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松山幸雄 『「勉縮」のすすめ』を読んだ

朝日新聞社から出ている松山幸雄氏の『「勉縮」のすすめ』を読みました。
氏は旧制高校で青春時代を過ごし、東大法学部を卒業後、朝日新聞に入社。政治外交が専門であるが、この本では、日米の教育の違いに焦点が当てられている。

本書のタイトルにある「勉縮」とは何を指しているのだろうか。
もちろん、勉強をしなくても良いということではない。しかし、氏が日本人に「あまり勉強をしすぎるな」と言いたいことは確かである。

日本人は受験戦争に対応して詰め込み教育を強いられている、というのは現代も言われることであるが、この本の中でもほとんど同じようなことが書かれている。
ちなみに、この本の初版は昭和56年である。数十余年経って、日本が前進しているなあということを実感することはできない。

もちろん、日本政府だって対策を怠ってきたわけではないだろう。
その結実が、いわゆる「ゆとり教育」であったと言える。
しかし、このゆとり教育は失敗に終わった。さらに学力の低下を招くという事態を招いてしまった。

日本の何がまずかったのか、私には何とも評することができない。
ただ、その間違いを指摘するような論点が、この『「勉縮」のすすめ」に隠されているような気もしている。


本書は教育の重要性というのを、様々な角度から捉えている。そしてそれは、主に日米との比較の中で語られる。
例えば、ユーモアについて、女性への態度について、酒との付き合い方について、などなど、本当に多岐に渡ってる。

日本人は往々にしてユーモアの精神に欠けている。それに代わって、上司の太鼓持ちをする精神に長けているのだ。
そのような鋭い指摘が、この本の中には散りばめられている。

ユーモアの精神に欠けているということは、すなわち教養がないということではないかと私は思う。
そして、氏も日本で教養人をつくりだすことの重要性を説いている。

教養人とは何であるか。そこに「勉縮」という概念が必要なのだ。
確かに、日本ではゆとり教育が失敗した。しかし、だからといって詰め込み型の教育にまた戻れば良いとは思わない。

もっと、勉強時間を維持しながらでもできることはあるはずだ。
例えば、テレビを見る時間を減らすだとか。

クリエイティブな感性を養うのにテレビが不要だと私は思わない。
人を楽しませるということについてブラウン管の向こうの人々は一級の技量を獲得しているといえる。
彼らには「ユーモア」があると言ってもいい。教養があるようにも思う。

しかし、やはりそれだけではいけない。
テレビを見ることはやはり(乱暴な言い方になるが)「低俗」なことであると言わなければならない。

「低俗」なことも必要であるが、それとバランスを取るために、「高級」なことも必要なのではないだろうか。

例えば、化石の研究をしてみたり、植物の名前を知ろうと努めたり、先人の教えに感動したり、などだ。
このような高級な試みが、教養人を生み出すように思う。

ただ、私はこれをある程度の自虐をこめて言わなければならない。
何故かといえば、このようにブログを書くなどと言う行為は、やはり「低俗」と言わざるを得ないからだ。

しかし、私は低俗の必要性がないとは言っていない。
人生を円滑にするためには、低俗なことも必要なのである。みなさんの息抜きのために、僕の低俗な作業がお役に立てれば、これほど光栄なことはありません。

なお、氏はこの本の中で「差別用語」やジェンダーの問題についても取り上げられていました。
それについて過去にいくつか記事を書いていたので、ご参考までにお読みくだされば幸いに思います。
 →読みやすい文章とは何かを考える 「差別的表現」
 →【接触/非接触の問題】男女混合スポーツをジェンダーとセクシュアリティの視点から考える


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