かないという場面に私はよくでくわします。

自分は指示さえ出していればいい、自分は考えてアイデアさえだしていればいい。
そう考えている人、あなたの周りにもいませんか?

しかし、リーダーというのは、誰よりも動かなければいけない人だと思います。
自分が受け持った仕事のすべての知識を得て、すべての仕事を理解すべき存在なのです。
そんな人が椅子にふんぞり返っている暇など、確かにないなあと思います。

つまり、リーダーは一番働く者であれ、ということです。
僕は今度舞台の演出を務めることになるので、この言葉は肝に銘じておこうと思います。


偶然を排除せよ
伊丹万作は次のように言います。
 演技の中から一切の偶然を排除せよ。
 予期しない種々な偶然的分子が往々にして演技の中へ混じりこむ場合がある。
(中略)演出者の計算にははいっていない偶発的なできごとは一切これを演技の中に許容しないほうがよい。ところが我々は実際においては、ともすればかかる偶然を、ことにそれが些事である場合には、いっそう見逃してしまいたい誘惑を感じる。
 そしてその場合、自分自身に対する言いわけはいつも「実際においてもこういうことはよくあることじゃないか」である。

うーん、なるほどなあと思いました。
僕らは、生きる上で常に偶然とともに生きています。
その中で、偶然の出来事が笑いになることを知っています。

例えば自己紹介をするときに、自分の絶妙な噛み方で笑いをとることができたり、ナイスタイミングでくしゃみが入ることで、それが空気を和ませることがあります。

しかし、意図的に人を楽しませたり場を和ませたりしたいというのならば、これは偶然に頼ってはならないのです。

例えば、プレゼンをしなければならないとしましょう。
場を和ませるために、いわゆる"つかみ"というものが大事になっています。

この"つかみ"ですが、はじめから準備しておかないと、ほぼ間違いなくすべります。

お笑い芸人なんかだと気の利いたセリフをとっさに言うこともできるでしょうが、彼らだってはじめは「漫才」や「コント」といった、台本のあるものからはじめているのです。

言葉の瞬発力というのは一朝一夕で習得できるものではなくて、それを習得するまでは、事前に準備するということで修練を積まなければならないのです。



演出のメソッドは、実生活でも役立つことが多い


人間が創造的な生き物であるという性質ゆえ、演出の方法論というのは、実生活でも役立つものがあります。

リーダーは偉そうにしてはならないし、事前の準備を怠ってはならない。

当たり前のことも、こうしてみると説得力を持つように思います。
ああ、ぼくも実践しなければ!
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